静岡ではすぐに在郷軍人会が臨時大会を開いたのをはじめ、青年団、国防婦人会、小学校校長会などが「挙国一致」の声明を出しています。, 1938年には「国家総動員法」(すべてのものを根こそぎ戦争のために動かす法律)がつくられました。軍事力・経済力・人的能力のすべてを投入する総力戦の体制となったのです。 12月に首都南京を占領すると、日本中で、そして静岡でも提灯行列をして戦勝を祝いました。南京占領下で日本軍は、投降した中国人捕虜、一般市民を殺害・暴行し、おびただしい数の犠牲者を出しました。中国政府は首都を内陸部の重慶に移し、抗戦を続けます。日本軍は、この重慶を200回以上にわたり、無差別爆撃しました。 日本写真史(にほんしゃしんし)とは、日本における写真の歴史で、本稿ではその概要を述べる。, 銀板写真が発明されたのは1839年であるが、その4年後の1843年にはオランダ船により長崎に日本最初の写真機材が持ち込まれている。当時長崎の御用商人で蘭学者あった上野俊之丞(上野彦馬の父)は、その機材をスケッチしているが、機材自体は持ち帰られた[1]。, 1848年には島津斉彬が銀板写真機材を入手し、市来四郎らに研究を命じているが、銀板写真は薬剤の調製が難しく、市来および、薩摩藩士宇宿彦植右衛門が写真撮影に成功したのは1857年9月17日と言われている[2]。, なお、1850年にサンフランシスコで撮影された、栄力丸乗組員(ジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵ら)の写真が、「日本人を撮影した写真」としては最古とされている。, 1852年にアメリカを出港したマシュー・ペリーの艦隊には、写真家のエリファレット・ブラウン(Eliphalet M. Brown, Jr.)が加わっていた[3]。ブラウンはダゲレオタイプ(銀板写真)の技術によって人物や日本各地の風景を撮影した。そのうち人物写真6点が現存しており、日本最古の写真とされる[4][5]。横浜に近い石川郷(横浜市中区石川町)の名主は、ブラウンが「写真鏡」を用いて撮影をおこなった様子を記している[6]。, 1860年の始め、もともと中国で写真館を経営していたオリン・フリーマン[7]が横浜で日本最初の写真館を開いた[8]。翌1861年、フリーマンの機材一式を購入した鵜飼玉川が江戸薬研堀で日本人による最初の写真館を開いた[9]。日本の写真の祖として知られる上野彦馬は、長崎医学伝習所で化学の視点から写真術の研究を行っていたが、来日したネグレッティ&ザンブラ社(Negretti and Zambra)の特派員でプロの写真家であったピエール・ロシエ[10]から、本格的に湿式写真を学んだ。1862年には長崎に上野撮影局を開業するが、ここで撮影された坂本龍馬の肖像写真は有名である[11]。同年には、横浜在住のアマチュア写真家であったジョン・ウィルソンの機材を譲り受けた下岡蓮杖も写真館を開業している[12][13][14]。1863年には堀与兵衛(大坂屋与兵衛)が京都の寺町通に写場を開設し[15]、1864年にはロシア領事ヨシフ・ゴシケーヴィチから学んだ木津幸吉が箱館で[16]、上野の弟子である富重利平も1866年に柳川で開業した。その後、彼は熊本に移り、西南戦争の跡や、熊本の風物、人物を撮影している。島霞谷も幕末の1862(文久2)年頃に江戸下谷で写真館を開いており、妻の島隆は日本最初の女流写真家となった[17]。, 1867年に市田左右太が京都で写真館開店(1870年に神戸へ進出し、1882年に元町に移転)[18][19]。1868年(慶應4年)には横山松三郎が江戸両国に写真店を開業し、その後上野に移り「通天楼」と号して営業した[20]。同年、上野彦馬の弟子の内田九一が大阪で写真館を開き、横浜・東京にも進出して、1872年に宮内省御用掛の写真師第1号として明治天皇の肖像写真を撮影し有名になった[21]。 国民には戦争協力が強制され、1940年大政翼賛会が結成されると、10戸を単位とした隣組が組織され、伝達・配給・防空・監視・防諜などの役割が課せられました。, 記事は「この夏以来、我が海の荒鷲の重慶爆撃は全く熾烈をきはめてゐる。晝夜連続、立てつゞけに巨彈の雨を降らせて敵に立直る隙を與へず、今や、敵首都は名狀し難い混亂に陥ってゐる。(中略)重慶政権が抗日の非を悟るまで、わが荒鷲の爆撃行は苛責なくなく續けられるのだ」, 長谷川喜代治の妻すゑは、夫を失った時27歳だった。夫喜代治は静岡市本通で建具職を営んでいた。1925年(大正14)には現役兵として入隊したが、このときは2年後に満期除隊した。しかし、1937年(昭和12)日中戦争になると、9月29日に陸軍歩兵第34連隊の補充兵として再び応召、新婚の妻を残して上海へと出征した。10月27日呉淞(ウースン)に上陸。4日後の31日に、塹壕で顔面と前胸部に砲弾破片創を受け戦死した。, すゑさんは、ひとりで戦後を生きました。夫の死の40年後、かつての戦場・上海を訪れることができました。そして、1999年(平成11)に逝去されました。88歳。長い長い戦後の日々でした。, 静岡の愛国婦人会も、出征兵士の送迎・遺家族の世話・慰問袋の作成などを精力的に行った。. This repository is populated with tens of thousands of assets and should be your first stop for asset selection. 銀板写真が発明されたのは1839年であるが、その4年後の1843年にはオランダ船により長崎に日本最初の写真機材が持ち込まれている。 当時長崎の御用商人で蘭学者あった上野俊之丞(上野彦馬の父)は、その機材をスケッチしているが、機材自体は持ち帰られた 。 大日本国防婦人会 写真 静岡浅間神社石段で整列する大日本国防婦人会静岡市第7分会会員の集合写真。 (亀山弘之さん寄贈) 日中戦争開始と長谷川すゑライフヒストリー. 日本の歴史 | 激動、20世紀日本の歴史特集。欧米と肩を並べ列強への道を歩み始めた明治時代後期。民主主義国家形成の足がかりとなった大正時代。太平洋戦争から高度経済成長、バブル景気を経験した昭和時代。そして、バブル崩壊やグローバル社会へと変遷する平成時代の初期10年。 兵器・戦争手段に対する史上初の禁止は1899年、オランダ・ハーグ開催の第1回万国平和会議で宣言された。その後、禁止リストは常に拡大してきた。なお、今回は大量破壊兵器は含まれていない。そうでなくともルール外だからだ。軍事衝突中も使用が禁止されている死の兵器を挙げよう。 先に紹介した伊奈信男の論文「写真に帰れ」(雑誌『光畫』第1号(1932年)掲載)は、そもそも、報道写真(社会性)優位の主張を内包していたといってよく、この時点にすでに報道写真の時代への萌芽があったといえる。偶然にも、以降の報道写真の時代を牽引する代表的写真家・編集者の1人である名取洋之助がドイツから帰国したのも、同じ1932年であった。, また、報道写真は出版メディアとの連携が必須であり、特に新聞(単なる「ニュース写真」にとどまる)を超えるものが必要であるが、日本初のグラフ雑誌である『アサヒグラフ』は1923年に創刊しており、これが『LIFE』の創刊(1936年)よりかなり前であるという点については、注目しておく必要がある(大久保好六等が活躍)。しかし、写真を中心に据える出版メディアが本格化するのは、以下のとおり、1930年代半ばである。, 名取洋之助を中心に、伊奈信男、木村伊兵衛、原弘、岡田桑三らが日本工房を設立したのは1933年、意見の相違を原因とする伊奈、木村、原、岡田ら(すなわち設立メンバーのほとんど)の脱退を受け、1934年に第2次日本工房となり(土門拳、河野鷹思、亀倉雄策、山名文夫、藤本四八らが加わった)、同年に、世界的なレベルの本格的グラフ雑誌として日本では最初のものである、対外宣伝誌『NIPPON』が創刊された(1944年までに36号を刊行。渡辺義雄や堀野正雄の写真も掲載された)。一方、日本工房脱退組を中心に、1934年に中央工房が設立され、1941年に東方社となり(渡辺義雄、菊池俊吉、濱谷浩、渡辺勉、光墨弘、大木実、林重男、薗部澄らも参加)、1942年に雑誌『FRONT』を創刊した。『FRONT』では、ソ連の『CCCP НА СТРОЙКЕ(建設のソ連邦・ソ連邦建設)』(1930年創刊)に範を取った大胆な紙面構成(レイアウト等)のもと、フォトモンタージュの技法などが駆使され、その芸術的・表現的な点からのみ評価すれば、戦前の日本のグラフ雑誌の頂点ということができる(1945年までに、10冊が制作され、うち9冊が刊行された)。, これ以外にも、「青年報道写真研究会」が1938年に、土門、濱谷、藤本四八、光墨弘、加藤恭平(東京工芸社または東京光芸社)、田村茂らにより結成されたり、雑誌『写真週報』が1938年に内閣情報部により創刊されたり、1940年には、「日本報道写真家協会」が土門拳らによって結成されたりすることで、戦時に向かって、政府の恣意的な庇護の元、報道写真はその一時的な(独占的)繁栄を謳歌することになる。, その繁栄の中で、報道写真は、新興写真を飲み込んでいき、アマチュア写真家や芸術写真・前衛写真を社会性がないとして排斥していく。しかし、報道写真そのものも、最終的には戦争に飲み込まれ、その自由をほぼ失ってしまう。その理由は、日本における報道写真の「社会性」の脆弱さゆえだけではなく、本質的に、「社会性」には、そもそも、社会にからめとられるという弱点が内包されていることによる。, 報道写真のこのような動きは、戦争加担という評価を免れることができないものの、同時に、時勢にあらがうことができず、戦時において生き残るためにやむをえないことであったという評価もできる。ただ、その中で、濱谷浩や土門拳のように、自らその流れから脱落し、別な切り口で社会を見つめる独自の世界へ向かう展開も見られた。, 一方、社会性がないとされた写真家は時代に歪められていった。器用さのない者は自己の世界に閉じこもらざるをえず(中山岩太)、器用な者は自己の世界の(部分的な)放棄や転向や分裂(シリーズ「半世界」(1940年)vs.「写真週報」など)を余儀なくされる(小石清)。また、沈黙に向かう者もいた(野島康三)。この中で、安井仲治は、写真の多様性を認めつつ、時代に屈せずに、従来からの姿勢を変えない代表的な写真家だったといえよう(例えば、シリーズ『流氓(るぼう)ユダヤ』(1941年))。ただ、安井も1942年には他界してしまい、このような動きはほぼ途切れた。しかし、その死により、政府のより厳しい追及を受けずにすんだということを考えると、皮肉ではあるが、安井の早い死は、かえって彼自身にとっては幸福だったといえるかもしれない。, 不思議なことに、報道写真だけが、戦後に、戦争加担という非難をもってしてもつぶされることなく、太い流れで明確に継続することになる。写真の歴史という観点から見れば、この時期の報道写真については、「戦争加担」という非難が該当するというよりも、報道写真家と呼べないような写真家(報道写真家から言わせれば、「社会性」の欠如した写真家たち)を排斥したこと(多様性という芽を摘んでしまったこと)に、より多くの問題があったとも考えられる。そして、このような「排斥」は、やや形を変えて、戦後もある期間継続することとなる。, 重要文化財指定された5点いずれも「外国人が日本国内で日本人を撮影した現在確認される現存最古の写真の1枚」と評価されている。.
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