阪神タイガース(はんしんタイガース、英語: Hanshin Tigers)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。本拠地は兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場。日本に現存するプロ野球12球団の中では読売ジャイアンツに次いで2番目に歴史が長い。, 運営法人は株式会社阪神タイガース。親会社は阪神電気鉄道(阪急阪神ホールディングス傘下)。, 特に江夏のケースは、延長11回裏に自らサヨナラ本塁打を放ってノーヒットノーランを達成するという名勝負となり、延長戦でのノーヒットノーラン達成はこれが日本プロ野球で史上唯一の記録である。なお、完全試合達成者は球団創立から現在に至るまで一切ない。ただし参考記録として準完全試合の記録がある。田宮謙次郎が1950年3月16日に国鉄スワローズ戦で9回2死までを完全(田宮はこの試合が投手としての最後の勝利)小山正明が1956年6月6日に大洋ホエールズ戦で先頭打者に安打を許しその後の打者を完全に抑えた試合であった。, 1947年に沢村栄治賞が制定後、阪神では合計6人が受賞。中でも村山実が史上3人目の3回受賞し、プロ野球最多タイ記録となっている。阪神の投手で複数回受賞しているのも村山のみである。また、G・バッキーが海外出身選手として史上初の受賞をしている。, 球団設立当初から、親会社が所有する阪神甲子園球場を使用しており、現在の日本プロ野球で本拠地となっている球場の中では最古である(ただし、アメリカ軍に接収されていた1946年のみ使えなかった)。1948年のフランチャイズ制仮導入以来一貫して専用球場としており、専用球場を変更していないのは、阪神のほかには2005年から新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスだけである。なお、フランチャイズ制仮導入まではホームゲームを本拠地で行う習慣はなく、阪神甲子園球場以外に後楽園球場・阪急西宮スタジアムなどの中から日程上都合のいい球場を選んで開催していた。, 阪神甲子園球場は元々高校野球開催のため、またそれ以外にも多目的にスポーツ行事で使用されることを前提に造られた球場であるため、選抜高等学校野球大会と全国高等学校野球選手権大会の日程が最優先される[注釈 12]。特に後者の大会の開催期間は2週間以上にわたるため、この時期の1ヶ月程度[注釈 13]にも及ぶ長期遠征を「死のロード」と呼ぶようになった。ただし、昔と比べて交通機関の発達で移動時間が短くなったこと[注釈 14]や宿泊施設のグレードが上がったこと[注釈 15]、特に1990年代以降は長期遠征中でもほっともっとフィールド神戸や空調完備の京セラドーム大阪といった甲子園の近場の球場でも試合が組まれているため、それも死語になりつつある[注釈 16]。また、プロ野球の開幕を本拠地で迎える基準はセ・リーグはAクラスを確保したその年の2年後、パ・リーグはAクラスを確保したその年の3年後[注釈 17]となっているため、Aクラスを確保しても本拠地開幕権を放棄するケースもある。, 二軍の本拠地は、1950年代は神戸市民運動場野球場を、1979年から1993年までは阪神浜田球場を使っていたが、現在は阪神鳴尾浜球場を使っている。甲子園と鳴尾浜は同じ西宮市内にあり、12球団の中でも一軍の本拠地と二軍の本拠地に於ける間の距離は埼玉西武ライオンズに次いで近い。, 実数発表となった2005年以降、2010年までは2008年を除き毎年公式戦での年間観客動員数は300万人以上を動員し続けてきたが、2011年以降は300万人に達しておらず、概ね260万 - 280万人台で推移している[82]。ただ、2017年は最終的に2位となるなど好調な成績であったため、10月10日の公式戦最終戦で3万人の観客を集めて7年ぶりに年間観客動員数が300万人を超えた。, 年間試合数が144試合制であった2014年までのうち、2013年までは主催試合72試合のうち本拠地の阪神甲子園球場で60試合・大阪ドーム(京セラドーム大阪)を含む地方開催で12試合が組まれていた。なお、阪神としては大阪ドームは地方球場の扱いとなっている。この地方開催の内訳については、京セラドーム大阪での3カード・8 - 9試合と、倉敷マスカットスタジアム(それ以前は岡山県野球場)での1試合の計9 - 10試合は毎年必ず開催されており、他にほっともっとフィールド神戸を含むそれ以外の地方球場で毎年2 - 3試合が開催されていた。ただ、2014年は京セラドーム大阪での3カード・9試合と倉敷マスカットスタジアム1試合の計10試合のみでその他の地方球場での開催はなかった。他球団が地方開催を減らす中で、年間試合数が143試合制となった2015年以降も2014年と同様、主催71ないし72試合[注釈 18]のうち地方開催を9ないし10試合行っており、現状では試合数ベースでは阪神がセ・リーグで最も地方開催を行っている。但し、その内訳は京セラドーム大阪が殆どで他に倉敷マスカットスタジアムが1試合のみであるため、開催する球場数ベースで言えば巨人が最も多い。, かつては京都市西京極総合運動公園野球場でも毎年1 - 6試合を行っていたが、2005年の対西武ライオンズ戦を最後に主催試合はない[注釈 19]。それ以外では、1999年には香川県営野球場で、2005・2006・2012年にはそれぞれ2試合ずつを松山坊っちゃんスタジアムで行った。2013年は沖縄セルラースタジアム那覇にて初めて公式戦2試合を開催した。この他、2014年にはアメリカで公式戦を開催する計画があったものの、その後断念した。, 京セラドームについては1997年の開場以来使用しているが、2005 - 2007年の3年間は兵庫県のオリックスが大阪府の近鉄を吸収合併したことによる暫定処置で兵庫県・大阪府のダブルフランチャイズとなったため、京セラドーム大阪を準本拠地として使うことが認められていた。現在は甲子園での春・夏の高校野球の開催期間中における、開幕カードあるいはその直後の1カード・3試合と夏の長期ロードの間の2カード・5 - 6試合の計8 - 9試合の開催が基本であるが、梅雨時などにも行われたことがあった[注釈 20]。, また、2007年より3期に渡って行われた10月以降の甲子園の改修工事の影響から、2008年には雨天中止分の1試合がスカイマークスタジアムで、クライマックスシリーズ第1ステージが京セラドーム大阪で開催されている。2011年は当初予定されていた試合(京セラの中日3連戦と甲子園のヤクルト3連戦)が東日本大震災による日程延期によって、その日程の補填として10月にヤクルト3連戦が京セラドームで行われた。, 夏季の長期遠征中は、基本的にビジターで概ね2 - 3カードこなしてから京セラドームで3連戦を組むというローテーションを繰り返しとなっているが、年度によっては旧盆(8月15日前後)の1週間に京セラドームで2カード・5 - 6試合連続開催とする場合もある。, ほっともっとフィールド神戸では後述する夏の長期ロードの時に開催していた時期もあったが、当時オリックスがフランチャイズとしていた関係もあって1994年を最後に暫く途絶えた。その後は地元自治体からの要望もあり、オープン戦ながら2007年に開催が復活し、以降公式戦では2008年には雨天中止による代替試合1試合(甲子園が改修工事で使用不可のため)を、2010年には2試合を、2012年には1試合をそれぞれ開催した[注釈 21]。ただ、2013年以降は開催がなく、同球場からは再び撤退している。, 夏の高校野球の開催期間中で甲子園が使えない期間の主催球場は1997年より京セラドームを使っているが、それ以前は京都市西京極総合運動公園野球場(1965年 - 1979年)、岡山県野球場(1973年 - 1979年)、平和台野球場(1980年 - 1988年)、グリーンスタジアム神戸(1988年 - 1994年)、阪急西宮スタジアム(1991年 - 1996年)を使っていた。特に、1980年から1987年までは、甲子園が高校野球で使用できない期間、関西地方ではほかの球団(阪急=西宮球場、南海=大阪スタヂアム、近鉄=日本生命球場・近鉄藤井寺球場)の本拠地はその球団の試合に日程が抑えられており、使用許可が下りなかったのと、それ以外の球場もナイター設備や施設スペックなどの問題で開催することが事実上難しかったため、この間2試合を平和台球場で主催しながら、ほぼ3週間関西を離れざるを得なくなる「死のロード」という状態になっていた。, また過去には、甲子園にナイター設備が導入されるまでの1953年 - 1955年には大阪スタヂアムでナイターを行うことがあった。その他、岩手県営野球場、郡山市営開成山野球場、県営宮城球場、藤崎台県営野球場(いずれも1975年)でも試合を行っている。, 前述のように甲子園での選抜高等学校野球大会の開催のため、阪神は前々年(2001年以前は前年)にAクラスに入って本拠地開幕権を得ても甲子園で開幕戦を迎えられないケースが多い。選抜高校野球大会は毎年3月下旬から4月上旬まで甲子園で行われるが、セ・リーグの開幕がこの時期になると当然甲子園でのプロ野球開催が不可能になってしまう。これにより阪神は21世紀になってからは通常の公式戦日程で本拠地での公式戦開幕を12球団では唯一行っていない[注釈 22]。, 選抜開幕前に開幕戦を甲子園で行われた年は1956年、1964年の2回であり、選抜終了後に開幕戦を甲子園で行われた年は1952年、1959年、1961年、1963年、1969年、1973年、1983年、1987年、1993年、2011年の10回である。このうち、2011年は当初日程であれば明治神宮野球場での対ヤクルト戦だったが、東日本大震災の影響で開幕日が4月12日に順延されたことから、甲子園での対広島戦が開幕戦となった[83][注釈 23]。, かつては選抜開幕前もしくは終了後に甲子園で開幕戦が設定されたというケースもあったが、2007年のクライマックスシリーズ導入後は日程面から選抜終了後に開幕が設定されておらず、今後も終了後に設定される可能性は少ない。なお、甲子園で開催できない場合の対処として以下の4つのパターンがあった(フランチャイズ制が確立し、現行の6球団制となった1953年以降。大阪ドームでの開幕は除く)。, 大阪ドームの完成後は、大阪ドームを本拠地とするパシフィック・リーグ球団が当年の本拠地開幕権を持っていなければ、地元開幕を大阪ドームで迎えられるようになった。大阪ドームでの主催ゲームで開幕を迎えたのは、以下の年次が該当する。, なお、2010年と2017年は大阪ドームを本拠地とするオリックスも当年の開幕権を持っていたため、セ・パ両リーグで折衝した結果、2010年はパ・リーグが変則日程[注釈 24]とし、2017年は阪神が開幕権を返上する[注釈 25]ことで決着した。, プロ野球の試合数については2000年以後140試合以上と増えたこと、また選抜大会も1997年に雨天中止が頻発したことなどから、プロ野球の日程に支障をきたすこともあるため、現在は何れも開幕時期を大幅に繰り上げている(選抜が概ね春分の日(3月20日か3月21日)前後、プロ野球は3月最終金曜日に制定されていることが多い。選抜は2003年以後現在の時期で開催)。そのため、現在では阪神が開幕戦主催権を獲得した場合は大阪ドームでの開催が常となっている。また2年前のシーズン(2003年以後)Bクラスにより開幕戦主催権を逃した場合であっても、大阪ドーム完成後は開幕2カード目、ないしは3カード目のいわゆる「ホーム開幕シリーズ」を同球場に割り当てることが多い(大阪ドーム完成前までは、選抜の大会日程が終了するまではビジターでの遠征が続いていた)。, プロ野球最初の公式リーグ戦の1936年春から現在まで戦争による中断を除いた全公式シーズンに参加し、かつ創立当時から親会社が変わっていないのはタイガースのみである。同様の球団は他に読売ジャイアンツがあるが、アメリカ合衆国遠征のために1936年春のシーズンを欠場している。タイガースのように、非常に長い期間経営母体が変わらずに存続するプロ野球チームは世界的にも極めて少ない。また、ユニフォームや球団シンボル・ロゴなどのデザインについても球団創設時より大幅な変更が為されないまま現在に受け継がれている(デザインの項を参照)。, 幾つかの特有の伝統行事も持つ。代表的なものとして、タイガースが全選手・監督・コーチをそろえて毎年キャンプイン前の1月に廣田神社(武運長久⇒優勝を祈願)に参拝する行事は、球団創立時からの伝統である[85]。また、現在では開幕前の3月に西宮神社(商売繁盛⇒球団収益を祈願)に参拝することも伝統行事となっている。, その一方で、2005年創設の東北楽天ゴールデンイーグルスと並び、未だに日本一となった回数は最少タイ(1回)の球団である。また、1985年の日本一においては日本シリーズMVPを獲得したのはランディ・バースであり、セ・パ12球団では唯一日本人選手の日本シリーズMVP獲得者がいない球団でもある。, ニックネームの「タイガース」は阪神電鉄社員の公募によって決定した。この際、何人かが「タイガース」という名称を応募したが、抽選の結果、事業課所属の松原三郎が考案者として認定された。大阪と同様に工業都市であったアメリカ合衆国のデトロイトを本拠地とするデトロイト・タイガースを参考にして松原がこの名称を応募したとされているが、デトロイト・タイガースとは無関係に「タイガース」というニックネームを考えた者も多数いたと言われている。その後「タイガース」の名は戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)中で英語が使えず「阪神軍」を称していた時期を除き、一貫して使われてきた。, 「タイガーズ」との表記の方が「tigers」の本来の発音により近いが、この「タイガース」は日本語の固有名詞であるため、タイガーズとするのは誤りとなる。当時の球団名は、複数形のsを英語で「ズ」と発音する場合にも「ス」を用いた固有名詞とすることが一般的であった[注釈 26]。, 球団名「阪神タイガース」は、親会社が「阪神」電鉄であることと、本拠地である甲子園球場が兵庫県南東部の神戸市と大阪府に挟まれた「阪神間」に位置していることのダブル・ミーニングからなる。設立当初は、球団事務所を大阪市に置いたことから「大阪タイガース」という球団名であったが、球団事務所を甲子園球場内に移転したことに前後して1961年より正式名称となった。, ただし、改称以前から略称として「阪神」が、通称として「阪神タイガース」が使われていた[注釈 27]。また、1950年に創設した二軍チームが1954年の新日本リーグ加入に際してチーム名を独自に阪神ジャガーズ(はんしんジャガーズ、Hanshin Jaguars)としていた他、ウエスタン・リーグ加入後の1957年には「阪神タイガース」を正式名称としていた。, 現在の略称について英字は「T」、漢字で略す場合は頭文字の「阪」でなく「神」になる。これは阪急ブレーブスとの重複を避けるため(阪急は「急」)であったが、阪急が球団を手放した後も(保護地域である兵庫県の県庁所在地・神戸市に由来する)「神」を継続している。, 阪神タイガースは、現在セントラル・リーグでは唯一近畿地方に本拠地をおく球団であり[注釈 28]、関西圏において圧倒的な人気を誇る。スポーツ新聞各紙の関西版では専らタイガース関連の記事が1面を飾り、1面以外のページに至るまで大きく扱われることも多く[注釈 29]、在阪局制作のテレビ・ラジオ番組では、情報番組内でのスポーツコーナーはタイガースについての情報が多くを占め、プロ野球中継でもタイガース応援色を打ち出している(ABCの「虎バン主義。」、MBSの「with Tigers」など)。1985年10月16日に関西テレビが中継した、阪神が21年ぶりの優勝を決めた対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)は関西地区で視聴率56.7%を記録(ビデオリサーチ調べ)。これは関西地区におけるプロ野球中継の最高視聴率記録である。しかし、その人気は始めから不動のものという訳ではなかった。, 球団歌の正式名称は「阪神タイガースの歌」であるが、歌詞の冒頭をとって「六甲おろし」の愛称で親しまれている。1936年に「大阪タイガースの歌」の表題で発表され、1961年の球団名変更とともに改題された。, 1936年3月25日に甲子園ホテル(現・武庫川女子大学甲子園会館)で開催された球団結成披露宴で初披露された[93]。現存するNPB12球団の球団歌においては最古の楽曲である。, タイガースは、デザインに関して歴史的に一貫したスタイルを持っている球団であり、球団旗に始まり各種ロゴやマーク、ユニフォームに至るまで、球団創設当初にデザインされた基本型を現在も守り続けている。プロ野球の球団がデザインについてこのような一貫性を保持していることは珍しく、特に日本球界ではタイガースのみである[94]。これらのデザインを手掛けたのは当時阪神電気鉄道の宣伝課デザイン室に勤務していた企業内デザイナー・早川源一(1906年 - 1976年)[95]。阪神球団には、本人の手によると思われるデザインの原画が数点残っている[94]。, 球団旗やホーム用ユニフォームの胸などに描かれる「Tigers」ロゴの書体は、1960年に細部が調整されたのみで創設以来一貫して変更せずに使用されている。, この「Tigers」ロゴは、「HANSHIN」ロゴと合わせて1962年6月15日に商標登録されており[96][注釈 33]、1982年にはさらに調整が加えられた上で登録されている[97]。また、明朝体を模した日本語表記の「阪神タイガース」ロゴについても1983年に登録されている[98]。, ペットマークは、右を向いて咆哮する虎をやや下から見上げた構図で描いた似顔絵で、通称「虎マーク」と呼ばれる[95]。球団創設時より変わらず使用されていることから、日本球界を代表するペットマークとされる[99]。なお、ユニフォームの左袖にあしらわれている虎マークは顔が左向きとなっている。, チーム創設メンバー・若林忠志のマッキンレー・ハイスクール(英語版)での同窓生・保科進が同校のマスコットをもとに描いた原画が若林を通して早川に渡り、その後早川の手によって仕上げられマークが完成したとされる[93][100]。具体的な誕生時期については詳細不明だが、1936年のシーズン前に公開された球団創設記念ポスターや、1936年3月25日の球団結成披露宴での球団歌披露に際して配布された歌詞カードに虎マークがデザインされていた[93]。, 1970年代後半頃に目の形や毛並み表現など細部が整えられた。1980年代前半頃から[注釈 34]、虎マークが入った赤円を黒の輪で囲み、輪の上部にアーチ状で「HANSHIN」、下部に逆アーチ状で「Tigers」の白字ロゴを入れたマーク(通称・丸虎マーク)も使用されており、出版物や映像作品などで使われている[102]。, 球団旗は、黒と黄の横ストライプ柄(上から、黒四本・黄3本を交互に構成)をベースに、左上角に虎マークが入った赤円、一番下の黄ラインの右寄部に黒字で「HANSHIN Tigers」のロゴがそれぞれ配されている。虎マークのデザイン、ロゴの有無など時期によって細部がわずかに異なるものの、虎マークに黒と黄の横ストライプ柄という基本デザインは球団創設時より一度も変更されていない。, タイガースのユニフォームは、一部の期間を除いて球団創設当初から現在に至るまでピンストライプに左袖の虎マーク・「Tigers」ロゴというデザインパターンが採用されている。, ユニフォームの最大の特徴であるピンストライプは虎のイメージから「縦縞(タテジマ)」とも呼ばれ、「縦縞ユニフォーム」はタイガースの代名詞となっている。創設当初は薄いグレー色のピンストライプであったが、マイナーチェンジを経て徐々に色は濃く、線も太いものとなり、現在では一般的なピンストライプとは一線を画す「縦縞」としてのデザインが確立されている。, なお、縦縞のデザインを採用した理由は諸説あるが、当時のデトロイト・タイガースのユニフォームデザインを参考にしたとする説が有力とされる。, 2005年、セ・パ交流戦が新たに開催されるにあたり期間中に着用する専用ユニフォームが作成された。これは、2005年が球団創立70周年という記念年に当たること、また、綱島理友が1999年から2004年まで『週刊ベースボール』で連載していたコラム「ユニフォーム物語」にて歴代のユニフォームが紹介され、それによって「オールドユニフォームを着て闘う選手の姿が見てみたい」というファンの声が高まったこと、さらに岡田彰布監督の「交流戦では普段見られないものを見せるべきだ」という考えが一致したことによる。これを機として、復刻ユニフォーム企画は他球団へも波及していった。, なお、選手が実際に使った交流戦専用ユニフォームは、毎年交流戦終了後に行われるチャリティー・オークションで落札者にプレゼントされ、その収益金は福祉団体などに寄付されることになっている。, 2012年以降、交流戦専用ユニフォームの企画は行われていないものの、限定・専用ユニフォーム企画はその他様々なイベントに継承されている。, 2010年、2012年にセントラル・リーグ主催で行われた期間限定プロジェクト。セ・リーグ6球団がそれぞれ歴代のユニフォームの中から選んだものを復刻ユニフォームとして着用した。, 2013年より、夏イベントとして開催。毎年「ウル虎の夏(西暦)」と銘打たれ、期間中の阪神主催試合では期間限定ユニフォームが使用される。また、イベント開始前にユニフォームのお披露目としてゴールデンウィーク期間にも着用する。, 2016年から始まった阪神・巨人による相互展開プロジェクト。詳細は「伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜」の項を参照。, 球団マスコットは次の3体である。詳しくは、それぞれの項目を参照。ともに、チーム名「タイガース」にちなんで虎をモチーフとしている。, 公式の球団歌はこの「タイガースの歌」(通称:「六甲颪」[注釈 35])のみであるが、その他に球団応援歌も多数ある。, タイガースの中心選手にファンが与える称号である。本来は藤村富美男に対する呼称であったが、藤村の引退後に村山実、田淵幸一、掛布雅之らが後継者として同様の称号で呼ばれた。, タイガース打線の代名詞。タイガースの打線が特に強力である場合にメディア上などで使用される。過去に1940年代後半、1985年、2003年頃、2010年にダイナマイト打線が形成された。, 1985年4月17日の対巨人戦(甲子園)において、タイガースのクリーンナップ(ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布)が3者連続でバックスクリーン方向へ本塁打を打った出来事。「伝説の - 」と呼ばれることもあり、タイガース史上のみならず日本プロ野球史上に残る名シーンとして取り扱われる。, 「代打の切り札」として試合展開を左右する局面で勝負強さを発揮するタイガースの選手は、ファンの間やメディア上などにおいて「代打の神様」と表現されることがある[120]。, 1990年代中頃より代打の切り札として活躍し1997年には代打成功率4割超を記録するなどした八木裕が「代打の神様」と呼ばれたことに始まり[121][122]。その後、桧山進次郎[123][124]、関本賢太郎[125]、狩野恵輔[120]など代打の切り札に定着した選手に「代打の神様」の称号が受け継がれている。, なお、八木の活躍以前にも、複数年にわたり代打として活躍した選手は複数存在しており、遠井吾郎、川藤幸三[122]、真弓明信[120]などが挙げられる。, 主にメディアなどで、対読売ジャイアンツ戦を「伝統の一戦」と表現されることがある。2016年からは巨人との共同プロジェクトとして同カードを「伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜」と銘打ち相互展開を図っている。, 1936年秋は複数大会開催による勝ち点制だった。各大会ごとに単独1位のチームに勝ち点1、同率1位のチームに勝ち点0.5を与え、6大会の勝ち点の合計でシーズン優勝を争った。大阪タイガースは最後の東京第2次リーグ戦(第2次東京大会)を残して勝ち点2となり、首位・東京巨人軍の勝ち点2.5に迫っていた。第2次東京大会ではタイガースと阪急軍が1位を争っていたが、巨人が故意に阪急に敗退する公認の八百長試合を行ったことで、タイガースは単独1位を逃し、勝ち点2.5で巨人と並んだため年度優勝決定戦を行うことになった。, 12月に洲崎球場での年度優勝決定戦では1勝2敗で惜敗したものの、景浦が打者として12打数6安打、投手として13回を自責点1に抑える驚異的な活躍をみせた。, 1936年秋の優勝決定戦では敗れたものの、1937年秋のシーズンに初優勝して臨んだ春優勝チームの巨人との年度優勝決定戦(7戦4勝制)では、沢村を打ち崩して4勝2敗で前年の雪辱を果たした。さらに翌年春のシーズンを制して迎えた年度優勝決定戦ではまたも巨人と対戦し、初戦のサヨナラ勝ちで勢いに乗り4連勝で年度連覇を果たした。同年限りで2シーズン制は終了し、年度優勝決定戦は廃止された。, なお、1937年と38年の日本一はリーグの通算優勝回数には数えられていない。これはこの2年間のリーグ戦はそれぞれ独立したシーズンであるためで、阪神の通算優勝は1937年秋季大会、1938年の春季大会でそれぞれカウントされている。, 1973年は、8連覇中の巨人との間で激しい優勝争いを展開していた。8月5日の対巨人戦(甲子園)9回表2死で、中堅を守っていた池田純一が黒江透修の平凡な飛球を追った際に、当時十分に整備されていなかった外野の天然芝に足を取られて転倒。転倒の間に塁上の走者が全員生還したことから、勝利目前だった阪神は逆転負けを喫した。実際には池田が転倒しただけで飛球を落としていないにもかかわらず、阪神が後述する結果でシーズンを終えたことから、このプレーは後年まで「世紀の落球」と呼ばれた。当の池田は、心ないファンから「戦犯」と決め付けられるなどの嫌がらせに苛まれたあげく、球界を離れた後の2005年に逝去している。, 8月30日の対中日戦(甲子園)では、先発の江夏がノーヒットノーランを継続したまま、延長10回裏の打席でサヨナラ本塁打。中日による優勝の可能性を消滅させたが、翌31日には巨人が首位に立った。10月10日の対巨人戦(後楽園)では、田淵幸一が倉田誠から逆転満塁本塁打を放ち、江夏が抑えて勝利、流れは阪神に傾いたかに見えたが、翌日は7-0とリードしながら巨人が追い上げ、逆転に次ぐ逆転で10-10の引き分けに終わった。, 残り2試合を残して僅差の首位、あと1勝で優勝というところまで迫っていた10月20日の対中日戦(中日球場)では、中日キラー・上田の先発が予想されたが、金田正泰は先発にチーム最多勝の江夏を指名[注釈 37]。しかし、これが裏目に出て木俣達彦に本塁打を打たれて勝ち越されると、打線は星野仙一に抑え込まれて2-4で敗戦した[注釈 38]。一方、江夏は自伝『左腕の誇り』(構成:波多野勝、草思社、2001年)の中で、「フロントから19日に球団事務所に呼び出され、『残りの2試合には勝ってくれるな』と言われた」と述べている[126]。, この対中日戦の終了間際、球場近くを通る東海道新幹線を巨人選手を乗せた列車が通過したという逸話があり、実際にこの時の試合映像が現存している。選手の1人は車内からスコアボードを見ようとしたが果たせず、名古屋駅到着時にファンが試合経過を知らせ、それを聞いた選手達はムードが明るくなったと伝えられている[注釈 39]。, こうして、10月22日(本来は21日だったが雨天で順延)の対巨人戦(最終戦、デーゲーム)で、その試合に勝ったチームが優勝ということになった[注釈 40]。しかし、約48,000人の大観衆を集めたこの試合も0-9で大敗し、巨人のV9をあっさり許した。16時19分、最終打者のウィリー・カークランドが三振に倒れた瞬間、敗戦とV9を許した不甲斐ない阪神に怒ったファン約1500人が暴徒と化し、一塁側スタンドやアルプススタンドからグラウンドに乱入、両軍ベンチに向かった。阪神の選手・スタッフは試合終了とともにロッカールームに引き上げて難を逃れたが、巨人の選手はすぐにベンチに退散したものの、王は殴られてベンチ前で倒れ、森はキャッチャーマスクをとられるなど選手・コーチを含む七人に、殴る蹴るの暴行が加えられた。巨人の関係者はベンチ裏から脱出して、胴上げもせずに芦屋市の宿舎「竹園」に引き上げた。選手の退出を知った阪神ファンは、三塁側スタンドの巨人ファンに「帰れ、帰れ」と怒声をあげながらグラウンドの土や座布団、空き缶などを投げ合って応酬。「やめとけ」とグラウンドに降りた巨人ファンを阪神ファンが取り囲んで乱闘になり、兵庫県警機動隊員や甲子園警察署員の約180人が出動する事態となった[127][128]。, また、場外でも16時40分頃に阪神球団関係者の乗った車をファン約500人が取り囲み「あの試合は何だ!」と車体を揺さぶるなどした[注釈 41]。甲子園警察署が設置した警備本部も投石された[129]。, この試合は、よみうりテレビ(実況:佐藤忠功、解説:村山実)[130]が日本テレビ系列全国ネットで中継しており[131]、近畿広域圏ローカルでは朝日放送(実況:植草貞夫、解説:根本陸夫、ゲスト:中村鋭一)[131]やサンテレビ(実況:西澤暲、解説:後藤次男。近畿放送も同時ネット)[130]も含めた3局が同時にテレビ中継。ラジオも朝日放送(実況:黒田昭夫、解説:皆川睦雄、中国放送にもネット。自社ではパ・リーグ優勝決定戦、阪急対南海〈解説:花井悠〉と二元)・毎日放送(解説:杉浦忠、阪急対南海〈解説:永井正義 他〉と二元)・TBSラジオ(解説:水原茂、実況:山田二郎。山陽放送にもネット)・ニッポン放送(解説:関根潤三)・文化放送(解説:別所毅彦)・ラジオ関東がそれぞれ中継していたが[132]、よみうりテレビと朝日放送の放送席には途中から危険物などが投げ込まれ、選手の退出後には200人ほどの暴徒が襲い掛かってきた[128]。, 朝日放送のテレビ放送席では、暴徒の一部が植草や根本らに「放送をやめろ」と怒鳴りつけたり、空き缶を投げつけたりした。植草は、暴徒ではない阪神ファンの一人から頭の上に座布団をかざされながら実況を継続。当時は『おはようパーソナリティ中村鋭一です』(阪神の熱狂的なファンである中村鋭一が朝日放送ラジオで担当していた生ワイド番組)が絶大な人気を博していたことから、同番組のリスナーと思われる阪神ファンが「ここは鋭ちゃん[注釈 42]のとこ(朝日放送のテレビ放送席)やから勘弁したれ」と絶叫[133]。さらに、良心的な阪神ファンが暴徒を説得したことによって、放送席と機材への襲撃は免れた[134]。ただし、放送終了(16時38分30秒)までの30秒間は音声が途絶えたため、テレビには中継の映像だけが流された[128]。, 暴徒はよみうりテレビの放送席も襲撃して「巨人の肩ばかり持つな」とテレビカメラや当時高価だったVTR機材といった放送機材を破壊するなど大暴れ。止めに入った解説の村山にも「阪神の選手やったのによみうりテレビの解説をしやがって」と殴りかかった。機動隊員約30人が3局の放送席を取り囲んで暴徒を遠ざけるが、甲子園警察署の調べでは、よみうりテレビの損害は約1千万円にも及んでいた[135]。この暴挙のため、優勝の瞬間は鮮明なVTR映像がなく、映画フィルムに転写したもの(キネコ)が残っているのみである。, その一方で、サンテレビの放送席と機材は、「サンテレビは俺たちの味方や」という阪神ファンに守られたことで難を逃れた[134]。さらに、朝日放送と違って、暴徒による実況への妨害行為も発生しなかった。, 通常の試合では警察官100人、球場職員30人の警備態勢だが、この日の試合では警察官200人、阪神電鉄社員80人、アルバイト120人、ガードマン50人の計450人を待機させる特別態勢を敷いていたものの、この騒ぎを鎮めることができなかった。このため兵庫県警の機動隊70人が16時50分に出動[128]。追い散らされたファンは機動隊を遠巻きにして「帰れ!」コールを浴びせた。ファンの殆どは17時過ぎに球場外へ出たが、それでも興奮が収まらない阪神ファンと群集約800人は甲子園球場の指定席券売場前に集まって「阪神の責任者にわびをさせろ」と騒ぎ、「阪神タイガースの歌」を合唱して気勢を挙げた。県警からの要請で18時過ぎに阪神監督の金田がユニホーム姿で場外に現れ、携帯マイクを使って「私は涙こそ流していないが、気持ちの中は皆さんと同じく残念でたまらない。来年こそ一層がんばるので、ファンの皆さんも理解してほしい」とファンへのお詫びとお礼を呼びかけた[136]。これを受けて、19時にファンは引き上げたが、警備本部への投石で警官1名が負傷、ファン6名がケガをした[128][注釈 43]ほか、よみうりテレビの放送機器を壊した疑いなどで数名が警察に検挙されている[137]。, 阪神は優勝を想定して、田淵幸一を起用した日本シリーズ用のポスター[注釈 44]と「優勝記念」と書かれたマッチを製作したが、両方ともお蔵入りとなり、マッチ[138]は阪神電鉄の保養所で使われていた[注釈 45]。, 1936年春、設立したばかりのタイガースは在籍していた選手17名の背番号を名前のいろは順で決めた。ただし、若林忠志と佐藤武夫は、当初与えられた背番号4と背番号13は縁起が悪いと考え、空き番号だった18、19にそれぞれ変更している。エースの若林が偶然付けた18番は、後にエースナンバーと呼ばれるようになった。, 1950年、リーグが分裂し、ファームの結成などの改革を行ったタイガースは背番号をポジション別に改めた。1 - 8が投手、9 - 11が監督、助監督、主将、12 - 14が捕手、15 - 20が内野手、21 - 24が外野手、それ以降をファームの選手とした。9 - 11が捕手に使われていないのは、1リーグ時代からの功労者である背番号9の松木謙治郎と背番号10の藤村富美男の番号を変えないように配慮したためである。, 村山実は入団した際に「背番号11はやめておけ」と周囲から言われたというエピソードがある。村山以前に11を付けた選手は、故障を含めて何らかの形で必ず不幸な目に遭い、11は不吉な番号といわれていたからである。, 11を最初につけたのは藤井勇(1935年 - 1939年、1942年)。藤井は戦前のチームの中心打者だったが2度徴集され、戦後はパシフィックに移籍したためにタイガースへ復帰出来ずに野球人生を終えた。2代目の野崎泰一(1946年 - 1949年)は満足な成績を残せないところに肩痛が襲い、最後の年に3へ変更。3代目の御園生崇男(1950年)は15から変更したが、前年より優れなかった体調がさらに悪化したため翌年15に戻している。4代目の三船正俊(1952年 - 1954年)はエースとして期待されていたが炎上癖が仇となって東映フライヤーズにトレード移籍。5代目の山中雅博(1955年)は50から変更した途端に体力不足に見舞われて退団、6代目の内司正弘(1957年)も40から変更した途端に退団している。, このような背景から、11番の歴任者でかつ村山の大学の先輩にあたる御園生は「(御園生自身がつけていた)背番号15を譲るから、絶対に11はつけるな」と説得したが、村山は「自分は昭和11年生まれなので、あくまでも11にこだわりたいんです」と頑としてはねつけたという。結果的に自身の活躍でジンクスを跳ねのけた村山は、自らの手で背番号11を永久欠番にした。, 1946年7月26日の対パシフィック戦(阪急西宮球場、1-0で勝利)では、13時15分の開始から14時10分の終了まで試合時間がわずか55分という、日本プロ野球史上最短試合時間記録を達成した。この試合では渡辺誠太郎が5安打・88球で完封勝ちし、パシフィック先発の湯浅芳彰も7安打・93球で完投したが、両軍合わせてファウルが6球しかなかったことがこの記録につながった。, 逆に、1992年9月11日に行われた、優勝をかけての直接対決となった対ヤクルト戦(甲子園)では日本プロ野球史上最長の6時間26分という試合時間を記録した。この試合では3 - 3の同点で迎えた9回裏、八木裕の打球がレフトフェンスの水平ラバー部、その上の金網フェンスへと当たりスタンドに入ったため一旦はサヨナラ本塁打と判定されたが、ヤクルト側の抗議により、審判団が協議した結果エンタイトルツーベースに訂正された。だが阪神側もこの判定に抗議して(既にロッカーへ引き上げていた選手、コーチがいたため)、37分間試合が中断した。結局、延長15回(当時は時間無制限で延長15回引き分け再試合制)を戦いそのまま3 - 3で引き分けた。なお、サンテレビがこの試合の中継を試合終了まで行っており、試合終了時刻となった「午前0時26分」は日本プロ野球史上最も遅い試合終了時刻となった。当時日本にて視聴率調査を行っていたニールセンによると、試合当日の平均視聴率は28.0%、瞬間最高視聴率は50.0%を記録した。また、試合が中断したことでサンテレビの技術スタッフが熱くなりすぎて中継時に掲示するボールカウント表示器のスイッチを壊してしまい、その後は試合終了まで手動に切り替えてしのいだというエピソードも残っている[139]。, 2018年9月20日に行われた、対広島21回戦(マツダスタジアム、5-4で勝利)では、試合終了が翌21日の深夜0時3分であった。過去、二日がかりの試合としては、上記のプロ野球史上最長試合も含めて13度あったが、いずれも延長戦にもつれたものであり、9回で決着がついた試合としては史上最も遅い試合終了時刻となった。当日は試合開始前から雨模様で、試合開始が1時間9分遅れの19時9分となっただけでなく、2回裏終了時に雨脚が強くなり1時間2分中断し、さらに5回裏終了後も同様に12分中断したことで、試合時間としては中断時間も含めて4時間54分であったが、試合終了時点では日付が変わっていた。中止ないしノーゲームにしてもおかしくない状況であったが、当年の阪神タイガースは前半から中盤にかけて中止が相次ぎ試合消化のペースが例年より遅く、これ以上の中止は全日程消化させる上で更なるスケジュールのタイト化が懸念されたため、強行したという事情がある。なお、当年のセ・リーグは8月28日から「連盟管理節」に入っており、試合挙行の可否や試合開始の時刻の変更などを、セ・リーグ統括または当該試合の球審が代行することになっていた[140]。, 偵察メンバーを多用した監督としては三原脩が有名だが、プロ野球で初めて考案したのは藤村富美男で、助監督兼内野手だった藤村の助言を受け松木謙治郎監督が初めて試合で使用した[141]。1950年4月22日に熊本の水前寺で行われた対中日ドラゴンズ戦で、中日の先発が左腕の清水秀雄か右腕の服部受弘か迷ったため、1番左翼手を投手の干場一夫とした[141]。服部の先発が分かると干場に代えて左打者の金田正泰を送った。この策は成功し、金田の二塁打を足がかりに阪神が1点を先制したが、試合は7 - 9で敗れた。, 1954年7月25日の対中日ドラゴンズ戦(大阪スタヂアム)と、1967年9月23日の対大洋ホエールズ戦(甲子園)で行われている。いずれも阪神の負け試合となっている。, 村上世彰率いる投資会社「MACアセットマネージメント」(通称・村上ファンド)が2005年に阪神電鉄の株式を買い増しし、電鉄の筆頭株主になった。村上ファンド側は「既成権力に立ち向かう反骨精神や関西人の気骨がグループ全体に影響をもたらすだろう」として、タイガースの株式上場を提案。これに星野仙一シニアディレクターは「タイガースはファンのもの」だと反論し、さらに牧田俊洋球団社長も「株式上場の計画はない」とコメント。2005年10月11日に村上と阪神電鉄首脳が会談を行い、村上は「(タイガースの株式上場は)ファンの意見を聴いた上で考慮したい」とコメントした。, 2006年6月19日、阪急電鉄等を傘下に持つ阪急ホールディングスがTOBで、村上ファンドが保有する阪神電鉄株式を取得。その後、阪急ホールディングスは阪神電鉄を子会社化した(阪急・阪神経営統合参照)。, 経営統合の話し合いの中で、タイガースに関しては「阪神タイガース」のままで存続することになったものの、これが7月5日に行われたプロ野球オーナー会議で、阪神電鉄から阪急阪神ホールディングスに経営スポンサーが変更される「経営譲渡」と見なされ、阪急阪神ホールディングスは加盟料30億円の支払いを課されることとなった。しかしこの決定には十分な論議がなされておらず、阪神側は阪急阪神ホールディングスとしては球団にかかわらないことになったことを主張し、この対応を不服として再検討を要求した。この主張はほぼ認められ、同年末に加入手数料として1億円のみの支払いとなることが決定された。, この他、かつては株主優待として、阪神電鉄の株式を9月30日時点で5,000株以上保有する株主に対して、翌年度の阪神甲子園球場でのタイガース主催試合のうち1試合2名を内野席(アイビーシート)に無料招待していたが、経営統合による阪神電鉄の上場廃止でこの無料招待も廃止された。, 2020年、新型コロナウイルスの世界的流行により、日本政府からの緊急事態宣言が4-5月にかけて発出され、プロ野球もシーズンの開幕が延期となるなど大きな打撃を受ける[142][143]。そんな中、3月26日にプロ野球界初の新型コロナウイルス感染者として藤浪晋太郎の陽性が判明し、翌日にもさらに2選手の感染が判明[144]。彼らの感染経路は不明ながら、感染が確認されなかった他の4選手とともに球団外の人物らと不特定多数で大阪市内の知人宅で会食しており[144]、同席していた20代女性2人も感染したことから[144]、来たるべき開幕に向けて感染対策の徹底を図りたい球界関係者のみならず、日本国民全体が外出の自粛や「三密」回避など多くの制約を求められる社会情勢の中での軽率な行動に多くの批判が集まった[142][144][145]。球団は一時活動停止となり、感染した選手が対中日2軍戦に出場していたナゴヤ球場は消毒を行うなど他球団にも影響が波及する事態となった[144]。, また、9月25日に2軍にて浜地真澄の感染が確認され[146]、直後のPCR検査でキャプテンの糸原健斗ら1軍4選手とスタッフ2人の感染が判明[147]。同日、感染した4選手と保健所から濃厚接触者として認定された2選手、球団独自の濃厚接触者扱いとなった4選手の計10選手が出場選手登録を外れ[147]、2軍から緊急昇格した9選手と合わせて19選手が出場選手登録を入れ替わる事態となり[147]、同日開催予定だった2軍の対中日戦は中止となった[146]。10選手や浜地らの行動経路から、同月19日に名古屋にて糸原やチーム最年長の福留孝介らによる8人での会食と、同日に別の場所で浜地ら中継ぎ投手4人による会食をそれぞれ行なっていたことが発覚した[148][149]。感染対策として遠征時の外食を全面的に禁止としている球団もある中、阪神は選手の息抜きの必要性を考慮して名古屋、広島での遠征時に設けた指定日に限り「4人まで」「同ポジションは極力控える」などの条件付きで外食を許可していたが[148][150][151]、彼らの行動はこの内規に反していたことから多くの批判が集まった[148][150][151]。球団も10月11日に該当の選手らに制裁金を課す処分を発表した[149]。, これらに関し、2度にわたり選手らの不用意な行動から感染者を出してしまった球団もその管理体制の甘さを問われるところとなり、阪急阪神ホールディングスの角和夫代表取締役会長グループCEOも10月7日のサンケイスポーツなどの取材に対して「球団の管理責任と、けじめが必要」と進退問題を示唆する発言をした[152][153]。, 一連の流れを対し、10月9日に揚塩健治球団社長が「混乱を招いた最終的な責任は私にあります」として、同年シーズン限りで辞任することを発表[154]。そのうえで、以後は遠征先での外食を一切禁止にするなどの感染防止対策を徹底する考えを示した[154]。, 球団オフィシャルスポンサーは、タイガースの球団経営の趣旨に賛同する企業・公益法人などの各種団体を対象として、球団と各団体が相互に成長していくことを目指すとしており、それらを象徴するシンボルとして、協賛スポンサー団体と球団のそれぞれのロゴマークが並列して描かれた「球団公認コンポジットロゴマーク」を広告やホームページなどに掲出できる[155]。, 2013年、上新電機株式会社とミズノ株式会社の2社が球団史上初となる「球団オフィシャルスポンサー」として正式に締結された[155]。その後、2014年度からは株式会社ローソン[156]、2018年度からはアサヒビール株式会社がそれぞれ加入している[157]。, セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。なお、2002年に掲出していたあしなが育英会のマークは、スポンサー契約等によるものではなく球団がボランティアで掲出していたものである。, この年は引き分けとして0.5勝+0.5敗を勝率に加算されていたため、引き分けとして0.5勝+0.5敗を勝率に加算されていなければ、大阪は勝率.5123、中日は勝率.5120となり、両球団の勝率が3毛差となり大阪は2位、中日は3位となる。, この当時、甲子園は改装工事中で使用できなかったため、京セラドーム大阪で試合を行った。, 1975年には全国高等学校野球選手権大会の日程が雨天順延が相次いで5日延びたため、甲子園で行う予定だった阪神の試合が雨天中止に準じた扱いで予備日に振替開催されたこともある。, なお、その次の主催ゲーム開幕シリーズ扱いとなる京セラドームの中日戦も中止となったため、延期日程補填の観点から10月にヤクルト3連戦を京セラドームで開催している, 当初、セ・パ両リーグで同時開幕を前提としていたため大阪ドーム以外での開催も検討されたが、パ・リーグがセ・リーグよりも一週間早く3月20日(土曜日)に開幕し、かつ開幕カードから3日間空けて26日(金曜日)から次カードを行うという日程を組んだ。なお、セ・リーグは26日に開幕した, 1950年の開幕前に甲子園球場で開催されたオープン戦「大阪市長杯」で全チームが参加した入場行進の写真に「阪神タイガース」のプラカードが写っているのが確認できる, 1961年に刊行した『毎日放送十年史』では南海との契約が営業に貢献したと記したが、1991年に刊行した『毎日放送の四〇年』の中では1971年に甲子園の阪神・巨人戦の中継枠2試合を確保したことを「"虎の子"の二試合、スポーツ担当だけでなく、全社あげて晴天を祈る気持ちだった。」と記すほど状況は変化していた, 南海と毎日放送との契約は、1960年に南海が契約額を引き上げたことから、1961年にはプロ野球中継自体を大幅に削減していた。, 『毎日放送の四〇年』には1970年代の関西地区のプロ野球ファンについて「圧倒的に阪神タイガースのファンが多く、次いで巨人、さらに間をおいて南海、阪急、近鉄である」と記し、その対応として同局が「ナイター中継は阪神、巨人を中心にしたセ・リーグに主眼を置き、パ・リーグ在阪3球団のカードを交え…選ぶのが基本姿勢」との記述がある, 星野は巨人への反骨心とすでにAクラス入りが決まっていたことから真ん中にボールを集めたといわれるが、カチカチになった阪神打線はこれを打てなかった(詳しくは, この試合はプロ野球の公式戦初となる「勝った方が優勝」となる事実上の優勝決定戦だった。, この際、タクシー1台が騒ぎに巻き込まれて車体に損傷を受けている。試合告知の看板への損傷などもあった(上記読売新聞記事による)。, 制作時点ではパシフィック・リーグの覇者が決まっていなかったため、「阪神 - パ・リーグ優勝チーム」という表記だった。, 登録番号:第1553794号、1978年4月19日出願、1982年12月24日登録。, 登録番号第1543155号、1978年4月24日出願、1982年10月27日登録。, 登録番号第1482910号、1976年11月10日出願、1981年10月30日登録。, 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月28日号11-13ページ復刻ユニフォーム物語」, 野村克也『野生の教育論:闘争心と教養をどう磨くか』ダイヤモンド社、2013年、97頁-, 西澤暲『阪神戦・実況32年。甲子園の放送席から見たタイガースの真実』講談社、2014年、第2章第11節「73年最終戦、甲子園で阪神が敗れ暴動が発生。そのとき放送席は!
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