自由に記しています。, Proudly powered by WordPress | Theme: Yoko by Elmastudio. "The Perils of Presidentialism.". ]では外見的立憲主義でしかないとする意見が通説である[要出典]。, 衆議院において政府に反対する勢力が多くを占めることを予想して、貴族院に衆議院と同等の権限を持たせている。, 実際に政治を運営するのは、天皇でなく元老や内閣の各国務大臣である。行政権は各国務大臣の輔弼により天皇に付随しており、権力執行者とされた。大日本帝国憲法では、国務大臣は天皇を輔弼するもの(総理大臣も他の大臣と同格。)と規定された。しかし、最終的な政治決断を下すのは誰か、という点は曖昧にされていた。対外的には、天皇は元首であるが実際の行政権執行者は内閣としていた。内閣は憲法ではなく内閣官制で規定されており、内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの憲法上は対等な地位であった。, この憲法に規定された権力構造が昭和に入ってから軍部に利用され、「軍の統帥権は天皇にあるのだから政府の方針に従う必要は無い」と憲法を拡大解釈して軍が大きな政治的影響力を持つこととなったといわれる(権力の二重構造、統帥権干犯問題)。軍が天皇を担いでクーデターを起こしても、政府がこれを制止鎮圧する術はなかったのである。(二・二六事件・統帥権干犯問題を参照)こうした政治的主体性の欠如した統治機構を、政治学者の丸山眞男は「無責任の体系」と呼んだ。, なお、明治以降から終戦までの天皇は、従来の天皇とは異なる極めて政治的な理由によって、大幅に制度を変えるものであるとして、「絶対主義的天皇制」「近代天皇制」という語が用いられることもある(天皇制ファシズム参照)。, 天皇は日本国憲法の定める特定の国事に関する行為のみを行うとされるようになり、国政に直接関与する権能は有しなくなり、また天皇の国事行為は内閣の助言と承認が必要とされ、内閣がその責任を負う、とされている。, 連合国軍最高司令官総司令部は国家の政体の中心に継続して皇室を維持する方針を採り、一方で昭和天皇によるいわゆる「人間宣言」を請け日本国憲法に国家象徴としての天皇(象徴天皇)の地位を導入する方針を指導した。この方針は昭和天皇の各地への行幸や皇太子結婚などのイベントを通して大衆に浸透し、一定の支持を得るに至った。この大衆の支持を基盤にした戦後の皇室を松下圭一は大衆天皇制と評した[36]。, 憲法学会の学説では日本国憲法下の現行体制を立憲君主制とは捉えず、また天皇は元首ではないとする説と、実質的に元首であるという見解を示す説もある(「君主制(君主が元首である)」と「君主政(君主が執政者である)」では若干意味が違い、「民主政」と「君主政」の両立は有り得ないが、「民主政」と「君主制」は両立され得る)。, アメリカ・中央情報局の『ザ・ワールド・ファクトブック』では、日本の「Government type(政府・統治のタイプ)」としては「a parliamentary government with a constitutional monarchy[38]」とし、「chief of state」としては 「Emperor AKIHITO (since 7 January 1989)」としている[38]。諸外国は一般的に、外交上、日本を天皇を元首とした立憲君主国として扱っている。, 国学者の平田篤胤は従来の儒教的世界観に対し、神国思想により天皇を全世界の統治者と位置づけ、尊王・攘夷思想に影響を与えた。, 明治政府が進めた天皇を中心とした神道国教化に対し、1872年に島地黙雷など仏教界や、西洋諸国から政教分離原則の批判が発生した。神道国教化は放棄されたが、代わりに「皇室崇拝は宗教ではなく国家の祭祀で、国民の義務としても政経分離原理に抵触しない」との神道非宗教説が生まれた。, 1874年に加藤弘之は「人民を以て独り天皇の私有臣僕となすが如き」国体を批判して西欧諸国流の「国家君民の権利義務」を主張したが、政府より批判され政府擁護に転向した。, 1876年以降の大日本帝国憲法草案審議では、伊藤博文は欧州の宗教と比較して「我が国に在りて基軸とすべきは独り皇室あるのみ」と述べ、国王の権限が強大なプロイセン型の立憲君主制が採用された[39]。, 1889年の憲法制定後、上杉慎吉らの西洋の君主主義を日本に適用した天皇主権論と、美濃部達吉らの国家法人説に基づいた天皇機関説で議論が行われた。当初は藩閥政府の超然主義により天皇主権論が支配的であったが、日清戦争・日露戦争後には天皇機関説が主流となった。, 1891年の内村鑑三不敬事件では、井上哲次郎は国家主義の立場からキリスト教を批判し、植村正久はキリスト教の立場から皇室崇拝・先祖崇拝は認められないと主張した。, 1914年、吉野作造らは民主主義(デモクラシー)の訳語として「民本主義」を使用して、主権の所在(君主または人民)を問わずに、人民多数のための政治を主張して大正デモクラシーに影響を与えた。, 1910年の大逆事件(幸徳事件)、1921年の大本事件、1930年の統帥権干犯問題、1932年の五・一五事件、1935年の天皇機関説事件と国体明徴声明などにより軍部が政治的影響力を拡大し、天皇制に関する議論自体が困難となった。, 北一輝は大日本帝国憲法における天皇制を批判し、「国民の天皇」を中心とした平等で民主的な社会のために「維新革命」「国家改造」が必要と主張し、皇道派に影響を与えた。, 石原莞爾は著作『世界最終戦論』で「世界最終戦を経て、全人類が天皇を現人神(あらひとがみ)として信仰し、天皇の霊力によって世界を統一するべきである。」と述べた。, 社会主義・共産主義者による日本資本主義論争で講座派は天皇を「半封建制の絶対君主」、労農派は「ブルジョワ君主」と規定した。, 非合法の第二次共産党は27年テーゼで「君主制の廃止」を採択、32年テーゼで「天皇制の廃止」を採択した。, 第二次世界大戦の敗戦後、天皇制を含めた自由な議論が可能となり、君主制廃止も含めた多くの憲法草案が作成され、日本共産党は日本人民共和国憲法草案を発表した。, 議会での日本国憲法制定議論では、日本国憲法第1条で「国体は変わったか」が議論となり、憲法担当国務大臣の金森徳次郎は「国家体制は変更されたが、天皇を憧れの中心として国民がつながり国が存在するという意味の国体は変わっていない」と答弁し、「二枚舌」と批判された。また尾高・宮沢論争や佐々木・和辻論争も発生した。象徴天皇制における日本の君主や元首も議論となった。, 1946年に三笠宮崇仁親王は、天皇は退位の自由も無いため「鉄鎖につながれた内閣の奴隷と化する」と発言。, 1947年の第1回国会以来、日本共産党は天皇の「お言葉」が「憲法を逸脱」と国会開会式を欠席(2016年より「発言内容が儀礼的・形式的に定着」として出席[40])。また1948年の国会開会式でのカニの横ばい拒否事件では、公職追放に対して部落解放全国委員会らが追放反対運動を展開した。, 1960年の風流夢譚事件では、宮内庁は名誉棄損、右翼は「不敬」、出版社側は表現の自由を主張し、菊タブーとも呼ばれた。, 1964-1974年の靖国神社法案では、日本遺族会などが国家護持を主張、他の宗教団体や左派などは国家神道復活反対や政教分離原則を主張した。, 1988年の昭和天皇崩御では、「過剰な自粛」や「昭和天皇の戦争責任」が議論となった。, 2004年に皇室典範に関する有識者会議が設置され、皇位継承問題として女性天皇、女系天皇、女性宮家、旧皇族復帰等が議論となった。, 渡部昇一は、天皇は神話時代から続く世界に例のない万世一系の存在で、神道は特定の宗教ではなく、日本国憲法は無効であり、生前退位や女性天皇や女系天皇は左翼の陰謀と批判した[41]。, 丸山眞男は戦前の日本を「天皇制ファシズム」と呼び、誰も戦争責任を取らない日本の天皇を中心とした社会を「無責任の体系」と批判した[42]。, 吉本隆明は、歴史的に天皇制の大半は宗教的権威であり、天皇の世襲における祭儀の本質は「神との共食」と「神との性行為」で、その根底には農耕祭儀がある。このため、「日本が農耕社会からほぼ脱皮したときに、アジア的な農耕社会の日本における王としての天皇の政治的な役割は終焉する」と述べた[43]。, 三島由紀夫は昭和天皇の人間宣言を「残念」[44] と述べ、小泉信三らが進める「天皇制の民主化」に対して、大衆社会に媚びた「週刊誌的天皇制」と批判した。, 西部邁は、政治と宗教は根源的に繋がっており、「天皇は価値の源泉たる国柄の「象徴」」で、「象徴」は聖なるものへの指向性を含むため、日本国憲法には矛盾があると述べた[45]。, 梅原猛は、「天皇」という言葉ができた8世紀の推古天皇頃から天皇は宗教的色彩が強く、律令時代でも天皇の政治的権力は排除されており、中国の皇帝と同じ「エンペラー」と訳すのは間違いで、天皇は実際の権力を持たなかったから存続できた。天皇は初めから象徴であり、明治憲法で天皇をヨーロッパ流国家体制の上に持ってきたのは間違いだった、と述べた[46]。, 堀内哲は、天皇の政治的発言など象徴天皇制には限界があり、天皇制廃止し天皇を普通の人間に戻すべきと主張した。橋爪大三郎は、天皇制は民主主義と矛盾するため憲法改正による天皇制廃止を主張した[47]。小谷野敦は、天皇制は生まれによる差別のため、憲法改正して天皇制廃止し天皇・皇族は日本国国民として基本的人権を認めるべきと主張した[48]。, 自由民主党は綱領に「自主憲法制定」を記載、2012年の「日本国憲法改正草案」で天皇を「元首」と記載した。, 池田大作は著作で、戸田城聖の言葉として「仏法から見て、天皇や、天皇制の問題は、特に規定すべきことはない。代々つづいて来た日本の天皇家としての存在を、破壊する必要もないし、だからといって、特別に扱う必要もない。どちらの立場も気の毒と思う。」と記した[49][50]。, 日本共産党は2004年綱領で「君主制の廃止」を削除する一方、「天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点」として将来的には「国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべき」と記載した[51], 日本国憲法公布・施行前の1946年(昭和21年)5月27日の毎日新聞朝刊に結果が載った世論調査では、「象徴天皇制」への支持が85%であった[52]。, その後、メディア各社が行った世論調査の推移を見ると、1990年(平成2年)では「今の象徴天皇のままでよい」を回答に選んだ人の割合は73%だったとされ[53]、2000年(平成12年)には象徴天皇を支持したのが8割とされ[54]、2002年(平成14年)には「(天皇は)今と同じ象徴でよい」を回答に選んだ人が86%だったとされる[55]。, NHKが2009年(平成21年)10月30日から11月1日に行った世論調査では、「天皇は現在と同じく象徴でよい」が82%、「天皇制は廃止する」が8%、「天皇に政治的権限を与える」が6%となっている[56]。, 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く, 日本経済新聞 1978年6月9日 夕刊 p2 見出し「(ニュースの周辺)元号法制化、及び腰 - 気重い天皇制論議」, 中日新聞 1988年5月22日 p3 見出し「天皇制は74%が支持 - 東海3県住民 本社意識調査」, 産経新聞 2013年8月16日 見出し。本文の一部「終戦の日は、先の大戦で亡くなった方々への思いとともに、天皇制や憲法のあり方にも思いをはせる一日となった。(編集長 近藤真史)」, 「今上陛下の御人格と云ふものを國民に知らしめ得なかつたか、と云ふ所に今日或は天皇制を論じて之を否定すると云ふやうな思想が出て來て居るのであります」国会図書館 帝国議会会議録データベースシステム, 「其の結果として、天皇制を彼此言ふのみならず、共産主義的のことを公然と主張して居る、現行刑法の規定の下に於ては明かに不敬罪を構成するやうな言論を勝手にすると云ふことも、現に行はれて居る次第であります」国会図書館 帝国議会会議録データベースシステム, 吉本隆明「天皇制および天皇について」(『国家の思想』(戦後日本思想体系5、筑摩書房)), http://mainichi.jp/articles/20160208/ddm/004/040/012000c, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=天皇制&oldid=79672381, 「広くは天皇を君主とする国家の制度。(中略)多く狭義に用いられ、明治維新から1945年までの近代天皇制をさす。」(『, 「広義には天皇を最高権力者とする日本の国家体制。古代天皇制。狭義には大日本帝国憲法によって確立した天皇を政治的・精神的最高権威とする日本的な専制君主制。近代天皇制。」( 『, 「狭義には、天皇を君主もしくは政治支配の権威の源泉とする国家制度をさし、広義には、そうした国家制度を支える社会構造と支配イデオロギーを含めて、天皇制の語は使用されている。」(『, 「天皇が君主となっている統治体制。特に大日本帝国憲法下の政治体制をいう。また、現憲法下における国の象徴としての天皇の制度を天皇制と呼ぶこともある。」(『精選版 日本国語大辞典』, 「日本独特の君主制を指す用語。狭義には明治維新から第2次大戦での敗戦までの近代天皇制を指すが、広義には古代天皇制、戦後の象徴天皇制なども含まれる。」(『, 『天皇制(皇室典範その他の皇族関連法に関する調査を含む)に関する基礎的資料』衆議院憲法調査会事務局(平成16年2月5日の参考資料), 『象徴天皇制に関する基礎的資料 最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会』衆議院憲法調査会事務局(平成15年2月6日及び3月6日の参考資料). 谷沢永一『「天皇制」という呼称(ことば)を使うべきでない理由』php研究所、2001年4月。 isbn 4-569-61572-4。 - 「天皇制」という造語の誕生した歴史を明らかにする。 中西輝政・日本会議編著『日本人として知っておきたい皇室のこと』php研究所、2008年12月。 1992. 大統領制(だいとうりょうせい、英: presidential system)とは、大統領を国家元首とする政治制度[1]。, 政治学上は議院内閣制と対比し、行政府の長である大統領を国民からの投票により、議会とは独立して選出する政治制度を指す[2][3][4][5]。但し大統領の権限が形式的・儀礼的であったり、議会から大統領を選出するなどの例もある。, 大統領制は議会と政府との関係の点から見た政治制度の分類の一つで[2]、国家元首ないし行政権の主体たる大統領を国民から選出する政治制度である[3][4]。例としてアメリカなどが挙げられる。このほかにドイツなどに代表される名誉職的な大統領制や、フランスなどに代表される議院内閣制との融合をはかる半大統領制がある。南アフリカなどは議会から大統領を選出する制度を採り、スイスでは内閣であり元首である連邦参事会の閣僚が輪番制で大統領を務めている。, 日本の外務省によれば、大統領が存在する国の政体(政治体制)につき、それぞれアメリカは大統領制・連邦制、フランス(フランス第五共和政)は共和制、ドイツ連邦共和国は連邦共和制、大韓民国は民主共和国、フィリピン共和国は立憲共和制などとしている[6]。, 漢字文化圏では、「大統領」(大韓民国)や「主席」(中華人民共和国・ベトナム社会主義共和国・一時期の北朝鮮)や「総統」(台湾・中華民国)など独自の呼称を用いる国家もあるが、英語圏では現在は[7]いずれも「President」である。なお共和制であっても、国家主席職を事実上廃止して以降の北朝鮮や、国家主席廃止時期の中華人民共和国、ソビエト連邦などでは、議会の常務委員会もしくは幹部会の委員長・議長を元首・元首格としている。, 権力分立の観点からは議会(立法府)と政府(行政府)の厳格な分立を組織原理としているものを大統領制、両権力の緩やかな分立もしくはある程度の融合を組織原理とするのが議院内閣制とされている。また、民主主義の観点からは立法府の行政府に対する信任の有無、もしくは行政府の立法府に対する責任の有無(大統領は国民から選出され、国民に対して直接責任を負う)が基準とされるが、両者の中間形態も存在する[8][9][10]。, アメリカ型の大統領制は徹底された三権分立の統治機構をとる。大統領は議会の選挙とは別に国民から直接的に選出され(アメリカの大統領選挙は選挙人団の制度を採用しており、制度上においては間接選挙であるが、実質的には直接選挙として機能しているとされる[11])、原則として大統領は任期を全うし(議院内閣制の国のような不信任の制度は無く、犯罪の嫌疑により弾劾が成立した時のみ職を失う)、さらに大統領には議会解散権や法案提出権が与えられていないこと、議員と政府の役職を兼務できないこと、政府職員は原則として議会に出席して発言できないことなどを特徴とする[11][12]。アメリカの場合、大統領が議会に出席するのは年頭教書演説と予算教書演説のときぐらいであるとされる[13]。, アメリカ型大統領制は、1819年の大コロンビア成立を皮切りに成立したラテンアメリカ諸国で数多く施行されている。, 大統領制において、議会側が大統領に対して用いる牽制・抑制手段には、条約批准権、高官人事の承認権、国政調査権、大統領に対する弾劾・罷免などがある。一方で大統領側が用いる対抗手段には、予算教書の提出あるいは勧告権、大統領令などの行政立法権、法案の拒否権や遅延権、非常事態宣言や戒厳令などの非常権限などがある。ただし、これら抑制手段の有無と細部は各国で異なる[14]。, 日本の地方自治体の統治機構とよく比較されるが、議会側の抑制手段が異なる点、アメリカの政治制度において大統領には議案提出権や議会解散権が認められていない点などで両者は異なる[15][16]。重要法案については大統領が主導的な役割を果たすようになっているものの、大統領が議会に直接議案を提出できるわけではなく、自党の有力議員に法案の提出を依頼する形がとられている[16][17]。また、予算案についてもアメリカの場合、大統領は予算教書演説のみで直接提出することはできず、法案と同じ形式で議員が提案した上で審議される[13]。, アメリカ型の大統領制はイギリス型の議院内閣制(ウェストミンスター・システム)と比較されることが多い。, 統治機構の観点からは、イギリス型議院内閣制(ウェストミンスター・システム)は立法権と行政権が政権与党によって結合され強力な内閣のもとに権力の集中を容認する制度(議会の多数を占める政党が行政権を担う)であるのに対し、アメリカ型大統領制は立法権と行政権を厳格に分離し権力の分散という点を強調し権力分立を指向する制度であるとされる[18][19]。ところが、日本では歴史的・制度的な点から長い間にわたり議院内閣制のために権力の集中は生じず、また、大統領制のほうが権力の統合の度合いが強い政治制度とみられてきたとの指摘がある[19][20]。この点については、アメリカで大統領の役割が拡大したのは20世紀以降になってからであることや、国内政治における大統領と国際政治における大統領は異なる存在であるが日本を含む外国からみると強い影響力を行使しているように見える一因となっていることが指摘されている[21]。アメリカの政治制度の場合、軍事・外交面においては大統領は議会からの制約を比較的受けにくいと分析されている[22]。, 立法と行政の関係について、大統領制の下では大統領と議会とは別々に選出されるため民意は二元的に代表されるのに対し(二元代表制)、議院内閣制では議会のみが選挙により選出されて内閣はそれを基盤として成立するため民意は一元的に代表される(一元代表制)[23]。この点から議院内閣制のほうが権限の委任関係は明白となるため、立法と行政との関係を円滑に処理するという点においては、より簡単な政治モデルであるとされる[24]。, 大統領制に対しては、固定された任期が政治を硬直的なものにする、大統領の所属政党が議会で少数派の場合に政策決定に困難を生じ停滞的なものになってしまうなど消極的な見方がある一方で、大統領制の下では説明責任や政権の構成の予測可能性が明確になる、大統領と議会との間に適度な抑制と均衡を築くことができるといった見方もあり、学者間で議論が交わされてきた[25]。, 大統領制の場合には大統領の所属政党と議会の多数派が違う政党になる状態(分割政府、divided government)を生じることもあり、その場合には大統領の望む法案の成立が思うように進まなくなる可能性がある。分割政府の状態は、大統領も議会も任期制のため容易には解消しない[26]。, アメリカ合衆国においては20世紀の行政国家化に伴って大統領が立法を主導し、司法に対しても一定の影響を与えているとされ、本来の厳格な三権分立は緩やかなものとなっている[27]。しかし、大統領の所属政党と上院あるいは下院の支配政党が異なる分割政府の状態を生じた場合にはやはり厳格な権力分立の特徴が顕在化するとされる[28]。大統領の立法面でのリーダーシップは抑制されることとなり、また、議会で成立した法案に拒否権が発動されるなど生産性が低い状態に陥る可能性もある[29]。ただ、アメリカ合衆国の政治制度は分割政府の常態化を前提としつつ、政治運営や立法活動が複雑な駆け引きの下に行われ、盛んな利益集団の活動を背景として大統領や連邦議会議員が利害調整を行っていくという点に特質があり、これは長い歴史を経て形成されてきたものである[30]。1776年の建国時以来の大統領制は200年以上の時間をかけ立法府と行政府の協働関係を構築することによって両者の決定的対立を避けてきたとされる[31](分割政府の下における両者の協力的関係についてはチャールズ・O.ジョーンズの分析がある[29])。ただし、このような大統領制がうまく機能しているのは「アメリカがほとんど唯一の例」と評されることもある[32]。アメリカ型の大統領制を導入した国々、特にラテンアメリカ諸国で政治停滞や軍事クーデターの問題に直面することとなったためである[32]。そもそもアメリカでも大統領と議会との対立を解消するための制度化されたシステムが存在するわけではないとされ[31]、政権と議会との対立が先鋭化して予算が成立せず政府機能の一時停止(政府閉鎖、government shutdown)に陥ったことがある[13]。, ホアン・リンスなど、大統領制民主主義に批判的な学者は「大統領と議会の対立が深刻になると、国政が麻痺状態に陥ったまま抜け出せなくなる危険があり、危機収拾のために憲法を無視しなければならないという主張が生まれ非常事態のための規定が濫用されたり(議会の強制解散など)、大統領による独裁や反政府派によるクーデターを招くことになる」と主張した[33]。その一方で、独裁やクーデターを招いた大統領制はほぼラテンアメリカに集中していることから「ラテンアメリカという特殊な地理的要因を指摘する向きもあるし、大統領制内部での様々な制度的差異にこそ着目すべきであって大統領制そのものが問題なのではない」という主張もある[34]。, 近年は大統領制にも多様な類型が存在することを前提としつつ、それに付随する諸制度や他の政治制度との組み合わせとともに分析されるようになっており[35]、政策選択やそれをもたらすリーダーシップなどミクロ的な観点が重視されるようになっている[36]。, なお、アメリカでは立法部への圧力活動が特に活発で(ロビー活動も参照)、これは政党の分権的・拡散的性格や党議拘束が弱く党派の区分によらない交差投票が一般的であること等の要因によるためとされるが[37]、利益や集団の多様化は統治権力の収拾を困難なものにするため、統治権力の安定をいかに図るかが制度上の課題として指摘されている[38]。, 大統領を直接選挙で選出する場合でも、議院から選出された代表(首相)により実質的な政治が布かれ、事実上の議院内閣制を採用しつつも大統領が国家の権威と名誉を象徴する職掌を担う政治制度として名誉職型大統領制がある。フィンランドの大統領、ポーランドの大統領、イスラエルの大統領、ドイツの大統領、トルコの大統領(ただしこれは国民投票)、インドの大統領(上下両院議員と州議会議員の投票によって選出)など。, フランス第五共和政やロシア連邦のように、大統領と首相が二頭政治を布いて権力を拮抗させる政治制度は半大統領制と呼ばれる。, 大統領制はアメリカ合衆国憲法によって具現化された。それはフランスの思想家であるシャルル・ド・モンテスキューの「権力分立論」に強い影響を受けている[39][40]。モンテスキューは1729年から1年半にわたってイギリスに滞在し、『法の精神』第11編第6章「イギリスの国制について」を叙述し権力分立について論じている[39]。, イギリスでは1688年の名誉革命以降、君主の権力を制限するため議会と君主が立法権を共有する憲法習律が形成され(制限君主制)、君主と議会は相互に独立性をもって対峙し厳格に権力を分立した。制限君主制においては国王に任命される大臣は内閣を形成し、国王と議会の中間にたって国王と議会の仲介役を果たした(議会における君主主権)[41]。, イギリスの国王は国家元首であると同時に国軍の最高司令官でもあり、議会で成立した法律に対しては拒否権を持っていた。これらの制度は制限君主を大統領に置き換える形でアメリカ合衆国憲法に取り入れられた。アメリカ合衆国の大統領は議会からの独立性を強め、厳格な三権分立制を形成していった。, ただし、モンテスキューの考察は当時慣行が確立されつつあった議院内閣制はその視野に入っておらず、イギリス国王の庶民院(下院)の解散権や国王が議会多数派から大臣を任命するようになった点については明確に語っていないなど、当時のイギリスの国制を忠実に叙述したとはいえず、実際には存在しないイギリスの政治制度を理想化して描かれたものではないかとの指摘がある[39][40]。, また、ロバート・ダールによればアメリカ合衆国憲法制定当時、イギリスの政治では首相は議会からの信任を必要とするなど政治体制に重大な変化がおこりつつあったが、これが全面的に表面化するのは1832年であったために憲法の立案者がこのような変化を知ることはできなかったと指摘している[42]。, アメリカの統治機構は権力の機能的拡散(三権分立)と権力の地域的拡散(連邦制)を特徴とする[43]。アメリカ合衆国憲法の制定当時、保守的な指導者らは議会多数派が行政府を支配して大きな権力をふるうことを危惧し、大統領選挙においても直接投票とすることを不安視して各州の大統領選挙人による投票という形が採られるようになったといわれる[44]。議会が強く大統領の地位が相対的に弱いという関係は、南北戦争のあったエイブラハム・リンカーンの政権下などを除き、19世紀末まで続くこととなったとされる[44]。, しかし、20世紀に入って産業革命からなる資本主義の発達とともに経済社会問題への対応が必要になり大統領の権限は拡大していくこととなった[45]。アメリカではニューディール政策の時期から1960年代にかけて大統領の役割は拡大し、その後1980年代までは議会の復権期、1990年代以降は大統領と議会との協調期にあると分析されている[46]。, 大統領が国の政治に主導的役割を果たす政治制度はフランクリン・ルーズベルトの政権下で確立された[45]。1929年以来アメリカでは大不況に陥っていたが(世界恐慌)、フランクリン・ルーズベルトは大統領に就任すると重要法案をホワイトハウスで立案し議会に働きかけて早期に可決実行に移された[45]。, その後も大統領の権限拡大は進み、ベトナム戦争の頃になると「帝王的」との世論の批判を受けるようになった[47]。リチャード・ニクソン政権下では、連邦政府の制約なしで予算面において州政府に直接に交付金を給付できる制度が創設され、さらに国庫支出につき限度額以上のものに対して拒否権を行使できる制度の創設が画策された[48]。, しかし、1970年代半ばウォーターゲート事件が起きると下院司法委員会が大統領弾劾手続を行うなど、議会はその地位を回復することとなった[48]。その反面、リチャード・ニクソンの後継の大統領・ジェラルド・R・フォードは対議会関係に苦慮したとされる[48]。なお、1968年以降、特に分割政府の出現する期間が長くなっている[29]。, 大統領の対議会関係がうまくいくか否かは、大統領が国内政治を強力に遂行していくことができるか否かという点で極めて重要とされる。, ジョン・F・ケネディは議会の抵抗にあい重要法案が通過しないなど国内政策の点においては大きな成果を残すことができなかったが[49]、リンドン・ジョンソンは議会対策に熟練していたため社会福祉法を成立させることができたとの分析がある[49]。また、ジミー・カーターもエネルギー法案について議会承認に1年以上もかかり大幅に修正され、パナマ運河法案でも上院承認に1年以上かかってしまうなど対議会関係がうまくいかない事態を生じたが、その原因として大統領就任前に議会やワシントンとの関係が全くなかった点が指摘されている[48]。, 1995年から1996年にかけビル・クリントン政権は財政均衡化をめぐり議会と鋭く対立し、その際には予算が成立せず政府機能の一時停止という事態になった[13](政府閉鎖も参照)。, 有権者団の代表としての大統領および議会の観点からは普通選挙制の導入はフランスが最初であり、制度としてはフランス革命によって君主制が廃止された1792年、大統領選としてはフランス第二共和政期の1848年に実施している。, 18世紀末のフランス革命以来、議会主義が徹底されていたが、議員行動の自由が幅広く認められ、政党の議員に対する拘束あるいは政権構成員に対する拘束が極めて緩かったために、議院内閣制にとっては大きな障害とされた[50]。, 1958年のアルジェリア戦争により政権の軍部統制は失敗し、大統領制に議院内閣制の要素を加えた半大統領制の政治形態をとるフランス第五共和政が成立した[51]。, 衆憲資第35号15頁。直接は「主要国における議院内閣制・両院制(2003.7.10説明資料)」国立国会図書館専門調査員・高見勝利.
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