http://www.ttb.gov/appellation/us_by_ava.pdf, Colorado rides on Fat Tire to beer heights, http://www.cof.org/files/Documents/Government/StateGiving/CO.pdf, Colorado Diamonds:Too Little of a Good Thing, State of Residence in 2000 by State of Birth, OMB Bulletin No. コロラド州(英: State of Colorado [kɒləˈrædoʊ, -ˈrɑːdoʊ] ( 音声ファイル))[1]は、アメリカ合衆国西部にある州である。北側はワイオミング州に接し、北東はネブラスカ州、東側はカンザス州、南側はニューメキシコ州とオクラホマ州に、西側はユタ州に接している。南西の隅はフォー・コーナーズと呼ばれる4つの州がその角を接するポイントであり、ここでアリゾナ州とも接していることになる。州の南北にはロッキー山脈が貫いており、州全体の平均標高が全米で一番高い、山岳地帯の州である。州の西部はコロラド高原、東の方はグレートプレーンズ(大平原)西部のハイプレーンズ(英語版)である。面積では50州の中で第8位だが、人口では第22位である。, 州の名前はスペイン人探検家が名付けたコロラド川に因んでおり、「コロラド」という言葉は「赤みをおびた」を意味するスペイン語で、コロラド川が山岳部から運ぶ赤い沈泥を表している。, 今日コロラド州となっている地域には、13,000年以上前からインディアンが住んでいた。ラリマー郡にあるリンデンマイアー遺跡では紀元前11200年から同3000年と同定できる人工物が出土している。ロッキー山脈の東縁は主要な回遊ルートであり、アメリカ大陸に人類が広がっていくうえで重要だった。古代プエブロ人が、コロラド高原のバレーやメサに住んでいた[3]。ユト族インディアンはロッキー山脈の南部と西部にある山岳部バレーに住んでいた。アラパホ族やシャイアン族は狩猟のためにハイプレーンズ(英語版)(グレートプレーンズ西部の高原)を横切って西に移動していた。, ロッキー山脈の東にあるコロラド州の東側の部分は1803年のルイジアナ買収のときに、アメリカ合衆国がフランスから獲得した。この時にアメリカ合衆国が得た領土は、スペインのサンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコ入植地周辺の広大な領土と重なり、紛争が生じた。その地域ではスペインがインディアンと交易を行っていた。1806年、ゼブロン・パイク大佐がアメリカ陸軍の偵察隊を率いて、この論争のあった地域に入った。翌年2月にパイクとその隊員はサンルイス・バレーでスペイン騎兵隊に逮捕されてチワワ州に連行され、7月にはメキシコから追放された。, 1819年のアダムズ=オニス条約により、スペインからフロリダを購入した見返りとして、アメリカ合衆国はアーカンザス川の南と西、北緯42度線より南、西経100度線より西の全ての土地を放棄した。この条約は1821年2月22日に執行となった。スペインとの国境問題が解決したことで、1821年8月10日にはミズーリ準州の南東部をミズーリ州として昇格させた。コロラド州の北東部となる所を含んでいたミズーリ準州の残り部分は未編入領土となり、奴隷制問題のために33年間もそのままにされた。スペインは11年間に及んだ戦争の後で、1821年8月24日に結んだコルドバ条約により、メキシコの独立を承認した。メキシコはアダムズ=オニス条約を1831年に批准した。1835年から1836年にかけてのテキサス革命によってアメリカ合衆国とメキシコの間の紛争が加速され、1846年開戦の米墨戦争に繋がった。1848年に戦争を終わらせるために結ばれたグアダルーペ・イダルゴ条約によって、メキシコはその北部領土をアメリカ合衆国に割譲した。, 19世紀半ば、オレゴン・カントリー、カリフォルニアの新しい金鉱原、およびソルトレイク・バレーのモルモン教徒入植地であるデザレットに陸路向かうアメリカ人開拓者の大半は、岩の多いロッキー山脈の南部を避け、ノース・プラット川とスウィートウォーター川を辿って、ロッキー山脈の南部と中部の間にある大陸分水界では最も低い峠であるサウス・パスを越えて進んだ。1849年、ソルトレイク・バレーのモルモン教徒は超法規的なデザレット州を創設し、グレートベースンの全体と、グリーン川、グランド川、コロラド川の流域全てを領域に含むものと主張した。モルモン教徒は神権政治的であり、複婚を是認していたので、連邦政府はモルモン教徒の新政府を承認することをにべもなくはねつけた。その代わりに1850年妥協によって、メキシコ割譲地とテキサス州が領有主張していた北西部を、1つの新州、すなわちカリフォルニア州と、2つの準州、すなわちニューメキシコ準州とユタ準州に分けた。1851年4月9日、ニューメキシコのタオス地域からきたメキシコ系アメリカ人開拓者が、当時ニューメキシコ準州内、後にコロラド州の最初のヨーロッパ系アメリカ人開拓地としてサンルイスの村を設立した。, 1854年、アメリカ合衆国上院議員スティーブン・ダグラスが連邦議会を説得して、大陸分水界より東の領土をカンザス準州とネブラスカ準州に分け、さらにその南にインディアン領土と呼ばれる未編入領域を設けた。新しい準州2つはその領域内で奴隷制を採用するかを住民が決定できるものとされたが、この妥協は自由土地派と奴隷制擁護派の間の敵意を増しただけだった。, 1858年7月、当時のカンザス準州西部にあるサウス・プラット川沿いで金が発見され、パイクスピーク・ゴールドラッシュが始まった[4]。地域にある川や水流沿いの砂金鉱床は急速に取り尽くされたが、鉱山師達が間もなく近くの山の中でさらに大きな価値のある金鉱脈を発見した。, 金の探求者達が1859年8月24日にジェファーソン準州の暫定政府を組織化したが、奴隷制に関する論議の煽りを食ってこの新しい準州に対するアメリカ合衆国議会の承認を得られなかった。1860年11月6日、アメリカ合衆国大統領選挙でエイブラハム・リンカーンが大統領に当選し、これが引き金となって南部の奴隷州9州が合衆国からの脱退を宣言し、内乱の脅威が引き起こされた。議会を支配していた共和党は自由州の政治力を補強するために、即座に1861年1月29日、カンザス準州東部を自由州のカンザス州として昇格させ、準州西部の金が探索される地域は未編入領土として残した。, その30日後にあたる1861年2月28日、任期終了間近のジェームズ・ブキャナン大統領が、自由準州としてコロラド準州を創設する法案に署名した[5]。当初定められたコロラドの境界は今日も変わっていない。コロラド川の源流が領域内にあると考えられていたので、準州の名前にコロラドが選ばれた[6]。1776年、スペイン人のシルベストレ・バレス・デ・エスカランテ神父が、地域のインディアンは山から川が運ぶ赤茶色の沈泥故に、この川を「エル・リオ・コロラド」と呼んでいたことを記録していた[7]。1859年、ジョン・マコーム大尉の率いるアメリカ陸軍地形工学遠征隊が、現在のユタ州キャニオンランズ国立公園内で、グリーン川とグランド川の合流する地点を突き止めた[8]。マコーム隊はこの合流点をコロラド川の源流と指定した。, 1861年4月12日、サウスカロライナ州の砲兵隊がサムター砦に砲撃を開始して、南北戦争が始まった。多くの金探求者がアメリカ連合国に同調的だったが、過半数は熱烈に北軍側に忠誠な者達だった。, 1862年、テキサス州の騎兵隊がニューメキシコ準州に侵入して、3月10日にサンタフェ市を占領した。アメリカ連合国が西部に侵入した目的はコロラドとカリフォルニアの金鉱原を支配するか妨害するかし、太平洋の港を抑えることだった。このテキサス部隊の動きを遮るために、急拵えで編成されたコロラドの志願兵部隊が、デンバーからニューメキシコ準州のグロリエタ峠に進んだ。3月28日、コロラド部隊とニューメキシコの地元志願兵がグロリエタ峠の戦いでテキサス部隊の進軍を止め、その大砲や物資運搬荷車を破壊し、馬とラバ500頭を逃走させた。テキサス部隊はサンタフェまでの撤退を強いられた。その作戦のための物資を失い、ニューメキシコでもほとんど支援を得られなかったテキサス部隊はサンタフェを放棄してサンアントニオに戻った。その後アメリカ連合国が南西部に進出する試みはなかった。, 1864年、コロラド準州知事ジョン・エバンスがジョン・チヴィントン牧師を志願兵部隊の大佐に任命し、牛を盗むと告発されていたシャイアン族やアラパホ族インディアンから開拓者を守るよう命令を出した。チヴィントン大佐はその部隊にサンドクリーク沿いで宿営しているシャイアン族やアラパホ族の集団を攻撃するよう命じた。チヴィントンはこのとき500名以上の戦士を殺したと報告した。この民兵隊はデンバーに凱旋したが、幾人かの役人がこの戦闘と呼ばれているものは、戦う意志の無いインディアンを明らかに虐殺したものだと報告した。殺された者の多くは女子供であり、死体は酷いやり方で損傷されていた。アメリカ陸軍による審問でこの事件を告発し、その後大統領になるアンドリュー・ジョンソンがエバンス知事の辞任を求めたが、結局実行者の誰も罰せられることは無かった。, 南北戦争の戦中および戦後、金で財を築けなかった山師の多くが故郷に戻ったが、意志のある少数が準州内に留まり、鉱山、製材所、農園、牧場および町を造った。1864年9月14日、ジェイムズ・ハフがアージェンタイン峠近くで銀を発見し、数多い銀山の最初のものになった。1867年、ユニオン・パシフィック鉄道が準州北東隅のウェア、現在のジュールズバーグまで線路を敷いた。1869年5月10日、ユニオン・パシフィック鉄道はユタ準州プロモントリー・サミットでセントラル・パシフィック鉄道の線路と結合し、最初の大陸横断鉄道が開通した。翌1870年6月にはデンバー・パシフィック鉄道がデンバー市まで伸び、2か月後にはカンザス・パシフィック鉄道が開通して2本目の大陸横断鉄道となった。1872年、準州内南西部にあったユト族居留地内のサンフアン山脈で大きな銀の鉱脈が発見された。翌年ユト族はサンフアン居留地から移動させられた。, 1875年3月3日、アメリカ合衆国議会はコロラド準州が州に昇格するための要求事項を規定する授権法を成立させた[9]。1876年8月1日(アメリカ合衆国建国100周年から28日後)、ユリシーズ・グラント大統領がコロラドを合衆国第38番目の州として昇格させる宣言書に署名した。このことで、コロラド州は「100周年の州」という渾名がついた[10]。, 1878年にリードビル近くで大きな銀の鉱脈が発見され、コロラド・シルバーブームが始まった。1890年のシャーマン銀購入法で銀鉱業が活性化し、その数ヶ月後にはコロラドで最後かつ最大の金の鉱脈がクリップル・クリークで発見されて、金探鉱者の新しい世代を惹き付けた。コロラド州は1893年11月7日から婦人参政権を認めて普通選挙を導入した2番目の州となり、また住民投票を行った最初の州となった。1893年にシャーマン銀購入法が撤廃され、コロラドの不安定な鉱業と農業が崩壊したが、その後は緩りとまた着実に回復していった。, 1908年にデンバーで民主党全国大会が開催された。これは西部の州で二大政党の全国大会が開催される初の機会となった。1930年の国勢調査で、州人口は初めて100万人を超えた。世界恐慌と1930年代のダストボウルはコロラドを直撃したが、第二次世界大戦後の移民の大きな波が訪れてコロラドの運命を変えた。観光業が州経済の主幹となり、ハイテクが重要な経済推進力となった。国勢調査局の推計では2009年に州人口が500万人を超えた。, アメリカ海軍の3隻の軍艦がUSSコロラドと名付けられてきた。最初のUSSコロラドはコロラド川に因む命名だった。後の2艦はコロラド州に因むものであり、戦艦USSコロラドは1941年から第二次世界大戦の太平洋戦線で活躍した。真珠湾攻撃のときは、カリフォルニア州サンディエゴの海軍基地にいたので、攻撃を免れた。, コロラド州は緯線と経線のみで囲まれている(州境線がすべて緯線か経線になっている)州であり(このような州は、他にワイオミング州とユタ州がある)、北緯37度から41度まで、西経102度3分から109度3分までの範囲を占めている[9]。南西端の北緯37度及び西経109度3分では、アリゾナ州、ニューメキシコ州、ユタ州とコロラド州が1点で接しており、そこはフォー・コーナーズと呼ばれている。コロラド準州時代に州境の標識を打つとき、測量のミスで幾つかの小さな歪みができた。その中でも著名なのがユタ準州との境界である[11]。このずれを一旦連邦政府、関係州、準州が認めてしまったので、ずれを含んだままコロラド準州の法的な境界として定められた[12]。
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