搭乗員数:10~13名 全長:28.14m 二式飛行艇(にしきひこうてい)は、大日本帝国海軍の飛行艇。初飛行は1941年(昭和16年)。略符号は「H8K」。レシプロエンジン装備の飛行艇としては、当時世界最高の性能を誇る傑作機とされる 。二式大型飛行艇とも呼ばれ、二式大艇(にしきだいてい)の通称も持つ。なお、輸送型は「晴空(せいくう)」と呼ばれていた。九七式飛行艇の後継機として、同じく川西航空機で生産された。 連合軍におけるコードネームは「Emily(エミリー)」 。 慰霊碑・顕彰碑・記念碑, 海軍, 航空隊・航空全般, 靖國・護國・神社仏閣, 神奈川県, 横浜海軍航空隊(浜空)の遺跡として国内最大級のものが残っている。 「飛行艇格納庫」 浜空は日本最初の飛行艇部隊であったのだ。日本が誇る九七大型飛行艇や二式大艇を収納した大型格納庫。 ワクワクしますね…, が。 現在の神奈川県警第一機動隊の敷地が横浜海軍航空隊の一部であり、そこで当時の飛行艇格納庫=第三格納庫が現在も補修されながら使用されている。 つまり、アレな場所なわけです…行ってみましょう…, 横浜海軍航空隊(浜空)の第三格納庫。補修され、見た目は奇麗な巨大倉庫。 道路から遠目に見学することをおすすめします。, 監視カメラが働いておりますのであまり無茶はしないほうが賢明です。GoogleMap航空写真からキャプチャ。, 次いで富岡総合公園へ。 先ほどの格納庫の裏側の山の手にあたります。無茶苦茶広いです。, 横浜海軍航空隊隊門跡。浜空。 標札は後世のものではあるが往時の門柱に違和感なくおさまり、ここに横浜海軍航空隊の名残を伝えている。, 略称は浜空。 大日本帝国海軍初の飛行艇部隊として昭和11年(1936)10月1日に横浜海軍航空隊が開設。横須賀鎮守府所属。 1939年11月15日に南洋諸島を担当する第四艦隊附属となり内南洋哨戒に従事。, 昭和12年(1937)九七式飛行艇が制式化。以後終戦まで215機生産。 昭和16年(1941)二式大艇が制式化。輸送用晴空含め167機生産。 約400機を誇っていた海軍飛行艇部隊は終戦時には稼働機3機のみとなる。内1機現存。, 海軍航空隊で初めてレーザー索敵を運用し、水上機の利点を活かして南洋の空を索敵に従事。 運用のしやすさから最前線にも投入され、そして消耗していった部隊。, 海軍飛行艇部隊は開戦前から早くも南洋に展開されていた。 横浜航空隊は昭和16年9月に本部をマーシャル諸島ヤルートに置き周辺諸島に展開。開戦後はラバウルへ進出。 東港航空隊(台湾)は昭和16年11月にパラオ基地に展開。のちにインド洋アンダマンへ。, 昭和17年(1942)8月7日、ラバウルから最前線のツラギに全力展開していた浜空は米軍に強襲上陸され係留中だった飛行艇等全機が駐機場で破壊、司令宮崎重敏大佐以下玉砕。 海軍飛行艇部隊の要たる浜空はソロモン海に全滅… (昭和17年10月部隊再建), 題濱空 大鵬渡海奏奇功 離島守防意気隆 衆寡難勝嗟惨々 至誠不抜憶濱空 昭和四十六年十月二十一日 ソロモン・ガブツ島ニ於テ 草鹿任一 花押, 碑裏面 浜空の碑 この地に原隊を有せし飛行艇隊元横浜海軍航空隊は昭和十七年八月七日未明南太平洋ソロモン群島ツラギに於いて米軍の反攻上陸を受け二晝夜にわたる死闘の末宮崎重敏司令外五百余名全員玉砕せりこれらの人々の冥福よ恒久平和を祈念してこの碑を建立す 昭和61年4月吉日, 富岡総合公園。旧・横浜海軍航空隊基地跡。 浜空神社跡の真向かいに鎮座している慰霊碑。 ソロモンの海で散った横浜海軍航空隊を偲ぶ。, 実は終戦時に日本軍人の手で日本の空を飛んだ最後の日本軍機は「二式大艇」(二式飛行艇)だった。 昭和20年11月11日、残った1機を米軍に引き渡す為に詫間海軍航空隊(香川県)から横浜基地に空輸され、この横浜の地にて二式大艇は米軍に引き渡された。, 「最後の飛行艇」日辻常雄 水上機・飛行艇畑一本を歩み海軍飛行艇部隊とともにあった日辻氏(詫間空飛行隊長・海軍少佐)は、まさにこの米国へ引き渡された二式大艇で最後に日本の空を飛んだ人物。飛行艇好き必読の本。, この横浜基地から米軍に引き渡された「最後の二式大艇」(二式飛行艇/T-31号機/Tは詫間空/昭和18年3月製造第26号機)は返還運動もあり1979年に笹川良一氏の尽力により「船の科学館」にて引取され展示。2004年以降は海自鹿屋基地にて展示されている。, 連合国コードネームEmily。 「恐るべき機体」「空飛ぶ戦艦」「全世界の飛行艇に君臨する王者」飛行艇技術では日本が世界に勝利したと讃えられ数々の勇名を誇る。帝国海軍の飛行艇の伝統は、海自PS-1/US-1/US-2へと受け継がれ…, 船の科学館、在りし日の姿。(2003年撮影) 鹿児島の鹿屋には行ったことがなく。 いつかは行かねばなるまい土地です・・・。, 大艇ちゃん・・・。 さて、脇道にそれ過ぎましたね。 横浜海軍航空隊(浜空)は海軍飛行艇部隊の嚆矢でもあり二式大艇ゆかりの場所でもあるため、これもよすがを偲ぶきっかけの一つとして。, 余談ついでに。 二式大艇は居なくなり展示も宗谷だけになった船の科学館ですが二式大艇にまつわる冊子が売っています。 これ、写真豊富で修復前後や艇内部の様子などもあり、頒布300円の癖して凄く良い冊子です。, 話の筋を戻して富岡総合公園に。この地に平成20年春迄、浜空神社が鎮座していた。現在は追浜の雷神社に遷座。当地は浜空神社跡として鎮魂碑がある。, 浜空神社由来 昭和十一年十月一日飛行艇隊の主力として横浜海軍航空隊が当地に開設された。その守護神として造営されたのがこの浜空神社である。昭和二十年八月十五日大東亜戦争終結後当航空隊跡地は横浜市富岡総合公園として生れ変ったのである。 浜空会では特に願い出て戦没者の鎮魂と恒久平和を祈念して浜空神社の修復復興をはかり全海軍飛行艇隊の戦没者殉職者約二千柱の御霊を合祀した。横浜航空隊は浜空神社を中心とした広大な陸上の敷地と現在埋立てられた根岸湾水上の飛行艇発着場を専有していた。 隊員約一千名大型飛行艇二十四機を有する海軍最大の飛行艇専門航空隊としてその威容を誇ったものである。今なお隊門附近の桜並木と飛行艇大格納庫が当時を偲ぶ面影を残し訪れる者に静かに語りかけてくれる。時局の推移に伴い横浜航空隊から新たに東港航空隊が分立した。 昭和十六年十二月八日大東亜戦争勃発するやこの両隊は直ちに第一線に出動した。引続き第十四航空隊対潜専門部隊輸送教育等各精鋭飛行艇隊が横浜空を母体として誕生し第一線に又後方に配備されその強大な航続力を発揮して洋上大遠距離の哨戒・攻撃・輸送・救出・作戦等を展開しハワイ・印度・アリューシャン・豪州・ソロモンにわたる広大な戦域を駆け巡って勇戦奮闘した。作戦上部隊名を八〇一空(横浜)八五一空(東港)八〇二空(十四空)九〇一空(対潜)等に変更し戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して戦争終期には兵力集中の為、詫間航空隊に全飛行艇隊を集結して沖縄攻防戦に死闘を演じ満身創痍全力を尽し果たして戦の幕を閉じたのである。 中でも横浜航空隊はソロモン最前線のツラギに進攻作戦中強力な敵の反撃をうけて昭和十七年八月、宮崎司令官以下三三八名が壮烈な玉砕を遂げたのである。 富岡のこの地は、かくの如く誇りある海軍飛行艇部隊発祥の歴史をもっているのである。この事実を永く後世に語り継がんが為、ここに記念碑を建立する次第である。昭和63年1月 海軍飛行艇会 建立, 石碑正面のシンボルマークは飛行艇に音楽終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する「濱空会」の印。 海軍飛行艇部隊の犠牲者に。 慰霊と鎮魂、そして感謝を。, かつてこの地は浜空神社であった。 が、管理する世話人の老齢化により神社を維持する事が難しくなり、この浜空の地から横須賀空のあった追浜の雷神社に遷座し、今後の管理を委ねるという苦渋の選択があった・・・。, 濱空神社の碑 此処に横濱海軍航空隊の戦没者、物故者二千余柱の英霊をお祀りしていた「濱空神社」がありました。 名称は、古事記の「石楠船神」又の名「天鳥船」に因み、鳥は水鳥のように速く進むという意味の「船神」に由来するものです。 昭和十一年十月一日、この地に我が国における飛行艇部隊の本部として横濱海軍航空隊が開隊され、以来「九七式大艇」や昭和十七年には世界最優秀艇と謳われた「二式大艇」が開発され隊員は日夜猛訓練を続け、先の大戦におきましては華々しい戦果を挙げ又の多くの隊員が祖国のために散華されました。 毎年四月と前線部隊がつらぎ島で玉砕された八月を記念して生存隊員並びに関係各位により、濱空神社で慰霊祭を行い、 英霊に対し、鎮魂と慰霊の誠を捧げて参りましたが、戦後六十三年を閲し神社の社屋の老朽化と境内の清掃などの維持管理に当たる世話人の老齢化により、誠に残念ではありますが濱空神社を今後も維持管理することが不可能となりましたので、平成二十年四月六日の春の慰霊祭を最後に神社の社屋は追浜本町雷神社に移築して今後の維持管理をお願いし、神社の跡地にこの石碑を建立することになりました。 石碑正面の記号は、飛行艇の記号に音楽の終止符を織り込み「休める飛行艇」を意味する濱空会のバッジです。 此処に謹んで英霊に対して鎮魂の誠を捧げ碑文を賦します。 平成二十年八月吉日   遷座先 横須賀市追浜本町一-九 雷神社 世話人代表 加藤亀雄, 浜空神社跡。この地に訪れる前週には追浜の雷神社を参拝し遷座先の浜空神社にも拝していた。まだ浜空の地を訪れた事なかった私は、どうしてもこの元鎮座地に訪れたかったのだ。 ようやくこの地で手を合わせることが出来ました。 海軍飛行艇部隊の嚆矢たる地にて…, 追浜の雷神社境内には「浜空神社」が鎮座。正確に言うと遷座してきた。 浜空とは横浜海軍航空隊。横須賀海軍航空隊・追浜海軍航空隊の展開されていた追浜の地に、わけあって浜空神社が遷座してきたのだ。 維持の難しい性質の神社であることはわかります。特に戦友会や遺族会を軸とする場合は老齢化からは逃れられず。この場所での維持管理が難しいのであれば理解有る神社に遷座して管理を委ねる。こうやって遷座先でも変わらずに慰霊祭祀が行われる事は何よりも有難い事です。, 「浜空神社」 昭和13年に浜空犠牲者を祀る鳥船神社として横浜富岡に創建。昭和56年に鳥船神社跡地に浜空神社を再建。 平成20年に維持困難となり追浜空関係者の尽力により遷座。遷座を機に、追浜空犠牲者を合祀。, 水交会の平成28年盛夏号 「浜空鎮魂の碑」慰霊祭の記事。浜空神社は雷神社に遷座しましたが、鎮魂の碑でも引き続き慰霊祭が行われており。 慰霊顕彰の火を絶やすことなく…。, 公園の奥に。富岡総合公園内に「海軍の横須賀水道関連施設遺構」があるという。 名前もズバリの浜空上広場から、もしや往時からの石段か?と思わせる古びた石段をゆく。, 道?…道のような草むらをかき分けていくと、階段?…だった斜面が。 どうやらここは夏に来てはダメです。ヤブ蚊が凄いです。冬に来たいね。もう遅いけどw, 石段跡を上ると不思議な空間が。 通気管のようなものと、もはや用途のよくわからない塔状の構造物が林立しています。, 富岡総合公園内「海軍・横須賀水道関連施設遺構」 通気管のようなものを覗いてみます。ポケットライトが手元にありましたので照らしてみると水が反射。この下には貯水空間が残っている雰囲気。, 封鎖されている小屋は揚水ポンプ室跡?らしい。あとはコンクリ基盤が二箇所。 まあ、とにかく藪蚊がすごいです。やっぱ冬に来るべきですね。この手の場所はw, 富岡総合公園内には海軍標石も残っているらしいですが、どうにも藪蚊との戦いで疲れきっていたので標石探しはやめておいて「見晴らし台」を目指す。 ちなみに先ほどの水道施設は多目的運動広場の右奥の方でした。, 富岡総合公園見晴らし台。風景をみるわけではなく「格納庫」を見る・・・うん、やっぱり冬に( 横浜海軍航空隊名残の「第三格納庫」を上からちょっとだけ見下ろす。, 富岡総合公園見晴らし台。 第三格納庫の左側に広がる空間は第二格納庫跡地とのこと。 空き地が広がる。, 富岡総合公園をあとにして南部市場駅に向かう途中。さきほどの第二格納庫跡地を近くで見てみる。, 奥に見える工場は「日本飛行機 (ニッピ)」。戦前は旧海軍用航空機を製造しており局地戦「秋水」も製造していた。, 日飛の工場、往時の建屋が残っているかどうか、立ち入りできないけど。 日飛の初代社長は加藤亮一(海軍中将)。そして二代目社長が堀悌吉(海軍中将)。堀悌吉といえば山本五十六の兵学校同期にして主席卒業。海軍軍政の将来を期待されるも大角人事で予備役…, 現在は往時を物語る案内看板のみが残る。 横浜海軍航空隊の北側、昭和15年(1940)に大日本航空株式会社により日本初の飛行艇専用民間飛行場が作られた。, 根岸飛行場跡  昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社 により日本初の飛行艇 専用民間飛行場 が作られました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機 製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン 経由パラオ に向け飛び立ちました。  発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。  昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇 が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26~64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。  97式大艇の最終飛行は終戦後昭和20年(1945)9月の台湾向け紙幣の輸送で、2式大艇は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の託間基地からここに飛来したのが最後です。  根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。 97式大艇 2式大艇「晴空」型 イラスト・小川利彦 磯子区根岸地区連合町内会 横浜磯子ライオンズクラブ  磯子区郷土研究ネットワーク, 大日本航空株式会社は昭和15年に97式飛行艇で根岸からサイパン経由パラオに定期便を展開。南洋諸島と本土を結ぶ夢の航路であった。 そして戦中は海軍徴用で南方輸送航路として展開。, 「根岸飛行場跡」 当時、水上飛行場の隣にあった「動物検疫所」。今も「農林水産省動物検疫所」として往時と変わらぬ場所に往時と変わらぬ役目で施設が残っていた。, 「根岸飛行場跡」 大正12年関東大震災の復興後に石積護岸されたという往時と変わらぬ姿で、動物検疫所の脇を流れる掘割川。(土木学会選奨土木遺産に認定) 橋の脇には昭和3年「八幡橋親柱」も残されている。, さきほどの橋は「八幡橋」。八幡様が鎮座している。 八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社) 近在の「根岸八幡」が元は当地に鎮座しており、現在地に遷座後( 明和3年1766)の空白地に当社が創建。, このひときわに大きな球体が境内で目につきます。 一瞬「機雷」?とも思いましたが、どうやら「ブイ(浮標)」らしく。, 横浜海軍航空隊を軸に、飛行艇の姿を夢想しながらの散策。色々垣間見た横浜南部の散歩でした。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。. 飛行艇大国日本が生んだ世界的名機・2式飛行艇 飛行中の2式飛行艇。 本機は日本が実用化に成功し、さらに第二次大戦における実戦で、相応の活躍ぶりを示した唯一の4発機である。 開発の経緯 us-1aからus-1a改、us-2へ. いや侮辱じゃなくてほんとだから。, 元々共産圏への武器輸出はしないとの主旨のものがいつの間にか日本は武器輸出をしない、できないとされていた。同じ敗戦国のドイツは議会の審査がもちろんあるにして世界へ武器を輸出している。日本も友好国へ武器を輸出することはその国を助けることなる、各国が自国の軍事予算を抑える為に兵器共同開発は当たり前の時代, 〉インドが高額な兵器を持つ意味があるのかな?インドには貧困にあえぐ人々がまだ沢山います。原爆を持つ限り、インドを攻める国はないでしょう。でもねインドは中国と国境線をめぐって戦争をしている。今の時代全面戦争はリスクが高すぎて起こらないかもしれない、でも局地的な戦争は十分に起こり得る。日本国内でも中国がなぜ日本に攻めてきますか?戦争など起こらないでしょうと言う人もいます、しかし尖閣諸島をめぐる局地的な戦争の可能性は低くないと言うことです、それがまったくないと思うから頭がお花畑と言われる。軍事政権だったアルゼンチンが突如フォークランド諸島を占拠して起こったフォークランド紛争を日本人は今一度見返してみるべきだと思う。, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。. 二式飛行艇(にしきひこうてい)は、大日本帝国海軍の飛行艇。初飛行は1941年(昭和16年)。略符号は「H8K」。レシプロエンジン装備の飛行艇としては、当時世界最高の性能を誇る傑作機とされる[1]。二式大型飛行艇とも呼ばれ、二式大艇(にしきだいてい)の通称も持つ。なお、輸送型は「晴空(せいくう)」と呼ばれていた。九七式飛行艇の後継機として、同じく川西航空機で生産された。 連合軍におけるコードネームは「Emily(エミリー)」[2]。, 1930年代の日本海軍は、ワシントン海軍軍縮条約・ロンドン条約によって対米劣勢を余儀なくされた艦艇勢力を補うため、陸上基地から発進して洋上の敵艦隊を捜索・攻撃する長距離攻撃機(雷撃・爆撃機)を装備することを構想し、中型飛行艇(中艇)/大型飛行艇(大艇)、中型陸上攻撃機(中攻)/大型陸上攻撃機(大攻)という、発動機の双発・四発、および発進基地の水陸に差を設けた体系を計画した。その一環として最初に実用化された大艇が九七式飛行艇であり、最大速度は385 km/h、魚雷2発を搭載した攻撃過加重状態での航続距離は約5,000 kmに達した。九七式飛行艇の更新用機材とすべく「十三試大型飛行艇」として開発が始められた二式飛行艇は、攻撃飛行艇として、当時諸外国が一般的に飛行艇に求めていた性能を上回るものが要求された。海軍の要求性能の一部を列記する。, 第一次世界大戦が終わると列強各国は軍縮に転じ、軍艦の建造を自粛する海軍休日に入った。日本海軍は仮想敵国の1つであるアメリカ海軍に対する数的劣勢を航空戦力で補うことを企図し、海軍航空本部は1937年(昭和12年)7月に「航空軍備に関する研究」をまとめる[3]。航続距離の長い大型陸上攻撃機を運用することを想定したが、日本が第一次世界大戦後に国際連盟から委任統治領として託された南洋諸島の基地整備は難しく、大型飛行艇によるアウトレンジ戦法を模索するようになる[3]。川西航空機が開発した九七式飛行艇は、この構想を現実のものとした[4]。, 一方で4発エンジンを持つ大型陸上機を推す意見も強く、1938年(昭和13年)4月18日に海軍航空本部技術部は「十三年度試製飛行機計画要求案摘要」で『十三試大型飛行艇』(川西)・中島十三試大型陸上攻撃機(深山)(中島飛行機)の計画要求案をまとめた[5]。中島の深山は、川西の二式大艇にとって文字通りライバルであった[6]。十三試大艇の正式試作発令は同年8月21日である[7]。, 飛行艇は、陸上機に比べると水面からの離着水のために「船」と「飛行機」の性質を併せ持たねばならず、機体は大きくなりがちで艇底の形状も空気抵抗が大きく、速度において陸上機より不利であった[4]。海軍側の要求は、陸上機なみの攻撃力を備え、大航続力をもった、高速機という、当時の飛行艇の水準をはるかに超える過酷なものであった。製作担当の川西航空機は、九七式飛行艇を設計した菊原静男技師を設計主務者に任命し、設計制作を行った。九七式飛行艇で自信をつけていた菊原は「よしきた」という気持ちで張り切ったという[8]。最重点目標は航続距離であった[9]。, 1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦が勃発し日本とイギリスやアメリカなどとの緊張も高まる中、和田操空技廠長は1940年(昭和15年)中に本機を完成させるよう厳命した[10]。同年12月29日、十三試大艇は川西鳴尾工場で完成し、翌日試験飛行を行った[10]。不安定だった方向舵の問題はすぐに解消されたが[11]、過荷重重量28 tで離水テストを実施したところ、飛沫のためプロペラ先端が曲がり離水不能となる問題が発生した[12]。この問題は度重なる水槽実験の結果、艇体の小改造と波押さえ装置(通称かつおぶし)を装備する事で飛沫を抑えることに成功した[13]。1941年(昭和16年)3月26日に試作1号機が領収され、1942年(昭和17年)2月5日に『二式飛行艇11型 H8K1』として制式採用が決定した[14]。先行していた本命の「深山」が失敗作となる中、二式大艇は高性能の四発大型飛行艇として完成した[15]。, 菊原は、「深山」の不運は失敗機であるアメリカのダグラス DC-4Eをベースにした事とした上で、二式飛行艇はゼロから基礎設計を行えたこと・重量管理統制が成功したことが両機の差になったと回想している[16]。, このほかの機内設備としては機体前後部や上部の銃座は大型の20 mm機銃に合わせて動力銃座を採用、胴体や主翼の燃料タンク(全14個、合計17,080 ℓ)には防弾を施し、索敵や哨戒では24時間近い長距離飛行を行うことから便所や仮眠用のベッド、食品を保管する冷蔵庫も設けられ、無線室も胴体前部と後部の2か所備えた。, なお、本機は胴体を細長く設計したことから水上滑走中に機体が跳ね上がるポーポイズ現象が起こりやすく、対策として機首ピトー管に横棒(「カンザシ」と呼ばれた)を取り付け、これと風防に描かれた細い横線を基準にして機体角度を保ったまま操縦することで解決した[17]。ただし、川西で製作した取扱説明書は前線部隊で全く読まれることはなく、事故が続発した。1944年(昭和19年)2月-5月の実験で機体を改造することなく、操縦方法の改善により事故を押さえられることが判明した[18]。防水塗料の粗悪さから水密性は不完全で、事故予防のためにも底に溜まった水をバケツで汲み出す作業は欠かせなかった[19]。戦争終盤になると機体疲労が進み、水漏れの傾向に拍車をかけている[20]。, 二式大艇22型。二式大艇12型(H8K2)の翼端フロートと後部上方20 ㎜機銃を引き込み式にし、空気抵抗を減らして飛行性能を向上させることを意図した機体。1943年(昭和18年)2月13日に領収飛行を行って性能実験を行ったが、重量2トン増加、性能は原型機と全く変わらない上に水上性能も低下、2機の試作のみで終わった[21]。2機は第八〇一航空隊で実戦任務につき、たびたびB-24リベレーター爆撃機と誤認されたという[21]。1945年(昭和20年)3月に2機とも夜間索敵任務にて未帰還となった[22]。, 海軍は十三試大艇の開発中から輸送型の改造を計画していた[23]。1942年はじめに海軍から川西に試作指示があり、十三試大艇試作1号機を輸送型H8K1-Lに改造、1943年(昭和18年)11月30日に納入した[24]。仮称「晴空」三二型(H8K2-L)として、1943年(昭和18年)に11機、1944年(昭和19年)に24機が完成した。1945年(昭和20年)に二式大艇二三型(H8K4)を改造した「晴空」三三型(H8K4-L)も試作されたが、量産されなかった[25]。二式飛行艇輸送型の総生産機は36機であった。, 二式大艇開発後、川西社内では次の機体開発について3案があり、強風を陸上機化した戦闘機開発、新型艦上攻撃機開発案、本機を陸上機化した爆撃機の開発案で、結局戦闘機開発が選択された。, なお、この二式大艇陸上機化案に「海軍でG9Kの記号を与えた」とする説があるようだが、こうしたプランは公式のものではなく、海軍の実用機試製計画にも取り上げられていない。実用機試製計画「K-100」が与えられていたのは、護エンジンを18気筒化した「護改」双発の十七試陸上攻撃機だった。, 大型高速で充分な防御火器を装備した本機は連合国パイロットから「フォーミダブル(恐るべき)」機体と呼ばれた(英国航空評論家ウィリアム・グリーン)。制式採用直後の1942年(昭和17年)3月4日には、大航続力を生かして2機で真珠湾を再空襲した(K作戦)。だが3月7日のミッドウェー島長距離偵察で、K作戦大艇隊指揮官橋爪寿雄大尉機が米軍戦闘機の迎撃で撃墜され、二式大艇最初の戦闘喪失機となった[26]。ミッドウェー作戦では本機が長距離偵察を行う計画であったが、米軍の妨害や天候のため実施されなかった[27]。その後も高速と航続力を生かしてエスピリッツサント島やオーストラリア本土、セイロン島、カルカッタといった長距離の偵察・爆撃に活躍した。ソロモン諸島方面に投入された第八〇二航空隊の本機は、水上機母艦「秋津洲」の支援を受けて活動している[28]。, 1943年(昭和18年)11月には、アメリカ軍のP-38ライトニング双発戦闘機3機と40分交戦した玉利義男大尉機が1機を撃退し、自機もエンジン2基停止と230箇所被弾、乗員1名負傷という状態で帰還、その後日本本土に戻された[29]。さらに1944年(昭和19年)以降は日本軍多発機の中にあって、防御が弱かった一式陸攻などに比べると遥かに連合軍にとって危険な相手だった。B-25ミッチェルやB-17といったアメリカ軍の大型陸上機を積極的に追撃して撃墜した記録もある。その攻撃力から「空の戦艦」などとも呼ばれた。, このように頑丈な本機であったが、1945年に入ると太平洋戦線においては連合国軍に対して戦況が悪化して制空権が奪われ、敵戦闘機の攻撃が増えると足の遅さに加え重防御も耐え切れず、消耗していった[30]。機体を短時間で退避、隠蔽させることも難しく、基地や水上に置かれたまま連合国軍機の空襲で破壊されたものもあった。さらに川西航空機の生産力が局地戦闘機紫電改に集中したこともあって1943年末の時点で生産数が低下、1944年は二式大艇12型33機・輸送型「晴空」24機、1945年はわずか2機の生産であった[31]。製造に大量の資材を使い、航空燃料の消費も多かったことも、生産打ち切りの一因とされる[32]。, また1945年3月の第二次丹作戦(銀河による長距離特攻作戦)に代表される長距離の索敵・誘導任務、トラックやラバウルといった孤立した基地への強行輸送・搭乗員救出などを行ったこともあって、成果を挙げると同時に損害も出している。補充も望めない中、第五航空艦隊(宇垣纏司令長官)所属の二式大艇はレーダーを搭載して夜間索敵に活躍したが、アメリカ軍やイギリス軍らの夜間戦闘機・哨戒機の迎撃により少なからず被害を出している[33]。, 例えば前述の丹作戦・梓隊で特攻機を誘導した二式大艇3機のうち、生田中尉機は生還、杉田中尉機はPB4Y-2プライヴァティア哨戒機(B-24の発展系哨戒機型)に撃墜され[34]、長峯飛曹長機はメレヨン島に不時着して水没処理され搭乗員は潜水艦で帰投した[35]。五航艦の二式大艇隊は、2月10日から終戦まで27機・約250名を失った[36]。終戦時に完全な状態で残っていたのは二式大艇5機、晴空6機のわずか11機であり、うち8機は終戦から数日で処分、もしくは移動中の事故で失われたため、進駐してきた連合国軍から機体の引き渡しが通達されたときは詫間基地に残された3機を残すのみとなっていた。, また、海軍甲事件で戦死した山本五十六のあとを継いで連合艦隊司令長官となった古賀峯一海軍大将が移動中に遭難し殉職した時には二式飛行艇の輸送機型「晴空」に乗っていた(海軍乙事件)。古賀長官の1番機は燃料7割、福留繁連合艦隊参謀長の2番機は燃料8割の時点で空襲警報があったため離陸、熱帯低気圧に遭遇して墜落したのである[37]。なお、空襲警報は誤報であった。通信科・暗号・気象関係員が搭乗した3番機は無事に到着した[38]。, 全タイプ合計167機以上生産されたうち、前述のように終戦後、作戦可能機体は七尾基地の3機のみだったが、1機は詫間基地への移動中に不時着して島根県中海に海没処理された[39]。8月22日の時点で詫間基地に残されていたのは3機[40]。その中の第426号機(表記、1943年(昭和18年)3月製造第26号機/推察)「詫間31号機」が、残存機のテスト飛行を希望したアメリカに引き取られて性能確認試験が実施され、圧倒的な高性能を発揮してアメリカ側を驚かせている[41]。, 指揮官兼操縦者の日辻常雄少佐は本機を受け取りにきたアメリカ軍クルーのPBY カタリナを操縦し、二式大艇に比べ離水は簡単だが飛行性能は圧倒的に劣り、アメリカ軍指揮官も「飛行艇技術では日本が世界に勝利した」と賞賛した[42]。その一方で着水した二式大艇に新聞記者が殺到した際、日辻は気化ガソリンのため艇内禁煙であることを説明しなければならず、性能が劣るとはいえガソリン漏れの心配がないPBYとの差を実感している[43]。アメリカ軍もPB2Y コロネド飛行艇(二式大艇と同規模)と比較して二式大艇の方が遥かに優秀としつつ、ポーポイズ現象と機体強度に問題があると指摘したが、これは両国・両機の設計思想の違いによるものであった[44]。, 1947年(昭和22年)の試験終了後、詫間31号機は長らくアメリカのノーフォーク海軍基地で厳重に保管されていた[45]。1959年(昭和34年)、菊原技師は海軍基地の二式大艇を見学して返還交渉を行ったが、日本への輸送手段が見つからず、3年後に米海軍は合衆国内で永久保存の方針を伝えた[46]。その後、斎藤茂太らが中心となって返還運動を起こす中、1978年(昭和53年)6月にアメリカ海軍の経費削減で保管終了が決定、「日本で引き取る」もしくは「スクラップ」を日本側で選択することになった[47]。その結果船の科学館にて引き取りを表明、1979年(昭和54年)11月13日に日本に到着する[48]。整備を経て1980年(昭和55年)7月から東京の「船の科学館」に長らく野外展示されていた。2004年(平成16年)4月末からは鹿児島県鹿屋市にある海上自衛隊鹿屋航空基地史料館に保管(野外展示)されている。, また、サイパン島には近場の海中に残骸が残っている場所があり、その場所はダイビングスポットになっている。それ以外にもミクロネシア連邦・チューク州(旧島名:トラック諸島)の海底にも同じように二式大艇があり、こちらもダイビングスポットとして間近で見る事ができる。, 設計主務者である菊原静男技師は、その後海軍局地戦闘機「紫電」「紫電改」の設計を担当。終戦後、川西航空機の後身である新明和工業で、再度国産飛行艇PS-1の制作に携わった。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=二式飛行艇&oldid=80065162.
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