伊志嶺 翔大 いしみね しょうた. ロッテコーチ時代. ロッテのチェン・ウェインを吉井コーチが分析した。14日の楽天戦で初登板し、6回2失点。制球が優れているが、「脚がへばった」という。 ブログに書いた。 「ホーム千葉でのイーグルス、ファイターズ、6連戦、雨で一つ流れて2勝3敗でした。 吉井 理人(よしい まさと、1965年4月20日 - )は、和歌山県有田郡吉備町(現:有田川町)出身の元プロ野球選手(投手)で、現在は千葉ロッテマリーンズの一軍投手コーチ。, 現役時代は近鉄バファローズを皮切りに、日本プロ野球(以下:NPB)4球団・メジャーリーグベースボール(以下:MLB)3球団でプレー。2007年に千葉ロッテマリーンズで現役を引退してからは、野球解説者としての活動期間(2013年・2014年)[1][2] をはさみながら、北海道日本ハムファイターズと福岡ソフトバンクホークスのコーチを務めている。, また、2014年度以降は、筑波大学大学院の人間総合科学研究科博士前期課程体育学専攻野球コーチング論研究室の学生として野球のコーチング理論を研究(詳細後述)。2016年には、日本ハムの一軍投手コーチへ復帰する一方で、プロ野球シーズンの前に同課程から修士(体育学)の学位を授与されている[3]。, 高校までを和歌山県で過ごす。東尾修(元西武ライオンズ監督)とは卒業した小学校・中学校・高校が同じで、吉井は東尾と同じ背番号21を希望していた。, 中学生時代は陸上競技の円盤投で近畿大会に出たこともあった[4][5]。県立箕島高校では2年生の時、1982年の春の選抜に控え投手として出場。準々決勝では上野山辰行投手(同志社大)をリリーフして甲子園初登板を果たすが、エース榎田健一郎を擁するPL学園に0-1で惜敗。1年上のチームメートに住吉義則、畑山俊二がいた。翌年にはエースとして夏の甲子園に駒を進める。この大会では3回戦に進出するが、津野浩のいた高知商に敗退。高校同期に山下徳人がいる。1983年秋のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから2位指名を受け入団。, 1988年は抑え投手として活躍し、10勝24セーブで最優秀救援投手のタイトルを獲得、「10.19」でも登板した。, 1989年の日本シリーズでは、第2戦、第3戦、第5戦~第7戦に登板した。第2戦、第3戦、第6戦はいずれも無失点で、特に、第2戦、第3戦の試合終了に際しては、相手の巨人打線について、加藤哲郎らとともに(加藤については加藤哲郎 (野球)参照)「打たれる気がしない」[6]、「気の抜ける打線」[7] などと、広言していた。第5戦では、二死一、三塁の場面から、仰木彬監督の指示でウォーレン・クロマティを敬遠して原辰徳と勝負して満塁本塁打を打たれ、シリーズの流れを大きく巨人に傾けさせることとなり、試合終了後の談話では、満塁として投げにくかったという趣旨のこと[8]、あの球ではいくら不調の原でも打つという趣旨のこと[9] など、ショックを感じさせず、他人事のように「独演会」状態で話し続けたという[10]。第7戦では、登板を告げられ、走ってマウンドに行くというパフォーマンスをやったが、中畑清に「引退の花道」となる本塁打を打たれるなどし、走って疲れたという趣旨のコメントをした[11]。, 1991年からは不振に陥り、抑えの座は赤堀元之が台頭し登板数が激減。1993年からは先発投手に転向した。この時期には、一軍監督・鈴木啓示との間で確執があったことが報じられている。, 1995年に西村龍次とのトレードでヤクルトスワローズへ移籍。ヤクルトでは先発陣の一角として活躍し、先発だけでの初の二桁勝利を挙げ初めて規定投球回にも到達、リーグ優勝・日本一に貢献した。, 同年8月6日の広島東洋カープ戦(明治神宮野球場)では、試合開始早々に天候が悪化し、雷鳴が轟き稲妻が走り始めた。すると突然吉井の制球が乱れ始めて四球を連発。結局3回途中8失点でノックアウト、試合も4-15で大敗した。このシーズン、吉井はそれまでセ・リーグで最も与四死球が少ない投手だった。試合後野村克也監督は「(吉井は)雷が怖いって言うんだよ」と報道陣に語っている。また野村はマネージャーに「今度から吉井の登板する日は雷注意報が出ているか俺に報告しろ」と言ったという説もある。, 1997年、8月5日の読売ジャイアンツ戦の3回裏に、バックネット裏にいたと思われる観客がレーザーポインターによると思われる光線を登板中の吉井の顔面に照射した[12]。眼に光線を受けた吉井はすぐさまマウンドを下りバックネット裏を指して抗議。犯人・狙った意図は未だ不明である。シーズンでは終盤まで最優秀防御率のタイトル争いに加わりハイレベルな戦いをしていたが最終戦で結果を残せずリーグ3位の防御率に終わるが3年連続で二桁勝利となる自己最高の13勝を記録しリーグ優勝・日本一に貢献した。, 団野村を代理人とし、中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツ、西武ライオンズなど国内の球団からの誘いを断りニューヨーク・メッツと1年20万ドル+出来高で契約。NPB史上初のFA権行使によるメジャー移籍となる[13]。, 1998年4月5日のピッツバーグ・パイレーツ戦でメジャー初登板初先発を果たし、7回を3安打無失点でメジャー初勝利を挙げる。5月21日のシンシナティ・レッズ戦では9安打3四球ながら1失点に抑え、野茂英雄に次ぎ日本人メジャーリーガー史上2人目の完投勝利を挙げ、前半戦を16試合の先発で4勝4敗、防御率3.42、WHIP1.29の成績で折り返す。8月には背番号を日本時代と同じ21に変更。6日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦では捕手のマイク・ピアッツァと配球を巡って口論になったが、その後は一緒に食事に出かけるほどに仲が良くなった[14]。しかし後半戦は13試合の先発で2勝4敗、防御率4.52、WHIP1.25の成績を喫した。11月12日には2年500万ドルでメッツと再契約。, 1999年は右ひざ痛にも悩まされ、前半戦は17試合の登板で6勝7敗、防御率5.02、WHIP1.40の成績を喫する。しかし8月には2勝1敗。防御率2.51、WHIP0.80と好投しチームの月間最優秀投手に選ばれ、9月5日のコロラド・ロッキーズ戦では10勝目をマーク。8月以降は2試合のリリーフ登板を含む11試合に登板し5勝1敗、防御率2.31、WHIP0.96と復調し、アリゾナ・ダイヤモンドバックスとのディビジョンシリーズ第1戦では日本人メジャーリーガー初のポストシーズン開幕投手となりランディ・ジョンソンと投げ合う。アトランタ・ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦でも先発しグレッグ・マダックスと投げ合った。, 2000年1月14日にトレードでコロラド・ロッキーズへ移籍。4月26日のパイレーツ戦で日本人メジャーリーガー史上2人目の本塁打を放つ。アジア人初の盗塁も記録している。6月には3連勝も記録したが、前半戦は17試合の登板で4勝9敗、防御率5.55、WHIP1.47の成績を喫する。9月3日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で日本人メジャーリーガー史上2人目の通算500投球回に到達したが、結局後半戦も12試合の登板で2勝6敗、防御率6.32、WHIP1.58と調子を取り戻せず28日に右腕上腕の手術を受けシーズンを終了。, 2001年4月13日にモントリオール・エクスポズと1年30万ドルで契約。先発とロングリリーフを兼任し、4月16日のメッツ戦では新庄剛志と対戦し遊ゴロに仕留め、この試合以降16回2/3連続無失点と好調を続けた。6月8日のメッツ戦では故障した伊良部秀輝に代わって先発し6回0/3を2失点に抑えたが打線の援護がなく敗戦。8月8日のヒューストン・アストロズ戦では延長10回から登板し2ヶ月ぶりの勝利となるNPB/MLB通算100勝を挙げた。先発では11試合の登板で2勝7敗、防御率5.56、WHIP1.56。リリーフでは31試合の登板で2勝0敗、防御率4.03、WHIP1.15の成績を残した。12月21日には1年30万ドルでエクスポズと再契約。, 2002年のスプリングトレーニングでは最速92mph(約148km/h)を計時するなど好調を見せ開幕から先発として起用される。4月16日のシカゴ・カブス戦で5回3安打1失点の投球で日本人メジャーリーグ史上3人目の通算30勝に到達。しかし21日のメッツ戦で3回2/3を7安打3失点と打ち込まれ先発ローテーションから外れる。6月11日のデトロイト・タイガース戦で先発に復帰したが、4回にランドール・サイモンの打球が右頬に直撃し降板。検査では異常は見られず、20日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦に先発し5回7安打無失点の投球を見せ、8月6日のセントルイス・カージナルス戦では3年ぶりの完投勝利を挙げる。9月に左肩を痛めオフに手術を受ける。12月5日にノンテンダーFAとなった。, 2003年1月7日にオリックスブルーウェーブと契約。この年のチームの開幕3連戦は古巣の近鉄との対戦で初の開幕投手を務めたが勝てなかった。その後も先発として役割を全うできず中継ぎでも登板した。8月には左足首を手術するなど年間通して活躍できず、24試合に登板しながら2勝に留まり期待に応えられず、チームも投手陣の崩壊で最下位に終わった。, 2004年は3試合の登板に留まり、戦力外通告を受ける。他球団との交渉はまとまらなかったが、ブルーウェーブが大阪近鉄バファローズとの球団合併により『オリックス・バファローズ』となったことに伴い、4年ぶりに監督に就任した仰木彬が「彼(吉井)を必ず残せ」と球団に進言。合格すれば再契約という条件で2005年2月にオリックスのキャンプにテスト参加。仰木から高評価を得て再入団した。, 2005年は仰木監督の下で再出発し、先発を任されると2年ぶりに勝ち投手になると負けなしの6連勝を果たした。しかし、8月13日のロッテ14回戦(スカイマークスタジアム(現ほっともっとフィールド神戸)でのゲーム)、雷の鳴る試合で2回持たずに5失点でノックアウト。敗戦投手となる。この試合で、雷に弱いことが改めて証明された。6連勝後は5連敗してシーズンを終了し、合併球団1年目は15試合、6勝5敗、防御率4.03の成績だった。完全復活というほどの成績ではなかったが、自身を拾ってくれた仰木監督の期待に若干ではあるが応えた。なお仰木は監督就任前から肺癌を患っており、シーズン中にも過労で居眠りや西武ドームの階段を上がれなくなるなど体調が悪化していたこともあり、この年限りで監督を辞任した。その後12月15日に死去した。, 2006年も先発ローテーションの一角として活躍。3月29日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦(フルキャストスタジアム宮城)において吉井がマウンドに違和感を覚え、球場関係者が調べたところ、マウンドの中からクレイベース(煉瓦状のクレイの塊。明治神宮野球場などのマウンドにも埋まっている)が露出し、補修のため試合が数十分間中断した。1997年以来9年ぶりにオールスターゲームにも出場。第1戦でヤクルト時代の本拠地である神宮球場での凱旋登板を果たした。最終的に19試合の登板ではあったが、日本復帰後最多の7勝を挙げた。, 2007年も先発ローテーション入りし、4月25日の楽天戦では5回1失点の好投で勝利投手となり、相手先発のルーキーの田中将大に投げ勝った。しかし、その後は不調が続き、テリー・コリンズ監督から中継ぎ降格を命じられた。しかし、先発へのこだわりを持っている吉井は応じず、他球団への移籍を求めた。, 2007年6月28日に、平下晃司との交換トレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍した。背番号は高校同期の山下徳人が現役時代につけていた24番で、山下引退後につけた立川隆史からそのトレード相手の平下を経て引き継いだものであった。移籍後は、一軍公式戦4試合に先発。しかし、1勝もできずに、防御率も13点台にとどまった。この結果、シーズン終了後の10月27日に、球団から戦力外通告を受けた。, 通告直後の吉井は、アメリカ、台湾、韓国でのプレーも視野に入れるほど、現役続行に強い意欲を示していた。やがて、「現役を続けると家族に迷惑がかかる」と考えるようになったことから、現役引退を決めた。, 北海道日本ハムファイターズでは、ロッテから戦力外通告を受けたばかりの吉井に、投手コーチへの就任を要請した。吉井自身は、当初は一切興味を示さなかったが、やがて要請を受諾した。受諾の決め手になったのは、近鉄時代にバッテリーを組んでいた一軍監督の梨田昌孝が、コーチとしての吉井の素質を高く評価していることを聞いたことによる。, 2008年に、日本ハムの一軍投手コーチへ就任。その一方で、ロッテ球団は3月11日に、日本ハムとのオープン戦(千葉マリンスタジアム)を吉井の引退試合として開催した。これは、メッツおよびロッテ在籍時の恩師であるボビー・バレンタイン監督の計らいで実現したものであり、打席にもバレンタインが立った。吉井が投手コーチになった時描いた理想像が「仰木さん、野村さん、バレンタイン、権藤さん。この4名。そしてもう一人、メッツの投手コーチボブ・アポダカからも大きな影響を受けています。彼は最初に会った時「自分の事を一番知っているのは自分自身だから、君の事を俺に教えてくれ」と[15]。日本でそういうことを言われたことがなかったので衝撃でした、この言葉がコーチ人生で一番の礎になっているかもしれません。」と語っている[15]。, 日本ハムでは、2009年まで一軍投手コーチ、2010年に二軍投手コーチ、2011年から2012年まで再び一軍投手コーチを務めた。2012年のシーズン終了当初は、2013年も一軍で投手コーチを続けることを予定していた。しかし、11月4日に、コーチ契約を更新せずに退団することが球団から発表[16]。吉井は、退団へ至った背景に、2012年から一軍監督に就任した栗山英樹との間で投手の起用をめぐって確執があったことを明言[17]。自身は投手主導の野球を実践したかったものの、栗山が野手を尊重する方針を打ち出したため、試合を壊さないために継投のタイミングを早めるようになったことを挙げている[18]。, 2013年から2014年までは、北海道放送や「FOX SPORTS」(FOX SPORTS ジャパンが当時日本国内で運営していたBSのスポーツ専門チャンネル)の野球解説者として活動。FOX SPORTSでは主に、『BASEBALL CENTER』(FOX bs238でプロ野球中継の前後に放送する解説番組)でメインアナリストを務めた[19]。その一方で、北海道放送と同じJRN加盟局で、地元・関西のラジオ局でもあるMBSラジオのプロ野球中継(『MBSタイガースライブ』)やスポーツ情報番組にも不定期で登場。2014年には、NHK BS1でも、メジャーリーグ中継の解説を務めた。, 2014年4月には、自身と同じ元プロ野球選手の工藤公康・仁志敏久と共に、筑波大学大学院の人間総合科学研究科修士課程・スポーツ健康システムマネジメント専攻へ入学。日本ハムコーチ時代(第1期)の指導に対する反省から、「自分の経験を理論で理解したうえで、言葉で説明できるようになりたい」として、野球コーチング論研究室で野球の指導に関する理論などを研究するようになった[20]。しかし、工藤が11月1日に福岡ソフトバンクホークスの一軍監督へ就任したことを受けて、工藤から一軍投手コーチへの就任を打診。11月20日には、コーチへの就任が球団から発表された[21]。, 2015年には、工藤と共に筑波大学の大学院へ引き続き在籍しながら[22]、ソフトバンクの投手コーチとして主に一軍のブルペンを担当。3年ぶりの現場復帰。工藤による監督就任1年目でのパシフィック・リーグ優勝・日本シリーズ制覇に貢献した[23]。その一方で、投手への指導と並行しながら、大学院での研究活動の一環としてクイックモーションの速い投手に関する調査を実施している(詳細後述)[24]。
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