Each screen measures 162.5 x 366.0 cm. ©2015-2020 SMART BLUE Co.,LTD. 日本の国旗【日の丸】は、満々中に赤い丸の太陽がありますよね?でも、よく見るとパラオの場合は真ん中ではありません。 少し中央よりも左側に月が配置されています。 これにはどんな意味があるのでしょう? 気になることが満載です。 日本の国旗は、1999年(平成11年)8月13日に公布・即日施行された「国旗及び国歌に関する法律」という法の中で定められています。一般的に「日の丸」と呼ばれている日本国旗ですが、正式名称は「日章旗」です。「日章」とは太陽をかたどったしるしのことを指します。 なお、日本では「紅白」がめでたい配色とされてきた。一説には民俗学的にハレとケの感覚(ハレ=赤、ケ=白)にあるとする説や、これも源平合戦に由来するとする説などがある。, 現存最古の日章旗としては山梨県甲州市の裂石山雲峰寺所蔵の「日の丸の御旗(みはた)」が知られている[6][7]。寺の伝承では、この旗は天喜4年(1056年)に後冷泉天皇より源頼義へ下賜され、頼義三男の新羅三郎義光から甲斐源氏宗家の甲斐武田家に相伝され、楯無鎧と対の家宝とされてきた[6]。『甲斐国志』では長さ六尺四布とあるが、現在は約1/4が欠損している[6]。また同じく中世の日章旗とされるものとしては、奈良県五條市の賀名生皇居跡(堀家住宅)に伝わる後醍醐天皇下賜のものが知られる[8]。, 江戸時代の絵巻物などにはしばしば白地に赤丸の扇が見られるようになっており、特に狩野派なども赤い丸で「旭日」の表現を多用するようになり、江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されるに到っていた。徳川幕府は公用旗として使用し、家康ゆかりの熱海の湯を江戸城まで運ばせる際に日の丸を立てて運ぶなどした。そこから「熱海よいとこ日の丸たてて御本丸へとお湯が行く」という唄が生まれたりした。, 近世における船旗関連の資料としては、寛永期(1624~1644年)に描かれた江戸図屏風[9]の幕府船団の幟がある。船団中央には、日本丸を改造し改名した大龍丸などが描かれており日の丸の幟を立てている[10]。また、1635年(寛永12年)に江戸幕府が建造した史上最大の安宅船「天下丸」(通称「安宅丸」)で「日の丸」の幟が使用されているのが知られている[11]。東京国立博物館が所蔵する『御船図』(江戸時代・19世紀作)にも安宅丸が描かれており、船尾に複数の日の丸の幟が描かれている。江戸幕府の所持船の船印として、一般には徳川氏の家紋「丸に三つ葉葵」を用いたが、将軍家の所持船には日の丸を用いることもあった。, また、1673年(寛文13年)に、江戸幕府が一般の廻船と天領からの年貢米(御城米)を輸送する御城米廻船を区別するために「城米回漕令条」を発布した際、その中で「御城米船印之儀、布にてなりとも、木綿にてなりとも、白四半に大なる朱の丸を付け、其脇に面々苗字名是を書き付け、出船より江戸着まで立て置き候様、之を申付けらる可く候」と、御城米廻船の船印として「朱の丸」の幟を掲揚するように指示し、幕末まで続いた。, 18世紀末から19世紀にかけてロシア帝国の南下政策を警戒した幕府が蝦夷地天領化・北方警備等のため派遣した御用船(商船・軍船など)も日の丸を印した旗や帆を使用していた[12]。, 国旗としての日の丸は、幕末に船舶用の国籍標識(惣船印)として導入され、その後に船舶用に限らず国籍を示す旗として一般化した。幕末における船舶用としての制定経緯としては、次の二つの説がある。, 歴史学者の松本健一や国文学者の暉峻康隆など、複数の学者の唱えるこの説が定説とされている。 パラオ国旗の配置. 歴史メディアRinto » 日本の歴史 » 日本の国旗について知ろう!「日の丸」とはどんな意味?, 日本の国旗は、1999年(平成11年)8月13日に公布・即日施行された「国旗及び国歌に関する法律」という法の中で定められています。一般的に「日の丸」と呼ばれている日本国旗ですが、正式名称は「日章旗」です。「日章」とは太陽をかたどったしるしのことを指します。, デザインは白地に紅色の日章を中心に配置した大変シンプルなもの。縦横比は2:3、日章の直径は縦の5分の3で中心が旗の中心にくるのが正式な形です。上下と左右が対称であり、掲揚した時に風でたなびいても崩れず美しく見えるというのは国旗として非常に優れたデザインと言えます。, 日章旗の赤い丸は、日の出の太陽を象徴したものです。太陽がモチーフになっているのは、日本人が古代から太陽を信仰してきたことに由来していると考えられています。例えば、日本神話に登場する最高神の天照大神は太陽神と知られていますし、聖徳太子が遣隋使を派遣した時に託した文書で、倭国王を「日出処の天子」称していたことも有名です。, 一方、白色は神聖と純潔を意味します。また紅白の組合わせは伝統的に縁起の良いもの、めでたいものとされてきました。紅白の水引、紅白饅頭、紅白の幕など、現在の私たちの身の回りでもよく見かける組合わせですよね。つまり日の丸は、日本人にとって大切な太陽や日の出をおめでたい色の組合せを使って表した旗なのです。, By This pair of six-panel screens depicting the city of Edo (Tokyo) and its suburbs and the accomplishments of Tokugawa Iemitsu (the third shogun) provides rare historical material for the early Edo period. しかし反対意見も少なくなかった。とくに守旧派の幕府体制にこだわる人々には「日本国」という意識が乏しく、惣船印は徳川の「中黒」 を用いればよいではないかとする意見も少なくなかった。しかし開明的な藩主たちの後押しを得て、「日の丸」が日本国の惣船印に定められたのである[14]。, 1854年8月4日(嘉永7年7月11日)、「日の丸」を日本国総船印に定める、とする布達には、次のように書かれている。, 島津斉彬は鹿児島城内から見た桜島から昇る太陽を美しく思い、これを国旗にしようと家臣に言ったといわれている。また薩摩藩から洋式軍艦「昇平丸」を幕府へ献上するため、1855年1月(安政2年2月)江戸へ回航された際、日の丸が船尾部に掲揚された[15]。これが日の丸を日本の船旗として掲揚した第一号とされる[16][17]。, 海事史学者の石井謙治は「斉彬提唱説」を取り上げつつも、日の丸が江戸幕府の御用船旗に用いられた事実から、日の丸が日本船の船印に提唱されたのは自然のこととしている[18]。, 海事学者の安達裕之は、上記の説を俗説に過ぎないとしている。『水戸藩史料』等の幕閣や斉昭の書簡・仕様帳といった当時の史料から、安達が考察した日の丸制定の経緯は次のようになる。, 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)の黒船来航は、これまで低調であった大船建造の禁廃止による西洋船建造を推進させた。この際に問題とされたのが外国船との識別方法で、同年9月初旬(同年8月)に従前より「白地中黒」(白地に黒の横一文字)を幕府船の船印にした浦賀奉行が、蒼隼丸・下田丸の代船(後の鳳凰丸)へ白地中黒とは別に日の丸を掲げることを起工前に検討しており[19]、日の丸を日本船の船印にすることを企図している。, 1853年10月6日(嘉永6年9月4日)に老中が浦賀奉行作成の鳳凰丸の図面を評定所一座・勘定奉行・大目付・目付に渡し、惣船印に日の丸を採用することを諮問している。これに対して評定所一座や大目付・目付は、白地中黒を惣船印、日の丸は幕府船の船印にすることを、また勘定奉行は惣船印に白地中黒の帆印、幕府船に白黒の吹貫を提案した。彼らが日の丸を不可とした理由は、御城米船や銀・銅を運搬する幕府御用船に日の丸を200年近く伝統的に用いたこと、日の丸の紅が退色し易いことを挙げている。, その後、外交問題処理が優先され評議は中断したが、鳳凰丸が1854年6月6日(嘉永7年5月10日)に竣工し、幕府は惣船印の決定を迫られた。幕府は、勘定奉行・勘定吟味役・目付からなる大船製造掛に昨年9月の評議案を審議させ、惣船印を白黒の吹貫、帆印を白地中黒、幕府船を日の丸幟との答申を得た。1854年6月29日(嘉永7年6月5日)に老中首座阿部正弘が幕府海防参与徳川斉昭へこの答申を諮問した所、斉昭は白地中黒は徳川氏の先祖である新田氏の印で、日の丸は国名である日本を示す印であり、逆にするべきと提言した。その後1ヶ月余りの間に斉昭と幕府の間で折衝が行われた結果、斉昭の意見が容れられ、1854年8月2日(嘉永7年7月9日)に白地日の丸幟を「日本惣船印」とすることが通達された[20]。竣工したばかりの「鳳凰丸」には日の丸の旗が掲げられ、白地中黒の帆が装備された。, また、石井行夫は安達説を踏襲しつつ、「鳳凰丸」が「昇平丸」よりも早く日の丸を掲げるため公試の一部を省略したこと、浦賀奉行から提出された日の丸の試案が存在したことを取り上げている[21]。, 1858年(安政5年)、幕府目付岩瀬忠震と下田奉行井上清直は、日章旗を掲げて神奈川沖に停泊中のポーハタン号に渡り、孝明天皇の勅許を得ないまま、日米修好通商条約に調印・署名した。, 翌1859年(安政6年)、幕府は縦長の幟(正確には四半旗)から横長の旗に代えて日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出した。日章旗が事実上「国旗」としての地位を確立したのはこれが最初である。, 1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書交換のため、外国奉行新見豊前守正興を正使とする幕府使節団がアメリカ合衆国に派遣され、アメリカ軍艦ポーハタン号と日章旗を掲げた咸臨丸に分乗して太平洋を横断した。使節団はサンフランシスコに到着後、更に陸路・海路を経由して首都ワシントンD.C.に到着し、当時のアメリカ合衆国大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見して批准書の交換を終えた。その後、使節団一行はニューヨークを訪問するが、日章旗と星条旗が掲げられたブロードウェイをパレードする模様が伝えられている[22]。これが国旗として日本国外で初めて掲げられた日章旗とされる。, こうして、「日本国惣船印」は国旗とほぼ同様な使い方をされることになり、次第に「国印」(1863年(文久3年))と呼び方が変わっていった[23]。, 幕府海軍に続き、1862年(文久2年)に創設された幕府陸軍も軍旗に日の丸を採用したことが、2年後の第二次長州征伐頃の幕府陸軍を描いた1864年10月8日付の英週刊新聞『イラストレイテド・ロンドン・ニュース』の挿絵より伺える。以降も幕府陸軍は日の丸を軍旗として使用していた[24]。, 戊辰戦争においては、鳥羽・伏見の戦いの2日目の慶応4年1月4日に、薩長同盟に基づく薩摩藩と長州藩を中心とする軍勢が朝廷から「錦の御旗」を授けられて正式に官軍(天皇・皇室、朝廷の軍)になったのに対し[25]、それ以降の旧江戸幕府軍は賊軍・朝敵となり、戦局に決定的な影響を与えた。旧幕府方の彰義隊、会津藩(白虎隊など)、奥羽越列藩同盟の一部などは、自分たちの共通の旗として上述の「御国総標」たる日章旗を掲げて戦った[26]。, 1870年2月27日(明治3年1月27日)制定の商船規則(明治3年太政官布告第57号)に「御國旗」として規定され、上述の幕府による「御国総標」を継承して日本船の目印として採用された。規格は現行とは若干異なり、縦横比は7対10、日章は旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1ずれた位置とされていた。この日を記念して国旗協会は国旗制定記念日を制定し、国旗掲揚の日としている。, 日本陸軍において、1870年6月13日(明治3年5月15日)制定の陸軍国旗章並諸旗章及兵部省幕提灯ノ印ヲ定ム(明治3年太政官布告第355号)に「陸軍御国旗(陸軍御國旗)」として旭日旗が定められた。, 日本海軍については、1870年10月27日(明治3年10月3日)制定の太政官布告「海軍御旗章国旗章並諸旗章ヲ定ム」(明治3年太政官布告第651号)において、各種の旗章の一つとして艦尾に掲揚する海軍御国旗として白布紅日章が定められ、幕末から使用されていた日の丸が引き続き使用された。規格は現行と同じく、縦横比は2対3、日章は旗の中心とされていた。また、幕末には「国印」と呼ばれるようになっていた日の丸は、同布告のとおり、国際法にもとづいて「国旗」と呼ばれるようになった[27]。, 以後、日章旗は国旗として扱われるようになったが、「国旗」としての法的な裏付けは太政官布告のままであり、法律としては存在しなかった。1931年(昭和6年)2月、第59回帝国議会において全11条及び附則からなる「大日本帝国国旗法案」が衆議院議員石原善三郎により提案され、同年3月26日衆議院本会議において可決された。しかしながら貴族院送付後の3月28日、会期終了に伴う帝国議会閉会により審議未了廃案となり、続く第60回帝国議会に再提出されたものの衆議院解散により再度廃案となり、結局成立しなかった。, 1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックにおいては、大日本帝国外地の朝鮮出身の孫基禎が日本代表選手として男子マラソンに出場し優勝した際に、日本統治下の京城(現在のソウル)で創刊された東亜日報は日章旗を抹消した写真を掲載してそれを報じ、11ヶ月の停刊処分を受けた(日章旗抹消事件)。, 1945年(昭和20年)、連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止された。この間、商船旗としては国際信号旗のE旗に基づいた旗が代用された。祝日に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、1949年(昭和24年)1月1日にマッカーサーは日本の国旗の使用を自由とする旨の声明を発表。これより正式に日章旗の自由掲揚が認められるようになった。, 第二次世界大戦後から1999年(平成11年)の国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)制定までの間、「反・日の丸」を主張する勢力(日本教職員組合、日本共産党などの革新勢力)は、日章旗の国旗としての法的正当性に疑義を唱えてきた。これに対し日章旗を国旗と認める勢力(自民党、日本会議などの保守派)は、日章旗が日本国旗であることは一種の慣習法と考えられることなどを主張、その根拠として前出の商船規則、大喪中ノ国旗掲揚方のほかにも複数の法令の条文中に「国旗」の文字が使用され「日本国旗が存在することが当然の前提とされている」ことを挙げていた。国旗国歌法制定前の法律で日本国旗を意味する「国旗」の文字を含んでいた事例は次のとおり(当該条文は後に部分的に文言が改正されたものもあるがここでは初制定時のものを掲載。国会の審議を経ない命令(政令以下)での使用例は省略。旧字体新字置換)。, 平成初期から学校の入学式・卒業式における日章旗掲揚に係わる問題が頻発、掲揚に反発する日本教職員組合(通称:日教組)・全日本教職員組合所属教職員と管理職教職員のトラブルから高校校長に自殺者が出るに至った。背景には教育現場における日の丸掲揚と君が代斉唱に対する反対運動があった[28]。このことに対処するため、1999年(平成11年)には国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)が公布され、正式に国旗として定められた。, なお、天皇の崩御による大喪(一般でいう葬儀)時の掲揚方法は、大喪中ノ国旗掲揚方(1912年、大正元年閣令第1号)に定められている。, 国旗国歌法成立後も一部の教育現場において国旗掲揚に対する賛成派と反対派の対立が続いた[31]。このため、2006年(平成18年)10月31日には衆議院の教育基本法に関する特別委員会において自民党の稲田朋美議員から「学習指導要領の国旗・国歌条項にのっとって教職員には入学式、卒業式において国旗に向かって起立し国歌を斉唱する職務上の義務があるかどうか」との質問が出された。この質問に対して第1次安倍内閣(安倍晋三首相)の伊吹文明文科大臣と民主党の藤村修議員の両名とも「教職員にはその義務がある」と答弁している。, 国旗国歌法の本則における日章旗の制式は、縦横比を2対3、旗の中心(対角線の交点)を中心とし、縦の長さの5分の3を直径(縦を2とした場合r=0.6)とした円(日章、日輪)を描き、白地に紅色の日章とするのが正式である。なお、日章の色に定められている「紅色」は、JIS慣用色名としてはマンセル色体系で 3R 4/14 であるが、より明色に見える朱色系の金赤(同 9R 5.5/14)が使われることも実際には多い。, 長らく慣行(商船規則で定められた制式)として、縦横比を7対10とし、日章を旗の中心より旗竿側に100分の1近づけた点を中心として描くものが使用されてきたため、国旗国歌法の附則第3項で当分の間この制式も用いることができる旨の特例が定められている。両者の縦横比を最小公倍数に換算すると、本則:14対21、特例:14対20となり、本則の方がやや横長(あるいは特例の方が縦長)となる。この違いを取り上げる意見には、日章と白地のバランスとしては特例の方が安定している、風にはためく時の見栄えは日章が旗竿に寄っている方が美しい、とするものもある[要出典]。, なお、1998年(平成10年)の長野五輪では、「円の直径が縦の2/3(本来は3/5)」の日の丸を掲げた。この比率は1962年(昭和37年)の日本宣伝美術会展での永井一正ほか2名による提案でもあったが、1964年(昭和39年)の東京五輪では採用が見送られた(2020年の東京五輪では1999年(平成11年)に法制化された「3/5」を使用予定)[32][33][34]。, 大日本帝国の国軍および天皇の軍隊として建軍された日本軍(陸海軍)の軍旗として、帝国陸軍は1870年6月13日(明治3年5月15日)の明治3年太政官布告第355号とにおいて、日章旗とは別に「陸軍御国旗」として16条の光線(十六条旭日旗)を放つ図案を意匠とする旗(「旭日旗」、日章が旗の中央)を日本史上初めて考案・採用・制定した。1879年、明治12年太政官布告第130号においてこの「陸軍御国旗」は旭日の意匠はほぼそのままに、寸法を小さくし房をつけたものに変更され名称を「軍旗」とし改めて制定された。, 他方、帝国海軍については、1870年10月27日(明治3年10月3日)制定の太政官布告「海軍御旗章国旗章並諸旗章ヲ定ム」(明治3年太政官布告第651号)において、艦尾用の海軍御国旗及び船首旗章として白布紅日章が定められ、幕末以来の単純な日の丸が使用されていた。しかし、帝国陸軍より19年後の1889年に、明治22年勅令第111号において帝国陸軍の軍旗である旭日旗を模倣するかたちで、日章位置が異なる十六条旭日旗(日章が旗の左辺寄り)を軍艦旗として、また艦首旗として日章旗を制定し直した。, ポツダム宣言受諾による日本軍の解体により軍旗及び軍艦旗は廃止されたが、自衛隊の設立に伴い陸上自衛隊は帝国陸軍の軍旗とは意匠を一部変更した八条旭日旗を「自衛隊旗」として、海上自衛隊は帝国海軍と同一意匠の「自衛艦旗」を1954年(昭和29年)にそれぞれ制定した。自衛隊旗及び自衛艦旗は自衛隊法施行令(昭和29年政令第179号)の別表第一[35]で規定されている。なお、自衛隊の航空機等に記されている国籍マークは、旧日本軍時代と同様の白の縁取りが施された日の丸が使用されていた(旧日本軍時代は白の縁取りが無い場合もあった)が、近年低視認性とステルス性の為F-35では赤丸や白の縁取り以外の国籍マークが行われるようになってきた。また自衛隊の戦闘服でも、近年低視認性の為、赤丸や白の縁取り以外の国籍マークが取り付けられるようになってきた。, 青は海・空、白は陸で、接点に税関があることを表している。1892年(明治25年)に制定。, 安津素彦の著作『国旗の歴史』に、「明治時代にイギリスまたはフランス、オランダが日の丸の意匠を買い取ろうとした」という記述がある。, また、この日の丸買収の話は、伊本俊二の著作『国旗 日の丸』では、「1874年(明治7年)の春頃にイギリスが買収(当時の500万円)を申し出て、寺島宗則外務卿を相手に交渉した」としている[36]。ただしこの説は吹浦忠正が著書『「日の丸」を科学する』の中で「真偽は不明とはいえ、私は単なるジョークないし外交辞令上のものではなかったのではないかとほとんど無視することにしている」[37]と結論づけている。, 日の丸は、国旗国歌法によって公式に国旗とされている。法制定以前にも、1974年(昭和49年)12月に実施された内閣府・政府広報室の世論調査[38]において、対象者の84.1%が「日の丸は日本の国旗(国の旗)としてふさわしい」と回答する一方で、「ふさわしくない」と回答したのは8.9%だった[39]。, テレビ朝日が1999年7月に行った世論調査でも、日章旗を日本の国旗とすることに賛成は83%、反対は8%だった。[40]。, 沖縄県において日章旗は1945年(昭和20年)の沖縄戦から1972年(昭和47年)5月15日の沖縄返還までのアメリカ軍統治時代には多くの住民の間で本土復帰を求める象徴であり[41]、各家庭では日の丸を大切に所持していた。, サッカーやバレーボールの国際試合において、日章旗をモチーフとしたフェイスペインティングも2002年(平成14年)のFIFAワールドカップ頃を境に一般化している。, なお、天皇誕生日などの一般参賀での国旗は皇居外苑周辺で配布されているが、これはあくまで民間の社団法人国旗協会の「皇居参賀協力委員会」で提供しており、行政機関である宮内庁は無関係である。, 国旗の取り扱いについては各自治体が定めており、都道府県旗や市町村旗と同じ高さか、一段高く掲揚される。, 国旗掲揚は祝日に限られ、振替休日・国民の休日には掲揚(又は表記)しないことが多い。振替休日・国民の休日は祝日とは異なり、暦上の日取り以外に休日の「祝う意味合い」がないためと思われる。, 主に教育界(日本教職員組合、全日本教職員組合)や左翼活動家によって国旗掲揚が「強制」されているとする認識により、現在も日章旗に対する議論や批判が見られる[要出典]。, 過去[いつ?
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