日本では夏の甲子園の開催の可否が話題ですが、台湾プロ野球の球場に今年から日本の「甲子園歴史館」の広告ロゴが掲示されました。台湾野球と甲子園は浅からぬ因縁があります。今から100年ほど歴史を遡り、そこから再び下って21世紀の今、私・葛西健二へと繋がる細い道をご紹介しましょう。, マウンド上で挨拶した陳時中部長(中華職棒CPBL youtube チャンネルから), 新型コロナウイルスの感染拡大防止に成功した台湾では、4月12日からプロ野球が無観客試合で始まりました。5月8日には各球場1000人の上限付きで入場が解禁。15日の試合からは上限が2000人に引き上げられ、正常化に向けて着実に歩みを進めています。, 5月8日には新型コロナウイルスの最前線で戦う「鉄人部長」の陳時中衛生福利部長が富邦ガーディアンズ本拠地の新荘野球場に登場し、挨拶しました。感染者ゼロを表す背番号「0」のユニフォームを着用し話題になりましたが、ここでもう1つ話題になったのが、バッターボックス後方にある「甲子園歴史館」の広告ロゴです。, 左上に甲子園歴史館の広告(中華職棒CPBL youtube チャンネルから 5月17日 楽天対富邦), 台湾でも甲子園は有名です。1つには甲子園を本拠地とする阪神タイガースで、多くの台湾人選手が活躍したことがあるのでしょう。過去に郭李建夫(在籍1993-1998)、林威助(2004-2013)、鄭凱文(2009-2012)、現在は呂彥青(2018-)が所属しています。, 「甲子園歴史館」はその名の通り、甲子園球場内にあります。台湾からの来館者は年間約1万6000人(阪神タイガースHPから)と多く、それもあって2016年から阪神タイガースの主催試合で「台湾デー」を開催することになりました。, 昨年は6月19日、20日の交流戦(楽天)で実施。最近、日本でも人気が出ているチュンチュン(本名:呉函峮)らの中華職棒CPBLのチアリーダーとのコラボ活動や、台湾グッズやグルメ提供などでファンを喜ばせています。, 今回の甲子園歴史館の看板掲載については富邦ガーディアンズ側から申し出をしたということです。無償での掲示らしく、陳昭如オーナー補佐は「日本のプロ野球にエールを送っている。甲子園球場で野球が開催される日を楽しみにしている」と述べました。, 甲子園を有名にしたもう1つの要因は2014年の映画「KANO」(馬志翔監督、魏德聖製作)でしょう。今から89年前の1931年(昭和6)の夏の甲子園(第17回全国中等学校優勝野球大会)で、当時、日本統治下にあった台湾代表として出場し準優勝した嘉義農林学校(現国立嘉義大学)野球部の活躍を描いた作品です。映画の記録的ヒットにより多くの人が甲子園を認知し、甲子園博物館の来館者の増加につながっているようです。, 「KANO」には、当時の台湾南部の嘉義で嘉南大圳(かなんたいしゅう=ダムを含む農水施設)建設に取り組んでいた日本の水利技術者八田與一氏が登場します。演じたのは大沢たかお氏です。, 嘉南大圳は1920年に着工、10年の歳月をかけ1930年に竣工しました。この水利工事により建設された烏山頭ダムと二水系(曽文渓と濁水渓)の接続、そして細かくはりめぐらされた水路の設置によって、灌漑施設の不足のため常に旱魃の危険にさらされていた嘉南平野は台湾有数の穀倉地帯に生まれ変わったのです。, 八田與一氏は1942年灌漑調査のため船でフィリピンへ向かいますが、同年5月8日、アメリカ軍潜水艦の攻撃により撃沈され亡くなりました。そして外代樹夫人も終戦直後の1945年9月1日、夫の建設した烏山頭ダムで投身自殺を遂げたのです。, 烏山頭ダムの傍らには自らが指揮し作り上げたダムを見下ろすように八田氏の銅像が設置されています。この銅像は嘉南大圳の竣工により恩恵を受けた住民が制作したもので、1931年に設置されました。その後、台湾を接収した中華民国政府は蒋介石政権時代の1949年から、日本統治時代の建物や石碑、像などを取り壊し始めました。しかし、八田氏の銅像が破壊されることを恐れた地元の人々はこの像を人目につかないところに隠したのです。その32年後の1981年、銅像は再び元の場所に戻され、今に至っています(以上、八田與一氏関連は台灣史小事典、呉密察著、台北:遠流出版社から)。, 八田與一氏は今でも「嘉南大圳之父」と呼ばれ、台湾でその功績が称えられています。1997年から2003年まで中学校用国定教科書として用いられた「認識台湾 歴史編」には、日本植民統治時代の農業改革として八田氏の業績に関する記述がありました。, 命日である5月8日には毎年烏山頭ダムの銅像に献花が行われます。日本からの血縁者や知人も参加。過去には陳水扁氏、馬英九氏、蔡英文氏らの歴代の総統も献花に訪れています。今年は嘉南大圳100周年という節目の年でしたが、新型コロナウイルスの影響で日本側の参加は叶わず、規模を縮小しての開催となりました。, 注目したいのは民進党、国民党双方がその功績について共通の歴史認識を持っていることです。政治的立場にかかわらず、一貫した台湾人の認識という点で重要であると思います。私が思うに、日本の台湾統治政策には良い点、悪い点どちらも存在します。政策の全てが植民地台湾の為を考えて行われたのではありません。, しかし嘉南大圳竣工のもたらした恩恵と八田與一氏の功績は、現在の台湾では高い評価を得ています。ここからは偉人に対する尊敬の念を忘れない台湾人の道徳観、過去の歴史を見つめ、「(もたらした影響が)良いものは良い」という柔軟な考え方を感じ取ることができます。固定観念にとらわれず、合理的な思考法ができると言っていいのかもしれません。, 前置きが長くなりました。この100年の歴史に私がどう関係してくるのかという点です。実は私は映画「KANO」に出演しています。嘉義農林学校の教師役として、劇中で野球部の生徒に八田與一氏の灌漑事業への取り組みを力説する役です。, 2020年に「甲子園歴史館」の広告を見た私は、台湾プロ野球ー甲子園ー阪神タイガースーKANOー嘉義農林ー嘉南大圳ー八田與一氏と続く連想ゲームの終点に我が身を置ける幸運を思いました。, 1998年に台湾にやってきた時に、誰がこんな人生を想像できたでしょうか。「甲子園歴史館」の広告を見ながら、一人、私は頰を緩めた次第です。, 京都産業大学外国語学部中国語学科、淡江大学(中華民国=台湾)日本語文学学科大学院修士課程卒業。1998年11月に台湾に渡り、様々な角度から台湾をウオッチしている。. 【逆転】暴落NTT株を24万円買ったらさらに暴落 → 2カ月売らずに持ってたら奇跡が起きた!, 【衝撃】西友『みなさまのお墨付き 5種のチーズピザ』と競合ピザを食べ比べてみた結果 → 思った以上に差があることが発覚!, 【実録】突然「声が出るよ」と書かれた謎の段ボールが届いた → 開封してみた結果 …, 【100均検証】ついに『ダイソーオンラインショップ』がオープンするも「これじゃない感」がハンパない, 【突撃】倒産で10月3日に上場廃止「Nuts」の株を “1万株” 買ってみた結果 → 初めて儲けが出た! その額なんと……, インドのレトルトカレーが375円だけど具ギュウギュウ! 本格インドカレーが手軽に味わえる「マザーズレシピ」, ベルリンの壁崩壊から30年 … 普通の日本人が現地へ行ってみて感じたこと / 今日は『ドイツ・運命の日』, » 【感動野球ヒストリー】日本人も知らなかった! 戦前の甲子園で台湾の高校が準優勝していた / 当時の日本に感動を起こした「嘉義農林学校(KANO)」. この秋に行われるプレミア12は、来年の東京オリンピックの予選も兼ねている。アジア・オセアニア地区に関しては、日本を除く最上位の国が参加権を得ることになり、同地区から韓国、台湾、オーストラリアが出場するが、どの国にとっても厳しい戦いになりそうだ。, 台湾にとっては、国際社会における立ち位置(自らを「中華民国」と名乗り、中国の正統政権であることを中華人民共和国と争っている)から、国際スポーツ大会は、自らのアピールの場として非常に重要であり、「お家芸」である野球での東京オリンピック出場は悲願であろう。, 日本から伝わった「棒球」は、台湾にとって国威発揚のツールとなっている(2011年アジアシリーズ, 桃園球場), この島がかつて日本領であったことは、ほとんどの人が学校で学んでいるだろう。1895年(明治28)、日清戦争の講話条約である下関条約が結ばれたことにより、1945(昭和20)年の太平洋戦争敗戦まで、台湾は日本の一部となっていた。, 明治30年代末には台湾各地でゲームが行われていたというから、日本領となって間もなく野球はこの島に伝えられたと考えられる。1906(明治39)年には、最初の本格的なチームが総督府国語学校附属中等部に作られた。, その3年後に最初のクラブチーム、高砂倶楽部が発足すると、野球熱が全島を覆い、大会も行われるようになった。1914(大正3)年には北部野球協会、1920(同9)年には台湾体育協会野球部が設立され、台湾野球は組織化されてゆく。, 一方で、大正時代には、日本から早稲田大学をはじめとする複数の大学やセミプロの大毎野球団、アメリカからもマイナーリーガーで編成されたチームが台湾に遠征にやってくるようになった。, 大正初期において、台湾在住の日本人が行う野球であったが、昭和に年号が変わると、中国系住民(台湾人)や「原住民」と現在呼ばれている先住民の間でも行われるようになった。 そんな中、東京2020オリンピックマラソン代表選考レースがこれから続々と開催されます。
高校球児の夢であり目標である高校野球選手権大会こと「甲子園」。毎年、数々のドラマを見せてくれる夏の甲子園は2014年で96回を数える。, そんな歴史ある大会のうち83年前に行われた1931年の第17回大会が注目されている。なんとこの大会、台湾の高校が甲子園に出場、しかも初出場にも関わらず次々と強豪を倒し決勝にまで進んでいたのである。その学校の名前は「嘉義農林学校(かぎのうりんがっこう)」。通称「嘉農(KANO)」だ。, 嘉義農林学校は、台湾中南部の現・嘉義市にあった農業系の高校だ。2000年に大学に昇格し、国立嘉義大学と改称されている。, その嘉義農林野球部は、日本統治時代(1895~1945年)に春に1回、そして夏に4回甲子園に出場。初出場のストーリーが映画化され話題となっているのだ。そして先日、6分間の予告ムービー「《KANO》六分鐘故事預告」が公開され、予告編だけで泣けると更なる注目を浴びている。, 予告編を見て「あれ?」と思った人も多いだろう。台湾映画なのに、日本人役も台湾人役も全て日本語で会話しているのだ。それは、映画と舞台となった日本統治時代は現地では日本語教育が行われていたからだ。, 嘉義農林野球部の最大の特徴は原住民、中華系住民、日本人の混成チームであったことだ。当初は弱小チームだったが、元愛媛・松山商業監督の近藤兵太郎氏の特訓により強豪校になったのだという。, 日本人選手がチームを引っ張ったのでは、と思いがちだが、第17回大会に出場したレギュラーは原住民の方が多かったとか。チームはどの民族が優れているなどではなく、完全に実力主義で、これは他校にはない嘉義農林だけの特色だったという。異なる民族の若者がひとつの目標に向かって奮闘する姿は、ひとつの理想の形であり、シンボルでもあったのかもしれない。, そして、出場した1931年夏の甲子園! 過去にも台湾の高校の出場記録があるそうだが、台湾代表に対して特に強いという印象はなかったため、多くの野球ファンは気にもとめていなかったそうだ。, しかし、快進撃が始まった。次々と内地の強豪を倒し決勝まで駒を進めたのである! 残念ながら決勝では愛知代表の中京商業に敗れてしまったが、多くの日本人野球ファンが嘉義農林選手の活躍やスポーツマンシップに魅了されたのだという。, 「(決勝で敗退し)準優勝という結果ではあったが、日本人は嘉義農林を『天下の嘉農』と呼んだ。日本人の目から見ても世界で一番素晴らしい野球チームだと思ってくれたということではないか」, その後、嘉義農林出身の選手は日本や台湾野球界の発展に寄与したという。たとえば近藤監督の指導下で甲子園に出場した呉昌征(ご・しょうせい)選手は、のちに巨人や阪神で活躍し、1995年に日本プロ野球殿堂入りを果たした。, まさに、台湾野球界の礎(いしずえ)を築いたチームである嘉義農林野球部。第二次世界大戦や1947年に起こった「228事件」の影響で弱体化、解散の危機にも瀕したというが、現在は国立嘉義大野球部として活躍している。, なお、映画『KANO』は2月末に台湾で公開。3月7日には大阪アジアン映画祭で上映予定である。実話を元にしたとはいえ、これは映画なので多少の脚色はあるかもしれない。だが、長らく触れられることのなかった当時の雰囲気を感じることはできるのではないだろうか。, 参照元:YouTube、公視新聞、Facebook 映画『KANO』(日本語公式) その象徴が、4年前、日本でも公開された映画「KANO」のモデルになった嘉義農林学校だろう。台湾のチームは1923(大正12)年から当時の全国中等学校優勝野球大会に参加していたが、最初は多くの学校が日本人中心のメンバー構成だった。, しかし「嘉農」は、松山商業を初の全国大会に導いた経験のある近藤兵太郎のもと、日本人、台湾人、原住民の3民族混成チームとして急速に力をつけ、台湾制覇を成し遂げただけでなく、1931(昭和6)年夏の甲子園で決勝まで勝ち進んだ。, このことは、いまだ台湾の野球ファンの間で語り継がれている。この嘉農出身の呉昌征は1937(昭和12)年、台湾人初のプロ野球選手として巨人入りし、1943年にはMVPに輝いている。, 日本の統治下で発展を遂げてきた台湾野球だが、終戦後、新たな統治者として中国がやってくると、一時的に下火になる。しかし、中国本土に共産党政権が誕生し、それまで中国全土を統治していた国民党政権が台湾に移転してくると、国際社会での「中華民国」の存在をアピールするため、スポーツを利用する。, 共産党による中華人民共和国が発足した1949年、台湾には中華民国棒球協会が発足。「棒球」と名を変えた台湾野球は、アマチュアの強豪として国際社会で名を馳せるようになった。それは1992年のバルセロナ五輪での金メダルとなって結実する。, その中で、力をつけた選手は、やがて国外のプロ野球を目指すようになり、李来発(元南海)、郭源治(元中日)、郭泰源(元西武)らが日本でプレーした。, 台湾球界史上最高の289本塁打を残したレジェンド・張泰山は、プロキャリアの最期を日本の独立リーグで過ごした。, やがて台湾でもプロ野球設立の機運が持ち上がり、1990年、現在につながる中華職業棒球聯盟がリーグ戦をスタートさせた。これによって台湾には野球ブームが押し寄せ、球団数も発足当初の4チームから1996年には7チームにまで拡大、翌年には第2のプロリーグとして、4チームからなる台湾職業棒球大聯盟が発足し、台湾は「プロ野球バブル」と言える状況を生んだ。, 日本は145年以上も前から野球に熱狂し続けてきた。これほど国民的に愛されてきたスポーツが、ほかにあるだろうか。そんな日本野球の魅力を満載したWebメディア“BASEBALL GATE”が、ついに誕生。メジャー•マイナー問わずあらゆる情報を、愛と情熱にあふれた視点で配信。野球が大好きな人も、ちょっと興味ありの人も、ぜひ来てください。日本の野球愛を未来へつないでいくために。.
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