エノラ・ゲイ(アメリカ英語: Enola Gay)は、太平洋戦争末期に運用されたアメリカ陸軍航空軍第509混成部隊第393爆撃戦隊所属のB-29の機名。B-29の中で原爆投下用の改造(シルバープレート形態)が施された15機の内の1機である。ビクターナンバー82、機体番号44-86292号機。, 1945年8月6日午前8時15分に広島県広島市に原子爆弾(原爆)「リトルボーイ」を投下したことで知られる。また同年8月9日の長崎県長崎市への原爆投下の際にも、投下の第1目標となった小倉市(現北九州市)の天候観測機として作戦に参加している。, エノラ・ゲイは、ネブラスカ州に存在したグレン・L・マーティン・カンパニー ベルビュー工場(現オファット空軍基地)で製造された。その後、ポール・ティベッツ大佐により1945年5月18日に陸軍航空隊509混成部隊へ配属されることとなる。1945年7月6日にはアメリカ本土からテニアン島へ到着し、その日のうちに原爆を搭載するため、爆弾倉の改造が行われている。, 配属当初、ビクターナンバー「12」が割り当てられたが、所属部隊を表す垂直尾翼のマーキングを特殊作戦機と悟られないよう、通常爆撃戦隊である「第6爆撃隊」表示である大型円中心にRへと変更したため、誤認防止のため「82」へ変更された。初期は特殊任務機表示である大型円中心に左向きの矢印である。なお、原子爆弾投下に関する作戦任務終了後の1945年8月中には、テニアン島北飛行場に於いてビクターナンバーは「82」のままで垂直尾翼のマーキングだけを元に戻している。, エノラ・ゲイは8回の訓練ののち、神戸・名古屋へのパンプキン爆弾を使用した爆撃を行った。7月31日には、テニアン沖にて、原爆投下のリハーサルを行い、「模擬リトルボーイ」を投下する。, 機体名称の由来は、機長であるティベッツ大佐の母親、エノラ・ゲイ・ティベッツ(Enola Gay Tibbets)から採られたものである[1]。しかし、重要な任務を行う機体に対して母親の名前を付けることに、44-86292号機司令であるロバート・A・ルイス大尉(原爆投下任務時は副機長を務めた)は強い不快感を示した。, 1945年11月8日にニューメキシコ州、ロズウェル陸軍航空基地(現ウォーカー空軍基地)に到着。1946年4月29日にクロスロード作戦に参加するためクェゼリン環礁に向かうが、投下作戦がビキニ環礁に変更となったため、翌日にカリフォルニア州トラビス空軍基地へと帰還している。その後、機体保存が決定され、1946年7月24日にアリゾナ州デビスモンサン空軍基地へと移送された。1946年8月30日には陸軍航空隊を除籍し、スミソニアン博物館名義へと変更されている。その後1953年12月2日メリーランド州、アンドルーズ空軍基地へ移送、そこで解体保存されることとなる。, 1995年に、国立航空宇宙博物館側が原爆被害や歴史的背景も含めて、レストア中のエノラ・ゲイの展示を計画した。この情報が伝わると、アメリカ退役軍人団体などから抗議の強い圧力がかけられ、その結果、展示は広島への原爆被害や歴史的背景を省くこととなり、規模が大幅に縮小された。この一連の騒動の責任を取り、館長は辞任した。, その後、レストアが完了し、スミソニアン航空宇宙博物館の別館となるスティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター(ワシントン・ダレス国際空港近郊に位置)が完成したことにより、現在はその中で公開されている。重要な常用展示機体であり、その歴史的背景から破壊行為などが行われないよう、複数の監視モニターにて監視され、不用意に機体に近づく不審者に対しては監視カメラが自動追尾し、同時に警報が発生するシステムを採用。2005年には映像解析装置も組み込まれるなど、厳重な管理の元で公開されている。, 前述したような事態が繰り返されるのを避ける目的で、原爆被害や歴史的背景は一切説明されていないために、その展示方法には批判的な意見も存在する。, 出撃当時の乗組員構成(全12名)。2014年7月28日、同機最後の生存者であったセオドア・ヴァン・カークが93歳で死去したため、ボックスカーを含め、原爆投下に参加した搭乗員の存命者はいなくなった[2]。, https://web.archive.org/web/20140805064227/http://www.47news.jp/CN/201407/CN2014073001000833.html, “エノラ・ゲイ元航空士が遺した、原爆の「過ち」と誓い 広島に原爆投下のB29に搭乗”, http://www.nikkei.com/article/DGXMZO90168730V00C15A8000000/, Why the Aircraft That Dropped the First Atomic Bomb Will Always Inspire Debate, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=エノラ・ゲイ&oldid=80175333, 無線通信士:リチャード・H・ネルソン(Richard H. Nelson)- 「亡くなった人に対しては気の毒に思うが、原爆投下に参加したこと自体に後悔はない」と語っている。, 胴下機銃手・電気士:ロバート・H・シューマード(Robert H. Shumard), 航空機関士:ワイアット・E・ドゥゼンベリー(Wyatt E. Duzenberry). WRXなんか買ったら破産しませんかね…笑, 嵐大野智がファンよりもシングルマザーを選んだ理由は何ですか? 妻はたまに職場の同僚と仕事終わりに食事や飲み会などに行ってます。私は行くことや帰りが多少遅くなることは気にしておりません。 アメリカ大統領選挙の選挙人の仕組みが アメリカ大統領選挙の選挙人の選び方について エノラ・ゲイ(アメリカ英語: Enola Gay )は、太平洋戦争末期に運用されたアメリカ陸軍航空軍 第509混成部隊第393爆撃戦隊所属のB-29の機名。 B-29の中で原爆投下用の改造(シルバープレート形態)が施された15機の内の1機である。 ビクターナンバー82、機体番号44-86292号機。 地方党員票のようなものが選挙人という 鬼滅の刃コラボの炭治郎を変身させたいんですが元に戻ってしまいます。 妻の嘘に気づいてしまった。追及すべきかどうか悩んでます。結婚2年目の夫婦子無しです。お互いフルタイムで仕事をしています。 分かる部分(州によって選挙人数... アメリカ大統領選挙の選挙人は州で選ばれた立候補者が獲得し、選挙人は投票時に裏切ってはならないことが連邦最高裁が判決している点を踏まえると、選挙人は投票しなくても結果は確定しているので、選挙人による投票は冗長というか無駄に感じるのですが、必要な理由などあるのでしょうか? 偏っていない、客観的に見ている方のみ回答よろしくお願いいたします。. 理解で良いのでしょうか? 『サルの一種・シロガオサキの「モップ」の観賞に訪れる女性について言及。「『モップくんが大好きなんです!』と来園してくださる方は素敵(すてき)なお... バイデンは中国とズブズブなんですか?SNSでは彼が大統領になったらアメリカも日本も終わると言ってるひとが結構いて不安です。 チャールズ・W・スウィーニー(Charles W. Sweeney, 1919年12月27日 - 2004年7月15日)は、アメリカ合衆国空軍の軍人。最終階級は少将。 政治にまったく詳しくないので、教えて下さい。 本田は大戦の経験と三菱のテストパイロットとしての外遊資料から、当時の若年搭乗員で12機編隊着陸が一様にできた操縦性、腕比利用による高低速両用の操縦性で紫電改を評価し、大戦末期における双璧は紫電改とp51であると述べている 。撃墜数は43機以上。その他に17機と記す本もある。 櫻井翔 松本潤 二宮和也 相葉雅紀 大野智 アラフェス. テニアンに帰還後、8月14日にはB-29「ストレート・フラッシュ」に搭乗し、愛知県挙母市(ころも市・現在の豊田市)のトヨタ自動車工場への爆撃に出撃した[1]。翌日、8月15日に日本は無条件降伏した。, 8月25日に銀星章を受章。9月3日にティベッツや、ビーハンらと共に、テニアンから神奈川県の厚木飛行場に移動、初めて日本の土を踏んだ。東京の第一ホテルに滞在し、上智大学を訪れるなどしたという。数日後、長崎県の大村飛行場へ移動、長崎市内へ入った。スウィーニーは戦災孤児が多く在院するカトリック系の孤児院に寄付をしたという。また、スウィーニーの回想によれば、長崎市への原爆投下後、初めて市内に入ったアメリカ人であったとしている。スウィーニーは爆心地に立ったときのことを以下のように回想している。, 私は瓦礫の中に立ちつくし、両方の陣営でいかに多くの人が死んだことか、その場所だけでなく戦争が行われたすべての恐ろしい場所において、どれほどの人間が命を奪われたかを考えて、悲しみにおそわれた。, 当時私は戦争の残虐性について、苦しんだのが自国の人間であろうと他国の人間であろうと決して誇りや快感を覚えたわけではなく、それは今でも変わらない。すべての命はかけがえのないものであるからだ。だが私は、自分が立っていたその都市を爆撃したことについて、後悔も罪悪感も感じなかった。破壊された周囲の光景が物語っていた苦しみは、日本の軍国主義文化の残虐さと、「下等な」民族を征服することを光栄とし日本がアジアを支配する運命にあると考えていた伝統によって、もたらされたものだからだ。後悔と罪悪感を抱くのは日本の国家のはずであり、偉大なる野望を達成するために国民の犠牲を惜しまなかった軍の司令官たちこそが、とがめられるべきであった。, 1945年11月16日に、スウィーニーはニューメキシコ州のロズウェル空軍基地に戻り、原子作戦に従事する航空機搭乗員を訓練。1946年6月28日に予備役士官部隊へ移り中佐に昇進した。その後はマサチューセッツ州の空軍州兵に所属し、1956年2月21日にマサチューセッツ空軍州兵第102戦闘航空団の司令官となり、1956年4月6日に最も若い准将に昇進、1979年12月27日に退役。, その後、生涯に渡って原爆投下の正当性と必要性を確信し、1995年に起きたスミソニアン博物館(国立航空宇宙博物館)におけるB-29「エノラ・ゲイ」(広島市への原爆投下機)の展示方法についての論争においては、アメリカ上院議院運営委員会において、退役軍人の立場から、当初のスミソニアン博物館側の展示案を批判し、原爆の被害についての展示・説明を縮小し、旧日本政府の侵略行為と原爆投下による戦争終結の功績について説明を行うように求める証言を行っている。さらに、1997年に『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』(原題 War's End, 原書房刊)を出版。同書の中で原爆の投下が戦争を終結させたと主張している。, 1960年代にローマ法王ヨハネ23世に謁見し、被爆地への支援を要請していたことが、家族の証言にて明らかになった[2]。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=チャールズ・スウィーニー&oldid=70048055, チャールズ・W・スウィーニー 黒田剛訳 『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』 原書房 2000年7月. 1 エノラ・ゲイの原爆投下に関する資料を調査した。 2 エノラ・ゲイの乗組員による自伝を探したが,当館には所蔵なし。 3 放射線被曝に関する資料を調査した。 事前調査事項 (Preliminary research) NDC: 兵器.軍事工学 (559) 参考資料 (Reference materials) ① ゴードン・トマス/[著] , マックス・ … 州ごとに勝敗を決める 昨年度のブログでお約束したように、今回は、1945年8月6日、広島市に原子爆弾「リトルボーイ」を投下した、B-29「エノラ・ゲイ」のポール・ティベッツ機長(1915年2月―2007年11月)の話です。ついでながら、原子爆弾に名前がついていることの意味については「武器と命名」(「戦争と文化」第3回)で述べています、覚えていますか? 彼は、アメリカでは「戦争〔太平洋戦争〕を終わらせた英雄」とされることが一般的です。, ちなみに、孫のポール・ティベッツ4世は、2005年現在、アメリカのステルス爆撃機B-2のパイロットです。, 太平洋戦争では、日本の「零戦/ゼロ戦」(零式艦上戦闘機)も活躍しました。そうした中で、坂井三郎(1916年8月―2000年9月)という名パイロットが日本にもいました。彼は、戦艦の砲手をふりだしに、最終的には海軍中尉まで昇進しました。太平洋戦争終結時には、海軍少尉でしたから、ここでは「坂井少尉」と呼ぶことにしましょう。坂井少尉は太平洋戦争終結までに、大小64機(異説あり)の敵機を撃墜したといわれています。『大空のサムライ』という世界的ベストセラーも出版しています。真偽のほどは確かめていませんが、イラク空軍では、アラビア語の翻訳書をパイロットの必携の書としていた、という話もあるくらいです。, その坂井少尉は、撃墜した飛行機の数を自慢するのではなく、「一度も飛行機を壊したことがないこと」「自分の僚機(小隊の2・3番機)の登場員を戦死させなかったこと」などを誇りにしていたようです。ちなみに、「僚機の被撃墜記録がない」のは、第二次世界大戦の「歴戦搭乗員」(ほとんど出撃しないならば危険も少ない)では、世界中で少尉ただ一人といわれています。さらに、戦闘機同士のある激戦では、日本側は24機も撃墜された中、米軍のヘルキャット15機の一斉射撃を受けたにもかかわらず、一発の被弾痕も発見されなかったといわれています。, しかし、それほどの坂井少尉でも、頭部に被弾することもありました。致命症はまぬかれたものの、目の視力を0.7にまで落とし、パイロットとしては致命的なハンディキャップを負いました。もっとも、頭部被弾のおかげで左腕はマヒ状態にあり、計器すら満足に見えないなかで生還できたこと自体が奇跡的なことですし、失明しなかったことも幸運といえるでしょう。普通ならば、それでもう戦闘機に乗ることはなかったでしょうが、少尉はふたたび戦闘機の操縦桿を握ることになります。, さて、1983年、米国アラバマ州の空軍指揮幕僚学校卒業式で航空200年祭がひらかれました。そのとき、坂井少尉が招待され、司会者に「ティベッツ機長の参加・同席を、被爆国民としてどう思うか」と質問されたそうです。問題は、その時の彼の答えです。, 軍人として命令を受けた以上、任務を遂行するのは当然である。仮に自分が日本軍人として原爆投下を命令されれば実行したであろう。原爆投下の道義的責任はハリー・トルーマン大統領にある。, 日本と同じく、アメリカでも第二次世界大戦を知らない人びとが多くなっています。それでも、大戦を知っている退役兵とその家族を中心に、多くのアメリカ人がティベッツ機長を「偉大な愛国者」「真のアメリカンヒーロー」と見なしているようです。もちろん、そうでないアメリカ人もいることでしょうが、これが彼の一般的な評価です。, ティべッツ機長が亡くなった後、1週間で300ほどの電子メールが寄せられたそうですが、ほぼすべてが機長を称える内容だったそうです。たとえば、次のようなものがありました。, 海兵隊だった私の祖父は、原爆投下がなければ自分は〔日本本土攻撃で〕死んでいたと何度も話していた。私も生まれていなかっただろう。(アリゾナ州の男性)。, 原爆を責める者は…原爆は米日双方の膨大な人名を救ったことを忘れている。(バージニア州の男性), また、コロンバス・ディスパッチ紙は、機長の訃報に次のような内容をもりこみました。広島の人びとや私たち日本人には冷徹に響きます。, 広島の死者数は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、9・11テロ、イラク戦争のすべての米国人死者を足してもなお届かない数だ。 〔それだけ、われわれの戦果はあったのだ。〕, 後悔などしていない。奪った人命より多くの人命を救ったことを確信している。あの兵器を所有していながら使わずに〔日本本土上陸で〕100万人の人間を死なせていたら、道義的な過ちになっていただろう。(1995年、原爆50年のアメリカのテレビで)。, 多くの人びとを殺したことを誇りには思っていない。だが、一から計画を始め、完全に実行し終えたことを誇りに思う。(1975年、アメリカのメディアに), 機長は、太平洋戦争後、広島には訪れていません。また、上に引用したように原爆投下を肯定し続け、被爆者の方々への謝罪もしていないようです。これらについては、多くの日本人には納得のいかないところでしょう。, ところで、ティベッツ機長の死を報道した2007年の朝日新聞の記事は、「心の底では〔機長は〕〈英雄〉になりきれなかったのだろうか」と問いを投げかけています。たしかに、その記事がいうように、機長は「栄光の名誉軍人役を終生演じねばならなかった」可能性もあります。 機長は、「原爆の機長がみっともない格好はできない」という理由で、移動の時も食事の時も、いつも背広姿だったそうです。その機長は、名誉軍人らを葬るアーリントン国立墓地への埋葬は「望まない」と明言しましたし、墓や碑も「反核運動で壊されかねない」と拒みました。そして、「葬式もせず、静かに埋葬して遺灰を大西洋に撒いてほしい」と希望したそうです。, ティベッツ機長は、1998年、82歳のとき回顧録を出版しますが、そのなかに「数分前まで陽光の中に鮮明に見えた都市〔広島〕が恐ろしい煙と炎の中に完全に消滅した」と書いているそうです。原爆投下当時ならば、任務を遂行し終えた訳ですから、機長の目に、その「炎」は「輝かしい炎」と映ったかもしれません。そして、それが時間の経過とともに「恐ろしい炎」と変化していったのかもしれません。また、多くの日本人には言い訳に聞こえるかもしれませんが、機長は「私は広島や長崎の人を相手に戦っていたのではなく、われわれを攻撃した日本という国と戦っていたのだ」と1995年に朝日新聞に話しています。さらに、2003年にはアメリカの新聞に「戦争に道徳なんてない。国家紛争の解決の手段としての戦争はなくす道を探すべきだ」と話していますし、好戦的な思想には否定的な見解を持っていたとされます。, 一人の人間の精神世界など、他人にわかるはずはありません。もちろん、ティベッツ機長の場合も同様です。それでも、いろいろと機長についての資料を読むと、彼に対する筆者の当初のイメージも少し変わってきました。, ポール・ティベッツ機長と坂井三郎少尉。二人のことは今後も長く記憶される/語り継がれるでしょう。太平洋戦争では敵と味方に分かれて戦った二人ですが、40年後には、少尉の言葉に機長は涙を流しました。この時の二人の心のうちはどのようなものだったでしょう。ここから、平和に繋がるようなことは引き出せないでしょうか…。, それにしても、原爆は、人のいない太平洋上で投下してその威力をみせつけるとか、その破壊力を明確なかたち日本側に示すなど、有効な「威嚇」手段として使えなかったのでしょうか? 「戦争と文化」第5回のブログで紹介したように、殺人に至らない「威嚇」で止めるというのは人命尊重の観点からいっても優れた方法です。現実に広島と長崎に原爆を投下したのは、戦争とは無関係なたんなる非人道的な「大量殺人」にしか過ぎないのではないでしょうか。このように考えると、アメリカ人の「日本本土決戦で多くの人が死ななくて良かった」という意見は、原爆投下の反論にならないかもしれませんね。ただし、当然のことながら、当時の日本がそうした「威嚇」を無視する可能性もあったわけですが…。, ティべッツ機長は、上に引用したように「多くの人びとを殺したことを誇りには思っていない。だが、一から計画を始め、完全に実行し終えたことを誇りに思う」と語ったあと、「毎晩よく眠れる」と日本人の心を逆撫でするような発言をしています。, 原爆投下について、1つ念頭におくべきことがあります。それは激戦を経験した兵士がよく陥るPTSD(心的外傷後ストレス障害)とかかわることです。筆者は心理学者でも精神科医でもありませんが、以下のように考えます。, 機長は、原爆を日本に投下しながらも92歳まで生きましたし、精神的障害に陥ったというような話もありません。おそらく、これは「殺人への抵抗」と「殺人する距離」という問題と関係があるでしょう――もちろん、機長の精神的強靱さも考慮しなければなりませんが。, 第二次世界大戦で爆弾を投下した経験をもつあるパイロットは「私の投下した爆弾が〔中略〕ここに引き起こした悲惨な死を、思い描くことができなかった。私には罪悪感もなかった、達成感もなかった」と回想しています。これはグロスマンの『戦争における〈人殺し〉の心理学』からの孫引きですが、この著作には、「最大距離および長距離からの殺人――後悔も自責も感じずにすむ」という章(第14章)があります。章のタイトルですから、額面通りには受け取る必要はないとしても、やはり「殺人する距離がおおきくなればなるほど、殺人への抵抗感が減退していく」という一般的な傾向はあるでしょう。銃剣や刀で眼前の敵を殺傷するのと、はるか上空を飛行する爆撃機から爆弾を落として人びとを殺傷するのとでは、精神的ダメージがまったく違うのです。「常識でもわかる」といわれれば、それまでですが、こうしたことをきちんと認識するのも重要だと思います。, 上記のような心理的な問題にくわえて、戦争における殺人はいわば「合法的」であるという問題もありますが、今回、この問題については触れる余裕はありませんでした。, (2)D・グロスマン(安原和美訳)『戦争における〈人殺し〉の心理学』ちくま学芸文庫、2010年。, 月)の話です。ついでながら、原子爆弾に名前がついていることの意味については「武器と命名」(「戦争と文化」第3回)で述べています、覚えていますか? 彼は、アメリカでは「戦争〔太平洋戦争〕を終わらせた英雄」とされることが一般的です。, 太平洋戦争では、日本の「零戦/ゼロ戦」(零式艦上戦闘機)も活躍しました。そうした中で、坂井三郎(, 年9月)という名パイロットが日本にもいました。彼は、戦艦の砲手をふりだしに、最終的には海軍中尉まで昇進しました。太平洋戦争終結時には、海軍少尉でしたから、ここでは「坂井少尉」と呼ぶことにしましょう。坂井少尉は太平洋戦争終結までに、大小, 機(異説あり)の敵機を撃墜したといわれています。『大空のサムライ』という世界的ベストセラーも出版しています。真偽のほどは確かめていませんが、イラク空軍では、アラビア語の翻訳書をパイロットの必携の書としていた、という話もあるくらいです。, その坂井少尉は、撃墜した飛行機の数を自慢するのではなく、「一度も飛行機を壊したことがないこと」「自分の僚機(小隊の2・3番機)の登場員を戦死させなかったこと」などを誇りにしていたようです。ちなみに、「僚機の被撃墜記録がない」のは、第二次世界大戦の「歴戦搭乗員」(ほとんど出撃しないならば危険も少ない)では、世界中で少尉ただ一人といわれています。さらに、戦闘機同士のある激戦では、日本側は, 機の一斉射撃を受けたにもかかわらず、一発の被弾痕も発見されなかったといわれています。, しかし、それほどの坂井少尉でも、頭部に被弾することもありました。致命症はまぬかれたものの、目の視力を, にまで落とし、パイロットとしては致命的なハンディキャップを負いました。もっとも、頭部被弾のおかげで左腕はマヒ状態にあり、計器すら満足に見えないなかで生還できたこと自体が奇跡的なことですし、失明しなかったことも幸運といえるでしょう。普通ならば、それでもう戦闘機に乗ることはなかったでしょうが、少尉はふたたび戦闘機の操縦桿を握ることになります。, 年祭がひらかれました。そのとき、坂井少尉が招待され、司会者に「ティベッツ機長の参加・同席を、被爆国民としてどう思うか」と質問されたそうです。問題は、その時の彼の答えです。, ほどの電子メールが寄せられたそうですが、ほぼすべてが機長を称える内容だったそうです。たとえば、次のようなものがありました。, 後悔などしていない。奪った人命より多くの人命を救ったことを確信している。あの兵器を所有していながら使わずに〔日本本土上陸で〕, 多くの人びとを殺したことを誇りには思っていない。だが、一から計画を始め、完全に実行し終えたことを誇りに思う。(, 年の朝日新聞の記事は、「心の底では〔機長は〕〈英雄〉になりきれなかったのだろうか」と問いを投げかけています。たしかに、その記事がいうように、機長は「栄光の名誉軍人役を終生演じねばならなかった」可能性もあります。 機長は、「原爆の機長がみっともない格好はできない」という理由で、移動の時も食事の時も、いつも背広姿だったそうです。その機長は、名誉軍人らを葬るアーリントン国立墓地への埋葬は「望まない」と明言しましたし、墓や碑も「反核運動で壊されかねない」と拒みました。そして、「葬式もせず、静かに埋葬して遺灰を大西洋に撒いてほしい」と希望したそうです。, 歳のとき回顧録を出版しますが、そのなかに「数分前まで陽光の中に鮮明に見えた都市〔広島〕が恐ろしい煙と炎の中に完全に消滅した」と書いているそうです。原爆投下当時ならば、任務を遂行し終えた訳ですから、機長の目に、その「炎」は「輝かしい炎」と映ったかもしれません。そして、それが時間の経過とともに「恐ろしい炎」と変化していったのかもしれません。また、多くの日本人には言い訳に聞こえるかもしれませんが、機長は「私は広島や長崎の人を相手に戦っていたのではなく、われわれを攻撃した日本という国と戦っていたのだ」と, 年にはアメリカの新聞に「戦争に道徳なんてない。国家紛争の解決の手段としての戦争はなくす道を探すべきだ」と話していますし、好戦的な思想には否定的な見解を持っていたとされます。, ポール・ティベッツ機長と坂井三郎少尉。二人のことは今後も長く記憶される/語り継がれるでしょう。太平洋戦争では敵と味方に分かれて戦った二人ですが、, 年後には、少尉の言葉に機長は涙を流しました。この時の二人の心のうちはどのようなものだったでしょう。ここから、平和に繋がるようなことは引き出せないでしょうか…。, 原爆投下について、1つ念頭におくべきことがあります。それは激戦を経験した兵士がよく陥る, (心的外傷後ストレス障害)とかかわることです。筆者は心理学者でも精神科医でもありませんが、以下のように考えます。, 歳まで生きましたし、精神的障害に陥ったというような話もありません。おそらく、これは「殺人への抵抗」と「殺人する距離」という問題と関係があるでしょう――もちろん、機長の精神的強靱さも考慮しなければなりませんが。, 第二次世界大戦で爆弾を投下した経験をもつあるパイロットは「私の投下した爆弾が〔中略〕ここに引き起こした悲惨な死を、思い描くことができなかった。私には罪悪感もなかった、達成感もなかった」と回想しています。これはグロスマンの『戦争における〈人殺し〉の心理学』からの孫引きですが、この著作には、「最大距離および長距離からの殺人――後悔も自責も感じずにすむ」という章(第, 章)があります。章のタイトルですから、額面通りには受け取る必要はないとしても、やはり「殺人する距離がおおきくなればなるほど、殺人への抵抗感が減退していく」という一般的な傾向はあるでしょう。銃剣や刀で眼前の敵を殺傷するのと、はるか上空を飛行する爆撃機から爆弾を落として人びとを殺傷するのとでは、精神的ダメージがまったく違うのです。「常識でもわかる」といわれれば、それまでですが、こうしたことをきちんと認識するのも重要だと思います。, 戦争と文化(6)――日本に原爆を落としたティベッツ機長と、日本のエースパイロット坂井三郎.
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