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23:35だったが、後に23:00 - 23:35→22:55 - 23:10に変わった。また、1964年までは翌7:00 - 7:20に再放送されていた(いずれもペナントレース期間中のみ放送だった)。, 1960年にはカラー放送が始まっていたが、まだ、テレビ界で全時間帯におけるカラー化には至っておらず、全体の1割程度だった。そのため、第1期は白黒で放送していた。, 当時の番組は、2試合をフィルムに解説を交えたうえで、残りの試合は共同通信社より送られてきた情報を短くまとめて、結果をフリップに書いたものを利用しつつ伝えていた[1]。, 『プロ野球ダイジェスト』を放送終了した日本テレビは1965年11月『11PM』の放送を開始。瞬く間に人気番組に駆け上り、23時枠は同局の一人勝ち状態が続いた。これに各局もより報道色の強いワイドショー番組等で対抗するものの、すぐに『11PM』以上のお色気路線に転向したNET(後のテレビ朝日)の『23時ショー』が辛うじての成功例で他は全く歯が立たない状態だった(1969年4月から約3年間、フジテレビは関西テレビや東海テレビとの3社共同制作〈キー局は曜日ごとの交代分担制〉の芸能ニュースを主軸とした『テレビナイトショー』→『トゥモロー』が放送されていたが、その後打ち切られ、ドラマ再放送や映画などで穴埋めをしていた。またこの間、スポーツニュースはおおむね5分程度のものが主であった)。, しかし『11PM』の視聴率が1975年頃から落ち始め、それに合わせるかのように地方局が相次いで『11PM』のネット放送を打ち切った。その状況にプラスして「万年下位」と言われた広島東洋カープが初優勝、阪急ブレーブスが初の日本一、一方で読売ジャイアンツが球団史上初の最下位からの立ち直りを期して張本勲を補強するなど1976年のプロ野球の盛り上がりが開幕前から期待されていた。, それに合わせるかのように2年前の1974年にNHKの『ニュースセンター9時』が始まり、NHKのニュース番組で初めてスポーツコーナーが設けられた。プロ野球の結果と途中経過の速報や大相撲の結果を電光掲示板で伝えるなど当時としては画期的だった。また、1974年10月14日にはこの日をもって17年間の巨人での選手生活を終えた長嶋茂雄が、新調した紺のスーツを着てスポーツコーナーに生出演し、当時スポーツコーナーを担当していた福島幸雄のインタビューに応じた。これについては福島自身が長嶋に対して生出演の依頼を行い、それに留まらずこの日のトップ項目にするように粘り強く頼み込み、キャスターの磯村尚徳が「やりましょう」と、「長嶋引退」のニュースをトップに据える決断を下した。この一連の取り組みにより、『ニュースセンター9時』がスポーツ情報の面でも一躍リードする存在となり、その分日本テレビやフジテレビをはじめ民放のスポーツニュースが充実していなかったことが、浮き彫りとなった。, また、1970年代当時のプロ野球中継は日本テレビがいわば独占で後楽園球場で行われる巨人戦の試合を放送し、他の放送局では後楽園以外の球場で行われている試合を中継するというのが1つのパターンとなっていた。, そのような状況下で1975年の秋、鹿内信隆会長の命を受けてフジテレビ社内では「スポーツニュースのワイド化」の構想が練られていた。, 当時フジテレビにおけるスポーツ制作の部署は「報道局スポーツ部」となっており、部内の上層部に野球に詳しい人材が多くいたが、その中の一人が、かつて地上波時代(第1期)の『プロ野球ニュース』のキャスターを務めた鳥居滋夫であった。アナウンサーをしていた頃は初期の競馬中継などスポーツ中継を担当していたが、この時はアナウンサーからスポーツ部の中心的存在となっていた。, 社内では「プロ野球ニュース」の立ち上げに関連した会議がいくつか行われ、準備は進んでいた。1975年に編成部から報道局スポーツ部に「あの『プロ野球ニュース』を夜11時台に復活させたいと思うのだが……」と連絡が入り、早速、社内でプロジェクトチームが立ち上がった[2]。, 特に、最大の問題は「キャスター」を誰にするのかであった。いろいろと名前が挙げられたが、平日には野球解説者の佐々木信也に、週末には、かつて文化放送でもごく数年、プロ野球中継実況を担当したことがある土居まさる[注 3] と決まった。特に佐々木の起用は相当な議論の末の決断であり、左記2名のほかに、高島忠夫やスポーツ評論家としても著名だったロイ・ジェームス、さらには裏番組『11PM』から大橋巨泉[注 4]をヘッドハンティングすることも検討された[3]ほどだった。, 1976年2月17日に正式に『プロ野球ニュース』の放送が始まることが発表された[4]。席上で当時の広報副部長は、明言を避けながらも「打倒『11PM』!」と宣言していた[4]。, この節では、佐々木信也・みのもんた(1980年4月 - 1988年3月)がキャスターを務めた1976年 - 1988年3月を前期、フジテレビアナウンサーが主にキャスターを務めた1988年4月 - 2001年3月を後期に分ける。なお、前期から後期へ移り変わる間には1987年4月 - 9月に『FNNニュース工場』に、同年10月 - 1988年3月まで『FNN DATE LINE』に、1988年4月 - 1990年3月まで『ニュース最終版』にそれぞれ内包されている。, そして、10年半のブランクを経て1976年に日本初の本格的スポーツニュースワイド番組『スポーツワイドショー プロ野球ニュース』として再スタートした。放送時間帯は主に23時台の『FNNニュース最終版』(1968年 - 1977年放送)→『FNNニュースレポート23:00』(平日)、『FNNニュースレポート23:30』(週末)(1977年 - 1987年放送)の終了後。ただし、1987年度は『FNNニュース工場』→『FNN DATE LINE』にコンプレックスする形(一部ネット局ではこの『プロ野球ニュース』のコーナーだけネットした放送局もある)で放送された。なお開始当初は平日に限り、翌朝再放送(日曜日から木曜日深夜の放送分のリピート)をした局があるほか、クロスネットや系列外の一部ではその再放送枠を初回放送扱いとした局もある(後述)。, スタート当時の『プロ野球ニュース』の制作体制は最高責任者である「編集長」を筆頭に、「現場担当デスク」「局内担当デスク」と「各球団の担当記者」といわばピラミッド状に形成されていた。その他に「ディレクター」「アシスタント・ディレクター」など含めると総勢でおよそ25名の陣容で日々の番組制作に関わっていた。1976年にはスポーツ新聞の形式に倣った各球団ごとの担当記者も新設された。, 前述のとおり初代の平日版総合司会は佐々木が務めた。佐々木は高橋、大映、大毎で4年間プレーした経験を元に足で稼ぐキャスターとして人気を博し、1988年3月の勇退まで12年間総合司会の地位を築いたが、その後、スーパーバイザーとして務めた(なお、理由は不明だが、局側は公式には1976年開始、初代キャスターは佐々木としている。また、佐々木は第1期放映当時はNET(日本教育)テレビ、後のテレビ朝日や日本テレビで解説者として出演していた)。, 週末に関しては初代から土居→はらたいら→押阪忍→みのもんたと1988年までに4人代わっている。中でも、はらは3カ月担当したが、本業の漫画家との兼ね合いや、生放送でアドリブが利かず、特にある日の放送でCMまで40秒で伝えなくてはいけないところ、手元の原稿を25秒で読んでしまい、その後の15秒は自らの言葉でコメントをすることができなかったため、結局生放送への出演が難しくなったことから途中降板したとされている。また、みのの語りによる『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』は同番組の看板企画として定着し、ついには不定期ながら独立番組となるまでに至った。ある意味、みのがコメディリリーフ的な役割を持ち、キャスターとしてのブレークのきっかけをつかんだといえる。なお、みのは一時期日曜夕方の『サントリー スポーツ天国』担当のため、金・土にシフトしたこともあった(この間、佐々木は日 - 木担当)。シーズンオフの一時期には月曜もみのが担当したこともあった。, 1976年の第1回放送では関西テレビに映像が切り替わるはずが、切り替わらず、佐々木が「今日は寒いから、電波も凍えているのではないでしょうか?」とコメントをする場面があった[5]。, この試みは番組における方針(前述)と共にすぐさま視聴者の共感を得て、激励の声がフジテレビには殺到した[7]。当初見込んでいた「巨人びいきのテレビ中継」に不満を抱えていた他球団のファンはもちろん、当時はパ・リーグが脚光を浴びる場面はほぼ皆無だったため、その日行われた全ての試合を解説者付きで細かく見せる放送はパ・リーグの選手が特に喜んだ[6]。また、セ・リーグの各球団のファンも普段のパ・リーグの選手がプレーをする姿に新鮮味を感じていた。なお、番組開始当初の様子について佐々木は後のインタビューで、「(球界関係者は)おそらく98%ぐらい見ていてくれたんじゃないのかな?」と語っている[要出典]。, 番組開始当初はビデオテープが普及しておらず、フィルムで撮影したものを球場から運んで急ぎ現像室で、短時間でフィルムを編集して放送時間に間に合わせる作業は至難の業を極めていた[6]。その中で、スローモーション専用のフィルムカメラを他のスポーツニュースに先駆けて採用したことは注目された。また特に、上記の方針「球場の効果音をフルに生かす」ことにのっとって、ビジュアル要素にもこだわりを見せ、これまでのスポーツニュースでは主要ゲーム・大会のフィルム映像(音声なし)と行進曲の音楽をバックにアナウンサーが試合の戦況を述べるという程度だけだったものを、音声が録音できる磁気トラックフィルムを採用することで、映像と同時に収録できて球場の臨場感をそのまま再現したことにより視覚的にも楽しめる演出を取り入れた[8]。, さらに、番組開始当初は試合のハイライトだけでなく、番組独自の「ヒーローインタビュー」も行われていた。1回3分から3分半で、謝礼は3万円だったが、パ・リーグの選手の中には「謝礼なんて、とんでもない。『プロ野球ニュース』に出させてもらうだけで万々歳です」と受け取るのを断った[6](しかし、翌シーズンにその選手の所属球団から番組に請求書を送り付けた)。佐々木は「巨人あたりから『お前のところも、ギャラを受け取れ!』という指示があったのではないか」と話している[6]。また、王貞治のホームラン世界新記録である756号達成時には、試合後の王と荒川博(当時巨人打撃コーチ)をスタジオに招待し、記録達成の裏話を披露するなど、大記録を達成した選手にはシーズン中でも積極的にゲストとして出演した[9][信頼性要検証]。, しかし、番組が始まって1カ月後の1976年5月1日、当時後楽園球場で主催試合を行っていた読売ジャイアンツ・ロッテ・日本ハムの3球団がフジテレビに対し、放送権料に関する申し入れを行った[2]。これは、この番組を「ワイドニュースを含めた報道番組」とした上で、放映権料基準を要求してきたためである[10]。最終的に1976年5月12日、各球団はマスコミに「ワイドニュースは報道番組である」と認めた[10]。, 本番組の開始はスポーツ新聞の伝え方にも大きな変化をもたらした。従来のスポーツ新聞は記事の内容のほとんどが試合経過に紙面を割いていたが、前夜に番組で試合経過を伝えるようになってからは、プレーの裏側に焦点を当てた記事が目立つようになり、さらに、これまで試合経過や戦評に割いてきたスペースには選手個人に関する情報を記事にするようになったため、いつしか「スポーツ新聞の女性誌化」と言われるようになってきた。プロ野球の方も第1次長嶋政権初年度に巨人が優勝して人気再燃のきっかけを作り、これがきっかけで『11PM』を放送していた一部の放送局が『プロ野球ニュース』に切り替えるようになった(後述)。, その他、女性ファンの開拓にも貢献したとされる[6]。昭和30年代は球場に女性ファンが来ることはなかったが[6]、この番組から女子アナが球場に来るようになり[6]、野球選手と結婚するケースも増えた[6]。女子アナの起用を提案したのも佐々木で、シーズンオフの「選手の家庭訪問」のような企画は女性がやった方がいい、と提案して最初に起用されたのが中井美穂だったという[6]。, 視聴率の面でも開始直後には5 - 6%台をマークし、時には10%近くに達していた。シェア(占拠率)も、同時間帯でトップを獲得。この影響で、フジテレビは1979年に「報道局スポーツ部」から「スポーツ局」に昇格させた。民放では初の出来事だった。, 佐々木がキャスターを務めた時期の特徴として、その日行われたすべての試合をストーリー仕立てにしていくことでフジテレビのスタジオと各系列局の一体感を持たせた。例えば、前の試合が乱打戦だった際には佐々木が系列局のスタジオにいるキャスターと解説者に対して「○○(球場名)はすごい試合でしたが、首位を争う○○(チーム名)はどうだったでしょうか」とコメントを振ってから系列局のスタジオへと切り替えた。さらに、佐々木はその系列局のスタジオにいる解説者の発言にも気を配り、何か使えそうなコメントがあったら、「○○(解説者)さんはこんなことを言っていましたが、これに関する談話が入っています」などと言いながら話を展開していった。また、各系列局のアナウンサーが「固有名詞」や「過去の出来事」を誤って伝えてしまった場合でも、訂正は基本的に佐々木が行っていた。このようなストーリー性のある番組進行はのちの各局スポーツニュースでも多用され、定番化されている。, 1977年、この年からフジテレビ独占放送が始まったバレーボールワールドカップ期間中は、プロ野球ニュースのタイトルを外し、ハイライト番組として放送していた。また、同時期に日本テレビ放送網も全く同じ題名の『プロ野球ニュース』と題した番組が放送(時間不明)されていたが、こちらは読売ジャイアンツの主催試合のハイライトが主であり、次の1978年ごろから『巨人戦ハイライト』と改題された[11]。, 1980年代に入ると「今日のホームラン」と題したその日の公式戦全ホームランを映像リプレーするコーナーが番組の末尾に行われ、プロ野球のみならず多くの野球選手・指導者にも好評で、打撃フォームの確認や向上に役立てられたといわれている[9]。その中でも初期のコーナー・テーマソングであったジェームス・ラスト・バンドの「VIBRATIONS(ヴァイブレイションズ)」は特に人気があった(シングルカットもされている)。またスタジオセットが変わった1987年から、それまで取材したアナウンサー・解説者がその試合について振り返ってメインキャスターに振って、その後その試合についての関連情報を話すという体裁だったのを、試合のビデオが終わりスコアテーブルを表示した後、メインキャスターと取材解説者のその試合についての質疑応答が行われるようになった。, 1987年より、長時間特番『FNSの日』が開始。本番組も『プロ野球ニュースSP』として1コーナー扱いで放送され、これは後の『すぽると!』にも引き継がれている。この時は「FNSの日」のパーソナリティーが特別キャスターやゲストとして招かれて、通常とは異なる特別コーナーが設けられたりもした。, シーズンオフにはクイズ大会、選手の旅行企画、バラエティー等の企画コーナーを日替わりで放送し、プロ野球選手の隠れた素顔を披露した。中でも、その選手の故郷を訪ね、名所・旧跡を巡り、居酒屋などにて同級生などと思い出話を語り合う「わが故郷」のコーナーや数十人のファンを招待し球団関係者や野球解説者がワンテーマを設けスタジオで講演を行う「ザ・講演」のコーナーはどちらも佐々木が企画し放送されたものだった。中にはそのまま独立番組として番販できそうなコーナーまであり、有名なところでは古田敦也を中心とした(関西テレビが企画)昭和40年会(昭和40年生まれのプロ野球選手が集まって何らかの行事を行う)があった(1992年より『ボク達同級生!プロ野球昭和40年会VS48年会』として関西テレビの正月特番として放送)。なお、シーズンオフの企画はスタッフ会議にてアイデアを出し合いどのようなコーナーを放送するのか検討する。この企画の体裁は『すぽると!』でも日替わり企画として続いているが、『すぽると!』発足後は野球シーズン中にも曜日別企画を取り入れている。, これ以外では、毎年12月24日の放送にニッポン放送の『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』との同時中継を行っていた。, 当時フジテレビで放送されていた『ドリフ大爆笑』では、本番組のパロディである「お天気ニュース」という天気予報のコントが製作されており、本家と同じ佐々木信也が司会者役でゲスト出演している。, 1980年代のいわゆるフジテレビの「80年改革」による成果が出たことにより1980年以降もこの『プロ野球ニュース』もこの大きな躍進の陰でわずかな存在感を見せていたが[12]、1987年6月25日付で発令されたフジテレビの人事異動により、『オールスター家族対抗歌合戦』のプロデューサーを務めていた浜口哲夫が『プロ野球ニュース』の編集長に就くことになった[13]。, 当時のフジテレビ会長だった鹿内春雄の命を受け、浜口ら新スタッフは『プロ野球ニュース』の改革に乗り出すことになったが、平日のキャスターを務めている佐々木信也を交代させることは容易ではなくスタッフの間では反対の声が上がった[14]。, しかし当時のチーフディレクターは「ディレクター主義」の番組制作を掲げていたことに加え、佐々木のいわゆる「衰え」というのが決め手となって、1987年シーズンオフに降板が決定、後任キャスター人事を進めることになった[15]。, 1987年の冬に須田珠理をとあるゴルフ場にて見つけ、スカウトして平日のサブキャスターに起用した[16]。, さらに、週末のキャスターには浜口の「女性キャスター登用」という方針と、週末のプロ野球ニュースを「新機軸のスポーツエンタテイメント」にしたかったため、当時入社2年目(1987年入社)の中井美穂を起用することを決めた[17]。, 一番難航したのは平日のメインキャスターで、高島忠夫に加え、週末のキャスターを務めていた土居まさるや押阪忍の復帰案、それに、プロ野球の選手OBなどいろいろな名前が浮かんだものの、結局はフジテレビのスポーツアナウンサーから選ぶことになり、その結果、当時32歳の野崎昌一に決まった[18]。, こうして、1988年2月26日にフジテレビ内で記者会見が行われ、新キャスターの就任が正式に発表された[19]。, なお、鹿内宏明会長が就任した1988年4月から『FNN DATE LINE』と合わせた『FNNニュース最終版』という一つのワイドゾーンを形成するものの実質的には独立番組に戻り、平日はまずこの番組から、週末は『DATE LINE』の後から放送した。1990年4月からは全曜日とも『FNN NEWSCOM』終了後からの放送となって完全に独立化。, 1993年にはJリーグ開幕と同時に「Jリーグ情報」を始めるなど、この頃から番組自体も内容の変化を迫られることになる。, 1993年度は、日曜キャスターに森脇健児、月曜キャスターに森口博子を起用し、日曜は「サンデーバード」と題して『サンダーバード』のテーマをBGMにした独特の演出で放送、月曜はF1担当として古舘伊知郎が出演、またレポーターとして女性アナウンサーが多数出演するなど、バラエティ色が強化された。また、大阪スタヂアム(大阪球場)のヤジ合戦などといったものも紹介されたことがある。, 1994年4月、『LIVE'94 ニュースJAPAN』(平日)、『LIVE'94 スポーツWAVE』(週末)のそれぞれ1パートとなり、事実上再び深夜のニュース・情報番組に内包される形式に戻った。しかし、このときは完全に内包先の番組の1パート扱いとなっており、加盟局以外のネットは不可能となった。これに伴いそれまでネットを実施していた高知放送、四国放送、テレビ宮崎はネットから離脱しちょうど同時期にスタートした日本テレビのスポーツ番組『どんまい!
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