ということで、ホテル本能寺さんとてもいいところです。 名前は凄いですが、普通のホテルです。笑 . 隣にあった、移転後の本能寺には文化財もありましたが、そちらも特に被害なし。 よかったですね。 現代版「本能寺の変」 は笑い事ではありませんからね。 おそらく、この時の火事の噂とかも相まって心霊現象どうのこうのって噂が生まれたのでは?? 約83 m. 三条駅 (京阪本線) 地図をここに移動. ホテル本能寺は、歴史上有名な「本能寺」に隣接。京都市役所の目の前にあり、アクセス抜群です。京都市営地下鉄東西線 京都市役所前駅から徒歩2分。現代の京都の旅館らしい和のおもてなし・ホテルとしての機能性を持った快適な和のホテルライフを御提供します。 ※2 松野一忠と土方次郎兵衛は変後に追腹をした[177]。 (, 美しい京都の中心に位置する絶好のロケーション。100年の歴史が漂うクラシックな趣で、心を和ませてくれる吹き抜けのメインロビー。和の伝統が香るエントランスホールが温かくお客様をお迎えします。, 市営地下鉄東西線 京都市役所前より徒歩3分とアクセス抜群。
京都市役所の真正面、河原町御池に位置しています。繁華街もすぐ、電車・バスでの京都観光に、ビジネスに絶好のロケーションです。, 掲載ミスや建物・方針等の変更により既に該当しない特徴・設備が表示されている場合があります。ご予約前に必ず公式サイトまたは予約サイトでご確認願います。, クチコミパーツのコードを公式ホームページに貼るだけで、クチコミを掲載・募集できます JavaScriptが無効です。ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてください。JavaScriptを有効にするには. 地下鉄「京都市役所前」からすぐの本能寺、河原町通から入るには、細い路地を入ります。入った先には、信長自刃後に三男・信孝が建てたという信長公廊があります。ところで、本能寺の「能」の字は、ヒが2つではなく、去という時になっています。五度も火災に遭った本能寺なので、「ヒ(火)が去る」ことの願いが込められているという説もあります。, 町屋カフェから割りと近くにあると知ったので訪れる事にしました。あの有名な本能寺ですが、何回も火事で焼失していたとは、知りませんでした。ここでも、御朱印を頂き、本堂に上がって御本尊にお参りしました。, ホテルから意外と近くにあったので行ってみましたが、周囲は繁華街で、ホントにこの辺なのかな?と思いつつ入り口を発見しました。河原町通側からだとビルとビルの隙間を抜け、裏口から入る感じになります。別の日に正門を見つけましたが…。あの織田信長の最期の地として有名ですが、ここではないようですね。でも戦国武将としては好きなので、お参りに来れただけでも感激でした。, 本能寺の変のお寺です、見学自由でした。 御朱印をいただきました。御朱印とは、お寺に行き、お経を書き写す「写経」をし、そのお経をお寺や神社の御仏前や御神前で読み上げる「読経」をして、さらにお寺や神社に写経を納めた証として頂けた「納経印」というものが、現代になり参拝記念の「御朱印」というものに変わったものです。「御宝印」というハンコを押し、日付やご本尊様のお名前、お寺名前を書いてくださいます。もともと神社には無かったのですが、「参拝記念」として採用されてきたそうです。また単に記念としてだけではなく、そのお寺のご本尊様や神社の神様の分身とされ、とてもありがたいものです。 御朱印帳は 簡単に言えば、色んなお寺や神社のお守りを自分の帳面にズラリと書いて頂く帳面のことです。, 寺町の商店街を歩いていると、店の並びに突然あらわれます。見逃しやすいです。見た目はこじんまりとしていますが、門をくぐると思ったより広いです。かの有名な本能寺ですが、場所をうつして再建されたものなので、不思議な感覚がします。観光地としてはあまりぱっとしません。, 入り口は2カ所あり国道から入るところは一見すると見逃すような細い路地を入る感じで中は広い境内でした、信長のお墓もあり歴史を感じさせるところです。本堂は見学自由で無料でした前仏なのかわかりませんが白髪の人形のようなものがありました。(ちょっと怖い), 弊社サイトの現バージョンは、日本の日本語の利用者を対象としています。 別の国や地域にお住まいの場合は、ドロップダウンメニューから、国または地域別のサイトを選択してください。 詳細, 口コミは投稿者の個人的見解に基づきます。TripAdvisor LLCの見解ではありません。, 地下鉄「京都市役所前」からすぐの本能寺、河原町通から入るには、細い路地を入ります。. 本能寺の「能」はヒ(火)を避けて。 - 本能寺(京都府)に行くならトリップアドバイザーで口コミを事前にチェック!旅行者からの口コミ(186件)、写真(305枚)と京都府のお得な情報をご紹介して … ※3 『信長公記』には見られないが、『祖父物語』にある。鷹匠頭と云う。 他の都道府県とは比べ物にならない怖すぎる心霊スポットがあるため、全国でも最恐(最凶)と謳われる京都。遊び半分では絶対に行ってはいけない京都の怖すぎる心霊スポットについてまとめました。歴史深い街なだけあって、どこも本当にヤバイ場所です。 約9.8 km. 『ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太編訳『回想の織田信長』(1973・中央公論社)』. 天正8年1月17日、三木城はついに屈服し、城兵を助けるという条件で別所一族は尽く自害した[82]。4月、英賀城を落して播磨をついに再平定し、秀吉は姫路城の改修普請を始めた。また再び秀長の軍を増強して有子山城の山名祐豊を降して但馬を平定した[83]。対して吉川元春・元長の軍勢が伯耆に侵攻して羽衣石城の南条元続と岩倉城の小鴨元清を攻撃したので、6月6日、秀吉は因幡・伯耆に向かい、まず鹿野城を落して補給路を確保し、その際に鳥取城の山名豊国の娘を捕えたので、9月、豊国を単身投降させたが、家臣中村春続・森下道誉は徹底抗戦を主張[84]。, 天正9年2月、鳥取城は吉川経家を大将として招き入れると籠城を始めた[84]。秀吉は事前に若狭商人を使って因幡の米を買占めて、6月25日に出陣すると城の全周に柵と堡塁を築いて、雁尾城・丸山城と通じる糧道を遮断した[85]。兵糧を運び込むことに度々失敗した毛利勢は雁尾・丸山城から撤退。飢餓状態の鳥取城は10月まで「鳥取の渇殺し」に堪えたが、ついに経家・道誉・奈佐日本介の3将の首を差し出して降伏することになり、24日、切腹して翌日投降した[86]。秀吉はさらに杉原家次をして吉岡城・大崎城を降伏させ、因幡を平定した[87]。元春は再び南条・小鴨兄弟の両城を攻撃して馬之山に陣をしいた。28日、秀吉もすぐに出陣したが、馬之山の守りが固いと見て、7日間対陣して戦わずに姫路に帰還[88]。11月8日に秀吉は池田元助と淡路に侵攻して岩屋城の安宅清康を下して平定。清康が追放された後は、元助を同城に入れた[89]。, 座標: 北緯35度00分21秒 東経135度45分14秒 / 北緯35.00583度 東経135.75389度 / 35.00583; 135.75389, …人々が語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りを込め、一度か二度明智を足蹴にしたということである。だがそれは密かになされたことであり、二人だけの間での出来事であったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいはこのことから明智は何らかの根拠を作ろうと欲したかもしれぬし、あるいは〔おそらくこの方がより確実だと思われるが〕、その過度の利欲と野心が募りに募り、ついにはそれが天下の主になることを彼に望ませるまでになったのかも知れない。…, 信長公此等趣被及聞食今度間近く寄合候事興天所候被成御動座中国之歴々討果九州まで一篇に可被仰付之旨, 『惟任退治記』によると、信忠の手勢が500名で、京都に滞在していた馬廻りで、馳せ参じた者が1,000騎余とする。, 織田家の家督は、『信長公記』によりば、これより6年も前の天正3年11月28日に信忠に譲っていた, 龍造寺氏との信長の外交状態についてはよくわかっていない。ただしこの頃、龍造寺氏と毛利氏は同盟関係にあった。, 秀吉は中国攻めの総大将であるだけでなく、北面する備前国の宇喜多氏とも近しい関係にあり、讃岐・阿波での情勢に強い影響力と関心を持っていた。, 「古郷に残す妻や子に名残り惜しまれ、恩愛涙尽きぬは帰らぬ旅の首途と、後にや思ひ合わすらん、また夜をこめて進発すとある」, 『信長公記』には中国出陣を命じられた将に筒井順慶の名はないが、『細川忠興軍功記』では明智・細川忠興・筒井順慶の3名に出陣が命じられたとある, 一般に、丹羽長秀は四国遠征の指揮官の一人と見なされているが、『信長公記』によれば長秀に出陣の命令は与えられておらず、家康の饗応役も解かれていなかった。本能寺の変が起きなかった場合に実際に参加することになったのかどうかは不明。蜂屋頼隆は長秀の女婿であるだけでなく、馬揃えでも二番隊を指揮するなど大将格であったという説もある。, 信長はかつては妙覚寺を寄宿先としていたが、1580年以降はかつての宿所であった本能寺を寄宿先に戻し, 『信長公記』のほんどの版では溝尾勝兵衛の名前がここでは出てこない。4名となっている。, 『惟任謀反記』には十文字鎌鑓を用いたという記述があり、あるいはそれを描写したものか。, 現代語訳にすると、「上様(つまり信長)と殿様(つまり信忠)は無事に(変を)切り抜けて助かり、膳所ヶ崎(大津市)に退いた」という内容。, 宗安は西山本門寺の18世日順上人の父親。宗安の父胤重と兄孫八郎清安は、本能寺で亡くなり、その父兄の首と共に信長の首を運び出して、寺で供養したという内容。, この日まさに明智光秀は安土城におり、朝廷の使者として来訪した吉田兼見と会見していた。, 本能寺の変に触れるドラマの中では、弥助が信長に殉じて討ち死にするという描かれ方をされることもある。, 小和田哲男は有力視されている説として、下記の1.野望説、2.突発説、3.怨恨説、32.朝廷黒幕説を上げている, 明智憲三郎は、同書を改訂したものを、2013年に『本能寺の変 431年目の真実』(文庫版)として、また2015年には『織田信長四三三年目の真実 : 信長脳を歴史捜査せよ!』(幻冬舎)を出版している。, 各項目・順番や構成は、後藤敦による「本能寺の変学説&推理提唱検索」(別冊歴史読本54完全検証信長襲殺)による, ただし、三好康長と信吉の養子縁組の時期については谷口克広から本能寺の変当時にはまだ縁組は成立していなかったとする反論が出されている, 暦の問題については、天正11年の1月の京暦の中に雨水が含まれずに本来中気が入ってはならない閏1月にずれてしまうという太陽太陰暦の原則に反した錯誤が生じていたが、, 南光坊天海=光秀説については、光秀の首とされたものはすでにかなりの腐敗の進んだ状態で実検されたことや、, 戦国時代の堺商人は、戦支度やその他利権等を獲得のため、権力者へ擦り寄り、鉄砲で敵対する天下人候補を狙撃、偽書状等を出す、暗殺等、色々行ってきた。史実としても、堺商人と信長、本能寺との間で鉄砲などの既得権を巡る争いや対立があった際には、信長と堺商人が既得権を巡り対立し、, 柴田勝家は近江長光寺二郡から越前八郡に、滝川一益は伊勢長島から上野一国・信濃二郡に加増ながらも近畿から遠い地に転封されている。秀吉も近江長浜から播磨一国に転封しており、長浜は収公、新城主に堀秀政が内定していた。, フロイスの『日本史』第55章に「信長は、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して支那を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった」という記述がある。, 目的が他にあるように見せかけて、途中、急きょ、本来の目的に向かうこと。「敵本」は「敵は本能寺にあり」の意味で、本能寺の変に由来する成句, 昭和54年1月に読売新聞に掲載された宗門研究家・山口稔の記事、および安部龍太郎「謎に迫る・富士山麓に埋められた信長の首」(『歴史街道』2000年1月号、pp.59-65), 南北山城軍記「班久勇武記するに遑あらず且諸記に明らけし、終に忠志を全ふして天正十壬午六月二日未刻、京師二条城中において潔く討死して、君恩を泉下に報じ、武名を日域に輝かせり」, 宮本義己「本能寺の変―光秀蹶起の真相を検証する―」(二木謙一編『明智光秀のすべて』新人物往来社、1994年), 1573年4月20日付けルイス・フロイスの書簡。『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第3期第4巻 1570年-1577年』所収, 藤田達生「織田信長の東瀬戸内支配」(小山靖憲 編『戦国期畿内の政治社会構造』和泉書院、2006年), 仁木宏「明智光秀の丹波統一」(初出:『新修亀岡市史』本文編2(2004年)第三章第一節/柴裕之 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第八巻 明智光秀』(戒光祥出版、2019年), 林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含む, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906666/125, 突発説、単独犯行説、黒幕説…「主殺し」の真の動機は何か, 『歴史街道』 2012年5月号, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/990298/244, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906666/231, https://web.archive.org/web/20140627070606/http://www.47news.jp/CN/201406/CN2014062301002133.html, https://web.archive.org/web/20150706073810/http://www.sponichi.co.jp/society/news/2014/06/23/kiji/K20140623008426270.html, http://news.mynavi.jp/news/2014/06/26/237/, https://web.archive.org/web/20140830134505/http://www.asahi.com/articles/ASG6R53XDG6RPPZB00K.html, http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/140624/lif14062413110004-n1.html, 謀反直後の光秀書状原本 室町幕府再興説裏付けか 2017/9/12 3:00, 本能寺の変、目的は室町幕府の再興だった? 明智光秀直筆の書状から分析 信長に追放されていた第15代将軍・足利義昭の帰還計画が書状から明らかに。, 光秀「書状」原本発見 「本能寺の変」直後に反信長の豪族に協力要請、識者「室町幕府再興説を裏付け」, 織田家18代当主・織田信孝「『織田廟宗家』を名乗る困った人」 (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. [情勢 1] ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 本能寺の変の用語解説 - 天正 10 (1582) 年6月2日京都本能寺に宿泊中の織田信長が,家臣明智光秀の謀反にあって襲撃され自殺した事件。信長は,中国征討中の家臣豊臣秀吉を援助するため出陣の途次,本能寺に滞留中であった。 株式会社ゆうちょ銀行および日本郵便株式会社が発行するプリペイドカード・デビットカード。国際的なクレジット決済ブランドであるVisaの加盟店で利用できる。年会費は無料で、満12歳以上(小学生を除く)のゆ... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 ※4 岡部以言(又右衛門) [注釈 43]と岡部以俊にはこのとき本能寺で戦死したという説がある。, 本能寺に滞在していた女性たちは「女どもは苦しからず」として脱出し[178]、誠仁親王の側近も脱出しているが、一部の武士も脱出している。, 信忠付の家臣であった前田玄以は岐阜に逃れ、信忠の子三法師を守って清須に赴いた[179][180]。, 寛永年間に成立した『当代記』によれば、妙覚寺に滞在していた信長の弟・織田長益(源五、後の有楽斎)は信忠と共に二条御新造に移ったが、戦いの中脱出し、安土城を経て岐阜へと逃れた[181]。また刈谷城主の水野忠重も脱出している[181]。『三河物語』によれば、長益と山内康豊(一豊の弟)は狭間をくぐって脱出したと云う[147]。『当代記』では、長益の脱出を当時の人は悪であるとしたという[181]。江戸時代前期の成立と見られる世間話集『義残後覚』では、長益が信忠にとにかく早く自害するようにと勧めたとされており、200余の郎党の多くも討死したのに対して、当の長益は自害せずに逃げ出したことを「哀れ」とする。さらに京童が嘲笑って、「織田の源五は人ではないよ お腹召させておいて われは安土へ逃げるゝ源五 六月二日に大水出て 織田の源なる名を流す」と不名誉を皮肉った落首が流れたとしている[182][183]。江戸前期の編纂物である『武家事紀』では、長益も下人に薪を積ませて自決の準備をさせていたが、周囲に敵兵がいないのに気付いて、ここで死ぬのは犬死と思い脱出したと云う[183]。, また、二条御新造の戦闘では、黒人の家臣・弥助も戦ったと云う。弥助はもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷であるが、弥助は捕虜となった後も殺されずに生き延びた[184][注釈 44]。しかしその後の消息は不明である[186][注釈 45]。, 古典史料・古典作品には下記の本能寺の変に関係したよく知られた逸話が登場する。これらは後節で述べる諸説の根拠とされるが、史料の大半が江戸時代以降に書かれているために、全てについて信憑性に問題があり、幾つかは完全なフィクションと判断されている。以下、内容と共に信憑性についても説明する。, 『祖父物語(朝日物語)』『川角太閤記』に見られる逸話で、甲州征伐を終えた後に諏訪で「我らが苦労した甲斐があった」と祝賀を述べた光秀に対して、「おのれは何の功があったか」と信長が激怒し、光秀の頭を欄干に打ち付けて侮辱した。衆人の前で恥をかかされた光秀は血相を変えたと云う[187]。, 『祖父物語』は伝聞形式の軍記物で、比較的古い寛永年間頃に書かれた。いわゆる、巷説を集めたもので信憑性は玉石混淆であって、登場する逸話の信憑性の判断は難しい。『信長公記』には3月19日に諏訪法花寺を本陣としたという記録[90]があって符合する点もあり、後述のルイス・フロイスの書簡などにも信長が光秀を殴打したという話があるため、荒唐無稽の作り話と否定できない[190]が、元和年間(元和7年から9年頃[191])の『川角太閤記』の記述を『祖父物語』が加筆して膨らませたという説もあり[187]、内容には疑問が残る。いずれにしても二次、三次的な史料である。ただしこの逸話は怨恨説の根拠の1つとしてよく引用されてきた。, 明智光秀が徳川家康の饗応役を命じられながらも、その手際の悪さから突然解任されたとする話が『川角太閤記』にある。織田信長は検分するために光秀邸を訪れたが、一歩門を入ると魚肉の腐った臭いが鼻を付いたので、怒ってそのまま台所に向かって行き、「この様子では家康の御馳走は務まるまい」と言って光秀を解任し、饗応役を堀秀政に替えた。赤恥をかいた光秀は腹立ちまぎれに肴や器を堀に投げ棄て、その悪臭が安土の町にふきちらされたと云う[192]。, 『常山紀談』にも「東照宮御上京の時、光秀に馳走の事を命ぜらる。種々饗禮の設しけるに、信長鷹野の時立寄り見て、肉の臭しけるを、草鞋にて踏み散らされけり。光秀又新に用意しける處に、備中へ出陣せよと、下知せられしかば、光秀忍び兼ねて叛きしと云へり」[194]とある。, 『川角太閤記』は太閤秀吉の伝記ではあるが、史料としても一定の価値があると見なされた時期があり、この話は江戸・明治時代には史実と捉えられていて、怨恨説の根拠の1つとされた。同記では光秀が決起の理由を、信長に大身に取り立ててもらった恩はあるが、3月3日の節句に大名高家の前で岐阜で恥をかかされ、諏訪で折檻され、饗応役を解任されて面目を失ったという3つの遺恨が我慢ならないので、(家臣賛同が得られなくても)本能寺に1人でも乱入して討入り、腹切る覚悟だと述べている[136]。これに対して、明智秀満が進み出て、もはや秘密に出来ず「一旦口にした以上、決行するしかない」[135]という趣旨の意見を表明し、続いて斎藤利三、溝尾勝兵衛が打ち明けられた信頼に感謝して「明日より上様と呼ばれるようになるでしょう」と賛同したという話となっているのである[136]。, しかし上記の文章内でも言及されている『信長公記(信長紀)』には、そもそも家康の宿舎は光秀邸でも秀政邸でもなく大宝坊という別の屋敷で、光秀は饗応役を3日間務めたと違う話が書かれており、解任の話は見られない。これは『川角太閤記』における光秀が謀反をした理由の核心部分であり、こういった事実がないということになれば信憑性を失う。むしろ怨恨説を説明する逸話として後世創作され、付け足された物語ではないかと考えられ、小和田哲男は、解任された可能性がないわけではないとしつつも、光秀の不手際による解任ではなく最初から3日間の任務であり、ここから光秀が信長に恨みを抱くという必然性は見いだせないとする[195]。また江戸中期の元文年間に書かれた『常山紀談』に関しては、出典の異なる多数の逸話を雑然と(しかもやや改変して)一つにまとめて載せたという二次、三次史料であり、信憑性はそもそも期待できない。, 『明智軍記』に、信長の出陣命令を受けて居城に戻る際に光秀のもとに上使として青山輿三が訪れ、「(まだ敵の所領である)出雲・石見の二カ国を与えるがその代わりに、丹波と近江の志賀郡を召上げる」と伝えたという話があり、それを聞いた光秀主従が怒り落胆して謀反を決断したと云う[196]。, この話は怨恨説の有力な根拠と江戸時代はされていたが、『明智軍記』は軍記物であってもともと信憑性が薄く、徳富蘇峰は「之は立派な小説である」[197]と断じ、小和田も「事実だったとは思えない」[196]と言っている。国替えについては史料的根拠も残っていない[注釈 46]。現代の歴史学者はたとえそれが事実であったと仮定しても、所領の宛行(あてがい)はよくあったことで、この場合は形式的にも栄転・加増であって、家を追われるような類のものではなく、恨みを抱くような主旨のものではなかったと考えている。小和田は山陰という場所が「近畿管領」からの左遷にあたると思った可能性があるのではないかと秀吉ライバル視説に通じると推測する[196]ものの、「理不尽な行為とうけとるのは間違っている」[196]とも指摘する。, 『信長公記』にも、亀山城出陣を前にして愛宕権現に参籠した光秀が翌日、威徳院西坊で連歌の会を催したとある。この連歌は「愛宕百韻」あるいは「明智光秀張行百韻」として有名である[199]が、光秀の発句「ときは今 天が下知る 五月哉」の意味は、通説では、「とき(時)」は源氏の流れをくむ土岐氏の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は「天(あめ)が下(した)治る(しる)」であり、すなわち「今こそ、土岐氏の人間である私が天下を治める時である」[199]という大望を示したものと解釈される。光秀の心情を吐露したものとして、野望説の根拠の1つとされる。『改正三河後風土記』では、光秀は連歌会の卒爾に本能寺の堀の深さを問うと云い、もう一泊した際に同宿した里村紹巴によれば、光秀は終夜熟睡せず嘆息ばかりしていて紹巴に訝しげられて佳句を案じていると答えたと云うが、これはすでに信長が本能寺に投宿するのを予想して謀反を思案していたのではないかとした[200]。, 『常山紀談』にも「天正10年5月28日、光秀愛宕山の西坊にて百韻の連歌しける。ときは今あめが下しる五月かな 光秀。水上(みなかみ)まさる庭のなつ山 西坊。花おつる流れの末をせきとめて 紹巴。明智土岐姓なれば、時と土岐を読みを通わせてハ天下を取るの意を含めり」[202]とある。秀吉は光秀を討取った後、連歌を聞いて怒って、紹巴を呼んで問い詰めたが、紹巴は発句は「天が下なる」であり「天が下しる」は訂正されたものであると涙を流して詭弁を言ったので、秀吉は許したと云う[203]。, 百韻は神前奉納されて写本記録も多く史料の信憑性も高いが、一方で連歌の解釈については異論が幾つかある。そもそもこれは連歌であり、上の句と下の句を別の人が詠み、さらに次の人と百句繋げていくというものであって、その一部に過ぎない句を取り出して解釈することに対する批判が早くからあった。桑田忠親は「とき=時=土岐」と解釈するのは「後世の何びとかのこじつけ」[204]で明智氏の本姓土岐であることが有名になったのはこのこじつけ発であるとした。明智憲三郎は句は「天が下なる」[注釈 47]の誤記であり、「今は五月雨が降りしきる五月である」[205]という捻りの無いそのままの意味であったと主張する。, 他方で、津田勇は『歴史群像』誌上「愛宕百韻に隠された光秀の暗号―打倒信長の密勅はやはりあった」[206]で、連歌がの古典の一節を踏まえて詠まれたものであると指摘。発句と脇句は『延慶本平家物語』の一文を、次の紹巴は『源氏物語花散里』の一文を、その他にも『太平記』『増鏡』など多く読み込まれている作意は、朝敵や平氏を討ち源氏を台頭させるという寓意が込められているとし、(発句の通説解釈は間違いかもしれないが)百韻は連衆の一致した意見として織田信長を討つという趣旨で、通説の構図は間違っていないと主張する[204]。これらは全体としては朝廷守護説や源平交代説などに通じるものである。また立花京子は、「まつ山」ではなく「夏山」である場合であるが、脇句が細川幽斎が以前に詠んだ句との類似を指摘している。, 『総見記』『絵本太閤記』『常山紀談』などに在る話。天正7年(1569年)6月、光秀は自身の母親を人質として出し、丹波八上城主波多野秀治・秀尚兄弟や従者11人を、本目の城(神尾山城か)での酒宴に誘って、彼らを伏兵で生け捕りにして安土に移送したが、秀治はこの時の戦傷がもとで死に、秀尚以下全員は信長の命令で磔にされた。激怒した八上城の家臣は光秀の母親を磔にして殺害したと云うもの。, 光秀天正七年六月、修験者を遣して、丹波の波多野右衛門大夫秀治が許に、光秀が母を質に出し謀りければ、秀治其弟遠江守秀尚、共に本目の城に来りけるを、酒宴して饗し、兵を伏せ置きて、兄弟を始め従者十一人を生捕り、安土に遣しけり。秀治は伏兵と散々に戦ひし時、, この話は怨恨説のうちでも、とりわけ有名であるが、長期の包囲により八上城内は飢餓状態に追い込まれ、『信長公記』によると、はじめは草や木を食用とし、後には牛や馬を食べたが、ついに口にするものがなくなり、城外に出たところを包囲軍に切り捨てられたとされ、頃合を見計らって光秀は、調略をもって秀治を捕らえたとされる[208]。, この場合の調略は、秀治の家臣を誘降し、彼らの手で城主の波多野兄弟を捕らえさせ、降伏させたという説があるから、人質交換の余地など、全く見当たらない。戦況からして、八上城の落城は確実であったわけであるから、光秀としても、あえて母親を人質とする必要に迫られることはなかったのである[209]。, 『総見記』や『柏崎物語』は、光秀の「調略」による波多野兄弟の誘降に関する記録を恣意的に解釈したもので、事実とはほど遠い創作であり信じるに足りない[210]。, 文禄年間に書かれた[注釈 50]雑話集『義残後覚』[212]に、庚申待の際に小用で黙って退出しようとした光秀が、酔った信長から槍を首筋に突きつけられ「如何にきんか頭何とて立破るぞ」と凄まれる話がある。光秀は平謝りして許され、頭髪を乱して全身から冷や汗をかいた[213]。これを発展させた話が『常山紀談』にあり、「又信長ある時、酒宴して七盃入り盃をもて光秀に強ひらるゝ。光秀思ひも寄らずと辞し申せば、信長脇差を抽き、此白刃を呑むべきか、酒を飲むべきか、と怒られしかば酒飲みてけり」[207]と、これでは無理矢理飲まされた[189]ように加筆されている。似たような話が江戸後期の随筆『翁草』にも収録されているが、これらは共に信憑性は薄い。フロイスの『日本史』には信長自身が酒を飲まなかったとあり、信長が酒を嗜まなかったという話は同時代の医師ルイス・デ・アルメイダの書簡にも見られるので事実と考えられており[214]、信長が酔って絡むといった話はそもそもあり得ないことだった。, 『川角太閤記』などのある話。斎藤利三はもともと稲葉一鉄の被官(家来)であったが、故あって離れ、光秀のもとに身を寄せて家臣として高禄で召し仕えられたので、一鉄が信長に訴え、信長は利三を一鉄の元へ返すよう命じた。光秀はこれを拒否して「畢竟は君公の恩に奉ぜんが為」といったが[215]、信長は激怒して光秀の髷を掴んで引き摺りまわし、脇差に手までかけた。光秀は涙を流して憤怒に堪えたとする。, 『常山紀談』では「其後稲葉伊予守家人を、明智多くの禄を与へ呼び出せしを、稲葉求むれ共戻さず。信長戻せと下知せられしをも肯はず。信長怒って明智が髪を捽み引き伏せて責めらるゝ。光秀國を賜り候へども、身の為に致すことなく、士を養ふを、第一とする由答へければ、信長怒りながらさて止みけり」[216]とある。その他、『明智軍記』『柏崎物語』などにも同種の話があり、怨恨説の根拠の1つとされる。, 『信長公記』に、天正10年(1582年)4月3日、甲州征伐で武田氏が滅亡した後に恵林寺(甲州市塩山)に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡しを寺側が拒否したため、織田信忠が、織田元秀・長谷川与次・関長安・赤座永兼に命じて寺を焼き討ちさせた。僧150人が殺され、住職快川紹喜は身じろぎもせずに焼け死んだ[217]。有名な「心頭滅却すれば火もまた涼し」は紹喜の辞世の句の下の句という。, 以上が史実であったが、『絵本太閤記』等ではこれに加えて、光秀が強く反対し、制止しようとして信長の逆鱗に触れ、折檻してさらには手打ちにしようとしたと云う、これまで見てきたものと似たような展開とされている。しかし、そもそも焼討を命じたのは信忠であり、同日、信長は甲府にいた。他方で、快川紹喜は土岐氏の出身で、光秀も内心穏やかではなかったのではないかという説[218]もあり、(光秀が制止したというフィクションは除いて)諸説の補強説明に利用されることがある。, 本能寺の変は当時最大の権力者であった信長が死亡し、時代の大きな転換点となった事件であり、小和田哲男は戦国時代における最後の下剋上と評している[219]。信長を討った光秀がその動機を明らかにした史料はなく、また光秀の重臣も短期間でほとんど討たれてしまったため、その動機が明らかにされることはなかった[220]。更に光秀が送った手紙等も後難を恐れてほとんど隠蔽されてしまったため、本能寺の変の動機を示す資料は極めて限定されている。小和田は「日本史の謎」と表現している[221]。「永遠のミステリー」といった表現が行われることもある[222]。, 明治以降、本能寺の変というテーマは何度も研究家に取り上げられ、通史の中で触れられてきた。東京帝国大学教官の田中義成、渡辺世祐、花見朔巳、牧野信之助などのほか、近世日本国民史の著者である徳富蘇峰も持論を述べているが[223]、織豊期・日本中世史の研究者が謀反の動機を究明する動きは一貫して低調であった[224]。呉座勇一も現在の日本史学会においては光秀が謀反を起こした理由については重要な研究テーマと見られておらず[225]、日本中世史を専門とする大学教授が本能寺の変を主題とした単著は極めて少ない[226]。呉座は該当する単著は藤田達生の『謎とき本能寺の変』[227]ぐらいであろうとしているが、この本も信長権力の評価に重点が置かれている[228]。本能寺の変の歴史的意義としては信長が死んだことと秀吉が台頭したことであり、光秀の動機が何であれ、黒幕がいたとしても後世の歴史に何の影響も与えておらず、日本中世史学会において光秀の動機や黒幕を探る議論は「キワモノ」であると見られている[226]。
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