与田 剛(よだ つよし、1965年12月4日 - )は、千葉県君津市出身[1][2][3]の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ。現在は中日ドラゴンズの監督[4]。1999年から2000年までの登録名は「与田 剛士」(読み同じ)。妻は元TBSアナウンサーの木場弘子。, 亜細亜大学時代は故障が多く、登板機会はほとんどなかった。大学時代に右腕の血行障害を患い大学3年のときに手術を受けたが、これは高校時代から投げすぎたために人さし指と中指の手のひら側のつけ根に筋肉がついて手のひらの血管を圧迫していたのが原因という珍しい症例だった[5]。しかし、NTT東京時代に150km/hを超える剛速球が注目され、全日本代表メンバーに抜擢。, 1989年度ドラフト会議にて中日ドラゴンズから1位指名を受けて交渉権を獲得。当初は在京球団を希望していたが[6]、後に契約金7500万円、年俸720万円(金額は推定)で合意し、入団[7]。, 初登板は1990年4月7日の横浜大洋ホエールズとの開幕戦。同点で迎えた延長の11回表無死1、3塁のピンチでリリーフ登板し、2つの三振を含む無失点に抑えた[6]。その後も抑えとして活躍し、6月1日にセ・リーグ新人選手初の二桁セーブを記録した[6]。オールスターゲームにもファン投票で選出[6]され、新人では当時最多となる31セーブを挙げ、最優秀救援投手のタイトルを獲得し、新人王に選出された。8月15日の広島戦(広島市民球場)では157km/hの球速を計時して当時の日本人プロ最速を記録している[6]。その剛速球と名前から剛球投手と呼ばれた。リリーバーを続けるうちに肩・肘への負担が選手寿命を縮めるパターンに陥る。球団及び首脳陣もリリーフでの酷使を懸念し、アマチュア時代に務めていた先発投手としての適性を毎年のように試みていたが通算9試合に先発し0勝7敗防御率8.76と結果を残せなかった。4年目以降は右肘痛のため思うような成績を残せず1996年シーズン途中、内藤尚行との交換トレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍。1996年は2A・メンフィス・チックスに野球留学。1997年シーズンも一軍登板できず、同年のシーズンオフにロッテを自由契約となる。, 1998年には日本ハムファイターズにテスト入団。抑え不在だったチーム事情もあり期待されたが、キャンプ終盤肘を故障、4月に遊離軟骨除去手術を受けプロ入り初の一軍・二軍通じて登板なしに終わる。しかしシーズンオフの教育リーグで好投し、残留。, 1999年10月2日のシーズン最終戦のロッテ戦に4年ぶりの一軍登板を果たしたが、同年のシーズンオフに自由契約となる。, 2000年には阪神タイガースにテスト入団。キャンプ・オープン戦で好投し、当時監督の野村克也からもストッパー候補として名が上がった。しかしオープン戦終盤、好投した翌朝ベットから起き上がれないくらいの腰痛に襲われる。この腰痛により戦線離脱。結局開幕後も一軍登板もなく二軍でも僅か2試合の登板に終わり、同年のシーズンオフに戦力外通告を受け、現役を引退。, 2001年より2015年までは、NHK野球解説者、東京中日スポーツ野球評論家の傍ら、社会人野球チーム・サウザンリーフ市原の投手コーチを務めている。また、全日本女子野球チームの投手コーチも務めた。2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表投手コーチ(ブルペン担当)として、大会2連覇に貢献した。WBCでは、大差のリードがある試合でブルペンで待機していた投手陣にベンチに戻って応援するよう指示した山田久志投手コーチに対し、何があるかわからないからと戻らなくていいと言って、意見が対立した。, 2009年4月から2011年3月までNHK「サンデースポーツ」のメーンキャスターを務めた。引退して解説者の仕事を引き受けた後、元アナウンサーの夫人から話し方や表情の作り方を丁寧に教わったという。, 2012年10月10日に、野球日本代表の投手コーチに就任した事が発表された[8]。11月13日に、背番号が「92」となった事が発表された[9]。, 2015年10月13日に、東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍投手コーチとして就任したことが発表された。背番号は「92」[10]。同年オフには大久保博元の監督辞任に伴って、後継監督候補に立浪和義[11][12][13][14]や山崎武司[15]、橋上秀樹[16]、佐々木主浩、斎藤隆[17]らとともに名前が挙がったが、これは実現せず、梨田昌孝が監督に就任。, 2018年から二軍投手コーチに配置転換された。同年10月5日に来季の契約をしないことを通知された[18]。, 2018年10月15日に、2019年より古巣である中日ドラゴンズへの監督就任が決定。背番号は「92」[4]。コーチ陣はヘッドコーチに伊東勤、打撃コーチに村上隆行、投手コーチは大学の先輩阿波野秀幸を招聘した[19]。12月18日に塩竃市内で講演し、今季終了後中日の監督に就任することについて、楽天からも来季のコーチ契約を打診されていたが中日からの復帰要請が先にあり、「苦渋の決断だった」と明かした[20]。, 肩幅が広く、現役を引退してからも肩幅について話題になる。「肩幅60cm」と報じられることもあり[22]、与田よりも10センチ以上身長の高いダルビッシュ有が「どうなってるんですか。その肩幅は」と声をかけるほどである[23]。NHKアナウンサーの廣瀬智美は「私にとっては安心感すらある、この広い肩幅」と形容して紹介したことがある[24]。, 前述の4月7日の対大洋戦での初登板時にはホームでのクロスプレーをめぐり、捕手の中村武志に激しいタックルをした清水義之に激怒し乱闘寸前の騒ぎになった。また死球を与えてもなかなか頭を下げることはなく、1994年6月22日の対横浜戦ではグレン・ブラッグスに体を背ける内角球を投げた際にも、やはり与田は謝らなかったために、ブラッグスはマウンドまで駆け寄り、与田にパンチを浴びせ両軍入り乱れての大乱闘となった。その場で退場になった与田(ブラッグスも退場)はベンチに戻る際、グローブをベンチシートに思い切り叩きつけた。, 選手との対話を重視し、モチベーターとしての能力に長ける。監督就任後は、加藤匠馬や阿部寿樹、遠藤一星、井領雅貴、三ツ俣大樹といった前年に殆ど一軍出場のなかった選手を積極的に起用した。, ドラフト会議の抽選の際のくじ引きでは、2018年に4球団が競合した根尾昂、2019年には3球団が競合した石川昂弥の交渉権を引き当てた。, 2019年オフシーズンには、前任の森繁和が築いたキューバやドミニカ共和国とのパイプを生かし、自らウィンターリーグを視察。モイゼス・シエラ、ルイス・ゴンサレスを獲得した。, バントやエンドランといった小技を駆使した作戦を取る事が多い。ランナー3塁の場面では、セーフティスクイズをするケースも目立った。, 与田 剛(よだ つよし) - プロ野球選手名鑑 - 野球 - SANSPO.COM, 与田コーチ・池山コーチ 就任会見 | 東北楽天ゴールデンイーグルス オフィシャルサイト, https://www.nikkansports.com/baseball/news/1837236.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=与田剛&oldid=80149842, 初先発:1990年9月12日、対横浜大洋ホエールズ23回戦(ナゴヤ球場)、8回5失点(自責点4)で敗戦投手. 今季限りでの引退を表明した中日吉見一起投手(36)が5日、ナゴヤドームで引退会見を行った。会見では終始笑顔。現役引退を決めた理由について「自分の立ち位置、1軍に上がれない葛藤、全て客観的に見つめなおして、現役をやりたい気持ちもあったが、仮に続けても同じことを繰り返すのかと思い、(10月)30日に決断した」と話した。, DeNAラミレス監督 長い間お疲れさまでした。吉見はベリー・スマート・ピッチャー。特にナゴヤドームでの投球術は素晴らしかった。対戦するときは、大きなチャレンジだったよ。東京ドームで3ランを打って8年連続100打点の節目になった。ありがとう。, 中日・大島「後ろで守っていて一番安心感のあるピッチャー」 引退の吉見に感謝のコメント, 【中日スタメン】吉見が現役最後のマウンドへ 根尾が3カ月ぶり「7番・左翼」高橋に代わり「6番・三塁」に石垣, 「大きい谷繁さんの存在 野球を一から教えていただいた」「90勝も勝てて、いい野球人生」【中日・吉見・一問一答】, DeNAラミレス監督が明かす吉見一起との思い出「あれはアリガトウゴザイマシタ。ハハハ」, DeNAラミレス監督が引退の中日・吉見に「お疲れさま。ベリーグッドピッチャー、スマートピッチャー」東京ドームで打った3ランが思い出, 掲載情報の著作権は提供元企業等に帰属します。 中日の選手の引退セレモニーがオープン戦で開かれるのは1997年の郭源治以来であり、今中の次は2010年の立浪和義であった。また、同年よりnhkの野球解説者となり、名古屋の民放局でもゲスト解説を行っているほか中日スポーツ野球評論家も務めている。 中日の吉見一起投手(36)が今季限りで現役を引退する。本人の申し入れを球団が了承。 近く会見を行い、本拠地最終戦となる11月6日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)で引退登板に臨む。 8年ぶりのaクラスへ奮闘を続けるチームの裏で、黄金期後半を支えたエースが大きな決断を下した。 吉見 … 2001年より2015年までは、nhk野球解説者、東京中日スポーツ野球評論家の傍ら、社会人野球チーム・サウザンリーフ市原の投手コーチを務めている。また、全日本女子野球チームの投手コーチも務 … 今中 慎二(いまなか しんじ、1971年3月6日 - )は、大阪府門真市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ等の野球指導者、野球解説者。愛称は「チュー」または「イマチュー」。, 現役時代は中日ドラゴンズに所属し、最多勝利や沢村栄治賞を獲得するなど、1990年代のNPBを代表する左腕として活躍した[1]。, 大阪府門真市の古川橋駅周辺で生まれ[2]、3歳年上の兄の影響で浜町小学校2年生の時に野球を始めた[3]。本来は右利きだが、この時に近所の中年女性から左利き用のグラブをもらって使い始めたことがきっかけで、左投げになった[3]。3年生になると兄と同じ軟式野球チームに入り、4年生からは投手になった[3]。門真第一中学に進むと同年設立されたリトルシニアチームである門真シニアに入団し、1年目からエースとなっている[3]。当時から球速があったが、チームの守備力が高くない事などから大会ではなかなか勝てず、野球を辞めようかとも考えたという[3]。, 大阪産大高校大東校舎に進学後、入学当初は目立った存在ではなかったが、すぐに見違えるような速球を投げるようになり、同校を訪れた田丸仁(当時、阪神スカウト)からも高評価を受けたという[3]。1年夏の大阪府大会からベンチ入りを果たし、秋の府大会では準々決勝の対PL学園戦に登板した。この試合は0対1で敗れたものの、立浪和義や野村弘を擁して翌年に春夏連覇を果たす強豪をよく抑え、NPBのスカウトらから注目を集めるようになった[3]。2年の冬にはクモ膜下出血で母を亡くし、精神的に大きく落ち込んだが[4]、3年時になると精神的に立ち直り、将来のプロ入りを明確に目指すようになった。, 3年生に進級した1988年度より大東校舎は大阪桐蔭高校として独立する。3年夏の大阪府大会では15個の三振を奪いながら延長戦の末に初戦で敗退し[5]、甲子園に出場することはなかった。漫然と大学への進学を予定していたが、145km/hの速球[6]などによって全球団のスカウトが来校[5]するほど高い注目を集めており、1988年度ドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名を受けた。担当スカウトは法元英明で、契約金と年俸それぞれ6000万円、480万円(いずれも推定)で入団契約を結んでいる[7]。同期には、バッテリーを組んでいた桐山明佳(1988年に日本ハムファイターズにドラフト外で入団)がいる。, プロ1年目の1989年は近藤真一や上原晃の例に倣い、キャンプからオープン戦の期間は二軍でランニングなど体力の強化や守備練習に明け暮れた[6]。新宅洋志や稲葉光雄の指導を受けてフォーム修正や体力向上に取り組み[6]、早くも5月26日にはナゴヤ球場での対巨人戦で一軍初登板を果たした[5]。9月17日の広島での対広島戦では先発して北別府学と投げ合い、2回にマメを潰しながらもアロンアルフアで固めて5回を投げ[5]プロ初勝利を挙げた。オフの秋季キャンプにはロサンゼルス・ドジャースから臨時コーチが来ており、当時MLBで流行していたスプリット・フィンガード・ファストボール系のフォークボールを習得した[8]。, 1990年、キャンプで投手コーチの池田英俊にフォロースルーなどを指導されてストレートの伸びや変化球のキレが改善した[9]。また、シンカーの習得にも挑戦した[10]。3月4日に守備練習でノックの球をヒザに当ててノースローの調整が続いたが、3月24日に豊橋で行われたダイエーとのオープン戦では村田勝喜と投げ合って、5回で61球を投げ2安打無四球で無失点の好投を見せた[9]。開幕後は将来の左のエースとしての期待をかけられ、主に先発として起用された[11]。当時はまだ漫然と投げるようなところがあった[12]ものの、先発ローテーションに定着し、6完投など規定投球回に達して10勝を記録している。, 1991年、オールスターゲームに初めて出場し、第2戦の7回から2イニングを投げ1安打無失点に抑えている。同年は佐々岡真司との最優秀防御率を争い、シーズン最終戦のダブルヘッダーに連続して先発したものの防御率0.08の差でタイトルを逃した。, 1992年は4月19日の対巨人戦でゴロの打球が左手首に当たって骨折し、3ヶ月後の夏場に復帰している[13]。骨折が直って間もない頃はなかなか握力が戻らず、軽くキャッチボールをしても手首に鋭い痛みが走った。しかし、なぜかカーブだけは痛みがなく投げられたため、リハビリとしてカーブだけを用いた遠投キャッチボールを続けた。最初のうちはコントロールがつかなかったが次第にコツを掴み、これが今中の決め球ともいえるスローカーブを習得したきっかけだという[14][13]、また前腕の筋肉を鍛える中で左ひじの遊離軟骨が偶然くっついたとも述べている[15]。同年は11試合の登板に終わったものの8勝2敗で防御率1.77の成績を残している。, 1993年、自身初の開幕投手を務め、開幕4連勝の後で5連敗を喫したがそこから大きく巻き返し[12]、7月6日の対ヤクルトでは当時のセ・リーグ最多タイ記録となる1試合16奪三振を記録した。2年ぶりに出場したオールスターゲームでは第1戦に2番手として登板し、2回を投げ4安打2失点だった。同年は先発で週に1、2回は登板し[12]、249イニングを投げている。また、9月2日のナゴヤ球場での対ヤクルト戦では9回2死から池山隆寛に同点本塁打を打たれ、延長まで投げ続けたものの15回引き分けに終わって首位浮上のチャンスを逃した。この試合は翌年の10.8決戦と並んで、現役時代で最も印象に残っているという[16]。同年の最終的な成績は17勝7敗、防御率2.20、247奪三振で最多勝利、最多奪三振などに輝き、審査項目を全て満たして沢村賞を受賞した。ちなみに、1990年代で審査項目を全て満たしたのは、今中以外には1991年の佐々岡真司のみである。また、ベストナインとゴールデングラブ賞にも選出されている。, 1994年、オールスターゲームで第2戦の9回に登板し、イチローらを三者凡退に打ち取っている。同年はチームがシーズン最終戦まで巨人と激しく優勝を争い、中2日や中3日の先発が続いたが痛みなどを訴える事はなかった。10.8決戦では試合に先立って中村武志ら選手会の面々に「勝っても負けてもいいから先発して欲しい」と頼み込まれるほど信頼を集めており、4回5失点で降板して敗戦投手となったものの他の選手達に悔いはなかったという[17]。同年の夏頃から左肩の状態が徐々に悪化していったと、今中自身は後に語っている[18]。, 1995年、疲労などでカーブなど球のキレが悪くなっていた[17]が、チーム内で唯一規定投球回に到達してリーグ2位の15完投を挙げた。同年のオールスターゲームでは第1戦に2番手として登板し、2イニングをパーフェクトに抑えている。また、MLBのスカウトからは同年に渡米した野茂英雄より高い評価を受けており、シンシナティ・レッズ監督のデーブ・ジョンソンからシーズン中にトレードによる獲得の打診があったという[19]。, 1996年、4年連続で開幕投手を務め、6月27日のナゴヤ球場での対広島戦では球団史上最速の186試合で1000奪三振を達成する[20]などの活躍で、7月までに9勝を挙げている。しかし、7月16日の東京ドームでの対巨人戦でプロ入り最短の1/3回で降板し、左肩の痛みを訴えた。翌日の検査で左肩関節周囲炎のため2週間の安静が必要という診断を受けて一軍登録を抹消され、直後のオールスターゲームは出場を辞退し、代わりに斎藤隆が出場している[20]。この故障の半月前にも腰痛で登板を回避していたが、優勝争いをしているチーム事情もあって1週間後には投球練習を再開し、7月29日に一軍に復帰、8月4日のナゴヤ球場での対巨人戦では1失点完投で勝利を挙げた。その後も左肩の違和感が残ったまま登板を重ねて[20]更に4勝し、4年連続2ケタ勝利となる14勝を記録している。, 1997年、キャンプ前に再び左肩を故障して従来とは明らかに異なる痛みを感じ[21]、精密検査により奥の筋肉に損傷が確認された[22]。このため肩の状態を確かめながら負担を抑えるスローペースな調整をしたものの、オープン戦初登板となった3月20日の対ロッテ戦では球速が最高124km/hにとどまっている[22]。更に試合後には肩関節周囲炎の再発が判明して投球練習ができなくなり、5年連続の開幕投手を断念した。6月に一軍登録され、6月8日のナゴヤドームでの対巨人戦でリリーフとしてシーズン初登板を果たしたものの、球威やキレが戻らず二軍に戻って再調整を続けた[23]。8月に一軍に復帰して8月15日のナゴヤドームでの対ヤクルト戦でシーズン初先発し、最速143km/hの速球と90km/h台のスローカーブで6回を3安打1失点に抑えて初勝利を挙げた[24]が、同年は2勝に終わっている。例年ノースローだった秋季キャンプでは、投手コーチの宮田征典が止めたにもかかわらず積極的に投球練習を行い、感覚が回復してきたと周囲に語っていた[23]。12月6日に結婚式を挙げ、鈴木宗男夫妻が媒酌人を務めている[25]。, 1998年、肩の状態が回復し、キャンプから筋力強化や遠投などを重ねた。5月16日の横浜戦(ナゴヤドーム)では、先発した1回に1点を失ったものの、その後は直球で押し、5回1失点の成績でシーズン2勝目を挙げたが[26][27]、結果的にこの勝利が、現役生活最後の勝ち星となった。6月5日のナゴヤドームでの対巨人戦では最速140km/hを記録して90km/hのスローカーブも戻り、8回131球を投げ2安打1失点の内容で勝利を挙げて復活の兆しを見せている[28]。しかし好調が持続せず、自身4連敗で迎えた7月9日の対ヤクルト戦に先発して2/3回で5安打4失点とKOされて2勝8敗となると、監督の星野仙一に改めて軟投派への転向を命じられて一軍登録を抹消された[28]。秋からはそれまで強く拒否していたウエイトトレーニングにも進んで取り組み、ランニングや坂路走で下半身を強化し、自身初となる12月の自主トレも行っている[23]。, 1999年、2月11日には投球練習を始めるなど早めの調整を行っていたが、一方でブルペンに入るのが怖くなるほど状態が悪化していた[29]。7月15日のナゴヤドームでの対広島戦に先発したものの2回6失点に終わり、福岡市の病院で改めて検査を受けた[18]。当初はリハビリによる治療を考えていたが、良い肩の状態が数日しか続かない状況にケジメをつけるため、炎症の原因だった左肩の滑液包を除去して突起骨を3箇所切除する手術を8月20日に受けている[29]。執刀医が驚くほど患部は悪化していたが5時間かかった手術は成功し、そのまま福岡で数ヶ月間リハビリを続けた。同年は入団後初めてチームがリーグ制覇を果たしたものの、9月30日の神宮での対ヤクルト戦で優勝が決まった時も福岡市内で医師と共に夜釣りをしていたという[5]。結局、このシーズンはプロ入り初の未勝利に終わり、自身プロ入団後初のリーグ優勝には貢献できなかった。ダイエーとの日本シリーズの際には経過報告を兼ねて福岡の宿舎を訪ね、チームメイトに激励の言葉をかけて静かに去っている[29]。, 2000年、11年ぶりに二軍キャンプでのスタートとなり、初めて一軍登板のないままシーズンを終えた。オフの契約更改は大幅な減俸となって翌年2月までかかり、星野監督からは「契約するだけでも感謝するように」という最後通告を受けている[29]。一方、2001年は1月の伊良湖岬での合同自主トレで積極的にランニングに取り組む姿勢が投手コーチの山田久志に評価され、2年ぶりに一軍キャンプでのスタートとなった[29]。キャンプ直前の1月30日には読谷球場のブルペンで100球を投げ込み、キャンプ中も投球練習の球数をこなしたが制球に問題があった。オープン戦では球速が最高131km/hにとどまったものの、フォークやシュートを駆使して3月3日の対ロッテ戦では4回を1失点に抑えている。しかし野手の状態が上がるに連れて打たれる場面が増え、3月23日の教育リーグでの対阪神戦では5回106球を投げて8安打5四球3失点の内容で、開幕一軍入りを諦めた[30]。同年は7試合に登板したものの、気力の限界などから10月に引退を決意。山田は中継ぎとしての再生を考え[31]、他球団からも獲得の打診があったという[18]。11月10日に引退の記者会見を開いた[18]。, 2002年3月23日にナゴヤドームでのオリックス・ブルーウェーブとのオープン戦の際に引退セレモニーが行なわれ、谷佳知と対戦した後に長男から花束が贈呈された[32]。中日の選手の引退セレモニーがオープン戦で開かれるのは1997年の郭源治以来であり、今中の次は2010年の立浪和義であった。また、同年よりNHKの野球解説者となり、名古屋の民放局でもゲスト解説を行っているほか中日スポーツ野球評論家も務めている。2009年のパ・リーグ順位予想では日本ハムのリーグ優勝を的中させた。2010年も、中日とソフトバンクの優勝を予想し的中させた。また、プロ野球マスターズリーグでは名古屋80D'sersに所属している。, 2012年シーズンより古巣・中日の二軍投手コーチに就任。同シーズン後に権藤博一軍投手コーチが退団したことに伴い、一軍投手コーチに就任した。2013年当初はブルペン担当だったが、チームの不振により6月12日の対西武戦から近藤真市投手コーチと入れ替わりでベンチ担当となった。10月15日、球団より来季の契約を結ばない事が発表された[33]。2014年からは再びNHKの野球解説者(主に総合テレビ東海ローカルの中日主管試合、BSのメジャーリーグ中継に出演)として活動する。, 細身の体型から全盛期には最速150km/近い[34]キレの良い速球と100km/h前後のスローカーブにフォークボールや70-80km/hの超スローカーブ[35]を混ぜた投球をしていた。さらに1996年頃からはチェンジアップも使っていた[35]。これらの変化球を意識的に全く同じフォームで投げ分けて打者を翻弄し、捕手の中村武志がリリース直前までサイン間違いかと不安になることも少なくなかったという[35]。特にカーブの方がストレートよりも力強く腕を振るように見えるフォームだったため、打者はストレートに差し込まれたりカーブに体が突っ込んだりしやすくなった[17]。, 先発の時はいかに完投するかを常に考え、5回まではストレートとカーブで投球を組み立て、打者が3巡目から4巡目に入って慣れてくる6回頃からフォークボールを混ぜていった[36]。フォークは多くても10球程度しか投げなかったが、終盤から球種を増やすことで狙いを絞りにくくさせて主導権を握り、さらに球種の少ない中盤までに攻略しようとして相手が焦る効果もあったという[36]。味方の得点に関わらず3点以内で完投するようなスタイルで、8点取ったら7点までは許すような山本昌とは対照的だったと中村武志は評している[17]。このため、重要な試合では点を取られない所を評価されて先発を任されることが多かった[17]。, 外角低めの球をベースにしながら、それを活かすためにも内角を有効に使う事を重視していた。内角への投球はコースが甘くなると長打になりやすいため勇気とコントロールが必要だが、外角だけでは踏み込んで打たれるか四球による自滅に繋がると考えていた[37]。, スローカーブは1992年に骨折からのリハビリを機に習得している。復帰直後の対阪神戦で和田豊に対してフルカウントからカーブを投げて珍しく和田から見逃し三振を奪い、手応えを掴んだという[38]。人差し指と中指をボールの中心からずらして縫い目にかけ、非常にゆるく握って親指は添える程度にしていた。この状態から手首をひねらず、人差し指と親指の間からすっぽ抜けるような感じで顔の前でリリースして投げたという[39]。ベース上に真上から落とすようなイメージで投げ、内外角の投げ分けも出来ていた[17]。, 打者からはストライクゾーンを外れるほど高い軌道から落ちてくるように見える上、ミットに入る前に空回りして止まりそうになるように感じられたという[13]。このためバッターは腰砕けになる事が多く、トーマス・オマリーをはじめ外国人バッターに特に嫌がられた[17]。原辰徳に対して8-9球連続でカーブだけを投げた時には全てファウルになっており[17]、ファウルを打たせるのにもカウントを取るにも有効なボールだった。また反発力がないため打たれても飛ばず[35]、球速が遅いため打者が必ず反応する[14]など使い勝手が良い球だったという。, 指が短く開きも狭いため、しっかりボールを挟むフォークボールの習得は諦めていた。しかし1989年の秋季キャンプで握りの浅いスプリット・フィンガード・ファストボール系のフォークを習得し、1991年頃から使うようになった。落差にはバラつきがあったが、1試合の中でハッキリ落ちるのは1球程度と基本的に変化は小さかった[36]。高めに入ると絶好球となるが制球を重視しすぎると腕の振りから見破られるため、低めを意識しながらも腕を強く振ることを重視していたという[8]。, 握りが浅くなるためフォークは改良がしにくく、練習ではほとんど投げなかった。フォーク自体は痛打されることが多く、首脳陣から試合で投げるなと言われたりもしたが[35]、ストレートやカーブを活かすためにも投げ続けた[21]。1994年から対戦するようになった落合博満にも、フォークの存在が非常に大きいと評されている[21]。, 自身の通算記録では74完投を挙げたことが誇りだったという[12]。与死球が少なく1994年と1995年には与死球0の成績を残しているが、「死球の恐怖心がなければ打者は4割打てる」とも語っており[40]、ある程度は死球も止むを得ないと考えていた。また、同時に敬遠も少なくある年では先発としてフルシーズンを投げて敬遠0の記録も持っている。対巨人戦で多く登板する先発ローテーションを組まれたこともあってこのカードで通算25勝を挙げた巨人キラーであるが[12]、金田正一や江夏豊の3年連続対巨人戦5勝以上の記録には一歩及ばなかった。, また、左投げながら通算被打率は対左打者で.263(1301打数342安打)、対右打者で.244(3528打数860安打)と対左打者の方が相性が悪い[41]。これについては、「昔の左打者は外角へ逃げる球を苦手としていたが現代の左打者は左投手のスライダーなどにもうまく対応しており、左対左は投手有利という一般論が必ずしも成り立たない時代になった」、と引退後の2002年に語っている[41]。, 25歳までに通算85勝をあげながら、その後の故障で100勝に届くことなくユニフォームを脱いだ選手生活は、同時期に売り出し50歳まで現役を貫き最終的に219勝をマークした僚友・山本昌の息の長さと対照的となったが、中日ファンへ残した印象は山本に劣らず強いものがあり、磐石の二枚エースぶりとともに長く語り伝えられている。, 落合博満と前田智徳には簡単に安打を打たれるというイメージがあり、走者のいる場面などでは周囲に伝わるほど気合を入れて対決した[16]。この二人が打者として最も印象に残っており、また自身の調子のバロメーターでもあったという[16]。投手では桑田真澄が最も印象に残り、投球に全くバットが当たらなかった事に加え、投げ合って勝った記憶がないというほど相性の悪さを感じていた[16]。, 正捕手を務めていた中村武志への信頼は厚く、中村からの餞別ビデオを見た際に涙を流す一面を見せた。, 「惜別球人 6回 今中慎二『いいときも、悪いときもあった。でも気持ちよくできた13年間でした』」『週刊ベースボール』、2001年12月10日号、P.116, 「天才サウスポーの原動力は打倒・巨人の心意気!」『週刊ベースボール』、1993年8月30日号、P.29, 「期待のドラフト1位クンの中間報告 今中慎二」『週刊ベースボール』、1989年4月10日号、P.73, 「オレに訊くな! ストレートとカーブの本格派左腕・今中慎二(元中日)に訊く フォークの使い方を教えて下さい」『野球小僧』、2010年2月号、P.123, 「人物ショートシヨート 開幕一軍て、本当に楽しいですネ! もはや左腕エースの扱い。星野監督は西本とあわせて30勝の皮算用」『週刊ベースボール』、1990年4月23日号、P.25, 「テクニカル・ポイント 中日・今中慎二 制球を気にしすぎて上体だけの投げ方に」『週刊ベースボール』、1990年7月9日号、P.68, 「魔球伝説 『今中慎二のカーブを捕った』中村武志」『Sportiva』、2007年8月号、P.74, 「魔球伝説2008 本人が解説! カーブ 今中慎二 わざと不安定に握ることがコツ」『Sportiva』、2008年7月号、P.48, 「にんげんドキュメント 野球浪漫 2回 今中慎二 天才サウスポーの孤独な闘い」『週刊ベースボール』、2001年4月16日号、P.42, 「遅すぎたエース復活 今中(中日)」『週刊ベースボール』、1997年9月1日号、P.18, 「こんなハズじゃなかった… 今中慎二 速球派か?軟投派か?今が勝負どころの元エース」『週刊ベースボール』、1998年10月5日号、P.54, 「残留か?退団か?その去就が注目される人たち」『週刊ベースボール』、2001年10月1日号、P.126, 「今中慎二(復活かけて-背水の男たち)」『週刊ベースボール』、1999年3月8日号、P.129, 「レフティーの不思議 左対左の虚と実 左ピッチャーの秘密 左打者との対戦で何を考える? 今中慎二氏に聞く」『週刊ベースボール』、2002年7月15日号、P.13, 「プロが公開『特上の握り』 変化球大図鑑 テクニカル・ポイント カーブ編 今中慎二」『週刊ベースボール』、2004年6月7日号、P.14, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=今中慎二&oldid=79990698, 初セーブ:1990年8月25日、対読売ジャイアンツ19回戦(ナゴヤ球場)、7回表1死に2番手で救援登板・完了、2回2/3無失点, 1000投球回数:1995年7月6日、対読売ジャイアンツ15回戦(ナゴヤ球場) ※史上261人目, 1000奪三振:1996年6月27日、対広島東洋カープ14回戦(ナゴヤ球場)、5回表に.
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