С древнейших времён до наших дней = Istoria Republicii Moldova: din cele mai vechi timpuri pină în zilele noastre / Ассоциация учёных Молдовы им. 239—244. Dumitru Lazur, Omorâţi mișelește de bolșevici comuniști, История Республики Молдова. 1945年時点での同国の生産量は電気48%、ニット36%、植物油84%、砂糖16%、革靴46%、レンガ42%と順調な伸び率を示しており、1944〜1945年は、同国の産業と農業が積極的にソ連の発展を支えた。のちの1947年以来、モルドバからソビエト連邦の他の共和国に食糧が輸入されている[11]。, モルダビア・ソビエトはソ連の構成国家となってから同連邦による弾圧や迫害を幾度も受け続けている。迫害は宗教的なものも多く含まれていた。ソビエト占領中の宗教的迫害は数多くの司祭を標的にし、1940-1941年にはいくつかの教会が解体・略奪され、公立施設または公共目的の施設に改築されるか閉鎖に追い込まれ、税金の支払い義務が制定されるなど、その扱いも凄惨なものとなっていた。ベッサラビア・ルーマニア正教会司祭であったアレクサンドル・バルタガ(ルーマニア語版、英語版)はこの迫害による犠牲者の代表的な人物として今も語り継がれている[12] 。, 1941年に財産を大量に処分された農民はルーマニアを支持していた。1944〜1945年ソ連政府は、それらの存在を消し去る目的から弾圧などの暴力的な措置を執り行ない、クラークはその地所の警察署に自身の財産と共に登録された。1946年でのソ連の計算によれば、合計27,025名の民間土地所有者が同国に住んでいたという。1944年の秋の時点で、執行委員会は国内の60ヶ所の地区、1204ヶ所の農村、全ての市に残されていた。また、沿ドニエストル地域には6地区ほど残っており、裁判所と検察庁の機能は無事回復させられる状態であった[13]。 "Moldova's military agreements to help strengthen regional security". 傍ら、モルドバではローンが組めないことが大きな障害となっており、同国銀行からの金利も20%という高いものであることから同国の農業者にとっては業務継続に大変な差し障りとなりうるほどの痛手であり、これに併せて金融機関から資金を調達しようにも返金額が高すぎるという致命的な弱点を抱えている[47]。現在、同国の農業は、今後この問題点をどう解決させ克服するかにかかっている。, 外貨獲得源としてワインの生産や輸出業が盛んであり、モルダヴィアのワインの系譜につながるワインが、名産品として造られている(同国のワインの詳細に関してはモルドバワインを参照)。, 2006年から、ロシア連邦はジョージアとモルドバへの経済制裁の一環としてワイン輸入の禁止を行なっている(en:2006 Russian ban of Moldovan and Georgian wines)。この結果、モルドバワインはロシア以外への輸出を模索し、欧米や日本に輸出されることとなった。, 紛争の影響で経済が停滞しており、IMF の2013年の統計によると一人当たりのGDP(為替ルート)は2,239ドル[1]である。ASEAN諸国であるマレーシア(10,547ドル)やタイ(5,674ドル)はおろか、フィリピンの2,790ドル、インドネシアの3,509ドルと同レベルであり、さらには国外へ出稼ぎする労働者の送金額もGDPの23.4%[注釈 4]という状態となっている(これは全体の4分の1に相当する量である)ため、同国はヨーロッパの最貧国の一つに数えられると言ってもよいほどの経済状態にある。, 1990年、ドニエストル川東岸においてスラブ系住民を中心とした勢力が、モルドバ政府の民族主義的政策に反対し「沿ドニエストル・ソビエト社会主義共和国(現在の沿ドニエストル共和国)」として独立を宣言。その後1992年にはモルドバ政府が沿ドニエストル地方を武力攻撃して、約1500人の死者[48]を出す内戦(トランスニストリア戦争)に発展。それに対抗してロシアが沿ドニエストルに味方して軍事介入した結果ようやく停戦したが、当時から今に至るまで紛争終結の目処は立っていない。, モルドバ政府は沿ドニエストルの武装解除や警察権の剥奪、モルドバの法制度への完全な従属などを主張しているが、沿ドニエストル共和国はモルドバと対等な形での国家連合か連邦制、モルドバ共和国からの離脱権の保持などを主張して譲らないままである。沿ドニエストル側のこの地域はモルドバ工業生産の3分の1を占めていたので、モルドバ側としては主要な工業地域を奪われた形になった。(※モルドバ政府の政策は工業化ではなく、農業推進型。), また同時期に、モルドバ南西部に住むガガウズ人の独立運動も発生したが、こちらはガガウズ側の譲歩でガガウズ自治区という独自の自治権を持つことで独立を撤回。(ガガウズ人は歴史的にトルコとの付き合いが強く、現在ガガウズ自治区に対して、トルコより経済援助が行われている。), もう一つの要因としては、国内に資源が乏しく、石油やガス、鉱物資源などを国外からの供給に依存している点が挙げられる。, これらは当然無償ではなく、輸入しているので毎年資源部門は赤字となる上、財源の乏しいモルドバは、過去に何度か滞納を理由に供給を止められている。, また、モルドバの主要なエネルギー供給源であるロシアは近年、旧ソ連諸国に対するエネルギー資源輸出に関する優遇処置を撤廃する動きを強めている。, それまでの割安な価格での石油・ガス供給に慣れていたモルドバにとって、この動きはただでさえ不安定な経済をさらに混乱させる要因となっている。, さらにモルドバ経済は資源供給、市場、出稼ぎ先などロシアに依存する面が多く、そのためロシア経済の影響を大きく受ける。ところがそのロシアで、, ソ連が崩壊した原因は急速な市場経済化であった。そしてモルドバはソ連から独立したが、現在の貧困過疎化等から国民の中には「ソ連時代の方がまだ良かった」と発言する人まで増えている状態である。さらに政党も共産党が旧ソ連圏の中で初めての第一党となり、市場経済移行に逆行していたことが原因で国内は混乱と混沌に満ちた状況が、同政党の失墜する2009年まで続いた。, IMF/WBは国際収支の改善、インフレーションの安定を目的とする政策を掲げているが、それに対し、UNICEF(ユニセフ)は「ヒトを無視した改革は真の貧困解決ではない」と反論している。加えて「エイズ患者の増加や相次ぐ人身売買の送り国の現状の解決のためにも貧困の解決は急務だが、IMFの方法は失業率を悪化させ、新たな貧困を生むので良くない」と批判している。, 現在IMFはアメリカ寄りである。そしてモルドバ最大の経済援助国は 1位アメリカ、2位ドイツ、3位オランダ、4位日本となっている。, 同国は2009年7月末、中国から「《国内インフラ整備の資金》として10億ドルの借款を与える」と約束をされている。中国側は返済を15年払い、利率を固定で3%、3〜5年は利払いを無用とする提案を打ち出している[注釈 5][49]。, また、2006年にロシアがモルドバ産ワインに対する禁輸処置を執ったことから、モルドバ国内のタラクリア経済特区(英語版)では同区内にあるワイン工場の操業が行き詰まる事態が発生。同じくタラクリア特区内に在るタイル工場はしばらく好調に操業を続けており約400人の従業員を雇用していたが、資金提供に協力していたロシアの投資家が突然の資金引揚げを行い不可解な形で撤退してしまう事態が発生、このために同工場は販売先をルーマニアへ切り替えようと試みるも結果は成功せず、2009年に破産することとなった[注釈 6]。, 2014年、タラクリア経済特区管理局は「我々には必要なインフラがすべて整っている、モルドバ政府は特区を再生して雇用や税収を再び生み出せるよう支援すべきだ」と同国政府へ訴えを出している[50]。, 2015年、JICAがモルドバの厳冬ならび防寒対策としてバイオマス・ボイラーの導入を実施、同国へ普及させていることが明らかにされた。この暖房システムは同国が農業国であることから「農業国ならではの強み」を生かしたものとして考案されたものであり、JICAが整備事業を無償資金協力で行なっている[51]。, 同年には国内の銀行から約1200億円が流失した不正送金事件が起こり大規模な反政府抗議へとつながった。この消えた金は同国GDPの15%(約8分の1)に相当する金額であった[52]。, 2016年、同国は1月1日付で、EUとウクライナ間で自由貿易圏を始動させている[53]。, 2017年、日本気象協会が海外との気象研究を共同で行なうとし、その第一弾としてモルドバの気象予測技術の改善を同国と7月12日に合意することになった[54]。 モルドバ共和国(モルドバきょうわこく、ルーマニア語: Republica Moldova)、通称モルドバ、モルドヴァ(Moldova [molˈdova] ( 音声ファイル))は、東ヨーロッパに位置する共和制国家。内陸国であり、西にルーマニアと、他の三方はウクライナと国境を接する。旧ソビエト連邦(ソ連)を構成していた国家の一つであった。現在、ドニエストル川東岸地域が沿ドニエストル共和国として事実上、独立状態にある。, モルドバ人は言語的、文化的にルーマニア人との違いはほとんどなく、歴史的には中世のモルダビア公国以後、トルコとロシアならびソ連[注釈 1]、ルーマニアの間で領土の占領・併合が繰り返された地域である。, 正式名称はルーマニア語でRepublica Moldova [reˈpublika molˈdova] ( 音声ファイル)。日本語表記での近似発音は「モルドヴァ」。, 日本語の表記はモルドバ共和国。通称はモルドバまたはモルドヴァ。旧称はモルダビア[3]またはモルダヴィア。漢字表記は摩爾多瓦で、摩と略される。, ソビエト連邦の構成共和国であったモルダビア・ソビエト社会主義共和国から領土を継承し、1990年に国名をモルダビアからモルドバに変更した[4]。, 古代からモルドバ平原にダキア人がいたが、その後やってきたローマ人入植者も加わりこの地帯独自の文化が形成された。271年のローマ軍撤退後は、ヨーロッパとアジアをつなぐという戦略上重要な位置にあるためキエフのルーシ、モンゴル系などの様々な侵略を受けた。ただしロシア側は、民族大移動時代スラブ人がこの地域にたどりついた時、タタール人しか住んでいなかったと主張している。この辺はルーマニア北西部トランシルヴァニア地方をめぐる、ハンガリーとの歴史認識の違いに似ている。, 中世には、モルダビア公国の東部を構成していた。16世紀にはモルダビアはオスマン帝国の属国になったが、他のバルカン諸国と違って部分的な支配だった。露土戦争の結果、1812年からブカレスト条約によりベッサラビアとして帝政ロシアへ併合される。やがて第一次世界大戦が勃発し、モルダビアは戦乱に巻き込まれていく。, 戦乱真っ只中の1918年にモルダヴィア民主共和国として独立宣言が行なわれたが、ドイツ帝国やルーマニア王国、ウクライナ人民共和国、ボルシェビキ・ロシアとの分離講和合意の調印後、同国の国民からルーマニア王国との連合を望む意思が強まったことや独立宣言から2週間近く経った2月26日(旧2月13日)にルーマニア王国軍が首都キシナウへ侵攻してきたとの報告により、それに促される形で同国指導部(長官会議)はルーマニア王国との連合を決定した。民主共和国という形で一度は独立を実現したモルダビアだったが、この出来事によって同国はその存在が潰えることとなり、同年4月9日モルダビアはベッサラビアとして独立宣言を行い、同日からルーマニア王国の一部となる。, 第一次世界大戦終了後、嘗ての宗主国であった帝政ロシアがロシア内戦により権力の座を追われ、のちに滅亡。するとこれに代わる形でボリシェビキ・ロシアが主導するソビエトへ権力が集中され1922年にソビエト連邦が誕生。その傍ら、先のロシアでの革命の影響により、ルーマニア王国内で共産主義勢力が伸長、さらに当時の国王カロル2世が政府を解散させたことからこの王国の情勢は共産勢力と鉄衛団、王政(王党派)側の三つ巴へと変貌し、不安定なものへと変わって行った。, 第二次世界大戦において、宗主国のルーマニア王国が枢軸国側で参戦することとなるが、独ソ不可侵条約の裏で締結された秘密議定書によってソ連から同王国へ ベッサラビア・北ブコヴィナの割譲要求がなされ、同連邦は1940年にベッサラビアを占領。そこからモルダビア・ソビエト社会主義共和国(MSSR)が建国されソ連の構成国家となる。これは一部戦略的に重要な黒海沿岸などをウクライナ領としたもので、トランスニストリアが加わったものの面積は小さくなり、陸の孤島となった。, 1940年8月2日、第7会期を迎えたばかりのソ連最高評議会により、MSSRの形成に関する法律が採択された。この法律は既存のモルダビア自治ソビエト社会主義共和国との連合化を図るためのもので、ソ連により占領されたベッサラビアのモルドバ人の人口をモルダビア自治共和国のモルドバ人の人口と再結集させる形で失われた労働力とその人口の回復を狙っての計画でもあった[5]。, 同年11月4日にソ連最高司令部により 、MSSRとUSSR(ウクライナ・ソビエト社会主義共和国)との境界が変更された。これによって、ベッサラビアに存在していたアッケルマン群(ロシア語版)、イズマエル郡(ロシア語版)、ホトィン郡(ロシア語版)はUSSRへ譲渡されることとなり、ベッサラビアの再配分後、採択された法律の意図とは裏腹にMSSRは1万km2の領地と50万人の人口を失った。, だが、これをドイツ側が「協定違反である」と見なしたために独ソ戦が開戦されることとなる。ここから独ソ不可侵条約が破られるとドイツ寄りの政権であった同王国は再びベッサラビアとウクライナの一部となっていた北ブコビナを併合し、その国土も嘗ての形となる。, 1941年6月22日、ソ連のドイツ侵攻初日に、ソ連当局によってラツェニ(英語版)(Răzeni)でモルドバ人10名が殺されるという事件が起きた。犠牲となった10名はのちに大墓へ埋葬され、バルバロッサ作戦後の同年7月、ラツェニに慰霊碑が設けられた[6] 。 2007年1月1日より、日本国民がモルドバに入国する際のビザ(査証)が免除された。2019年にはトルコ・モルドバ間で相互ビザ免除協定に関する変更が行われ、180日間以内で90日を超えない形で短期滞在を含む入出国、経由に絡むビザが免除されている[58]。, また、ドニエストル川沿岸にはビーチがあり、そこでの水泳や日光浴を楽しむことができるが、上述の沿ドニエストル共和国との関係上、身の安全性を欠く面があるため、一般の観光客に勧めるには難しいのが現状となっている。, 最近ではモルドバを訪れる外国人が増加傾向にあり、2015年には来訪者数が1万5,500人に達している。モルドバを訪れる外国人のうち、65.1%が観光目的、27.1%が商用、3.1%が療養目的であったとНовости Молдовы社から報道がされている[60]。, オルヘイ・ヴェッキ(ルーマニア語版、ドイツ語版、クロアチア語版)の岩窟修道院(ルーマニア語版)付近の様子, モルドバ人(ルーマニア人)(約75.1%)、ウクライナ人(6.6%)、ロシア人(4.1%)、ガガウズ人(4.6%)[61]、ブルガリア人(1.9%)の順に多い。ほかにドイツ植民者などもいた。政府の統計では少なく見積もられているが実際はロマ人もかなり含まれる。また、かつてはユダヤ教徒のシュテットルがある一大中心地であった。およそ100年ほど前はキシナウの人口の50%以上がユダヤ人だった。同時期に建設されたモルドバの博物館は当時の住民比率を反映してか中東的建造物をモチーフにしたデザインになっており、同国の多民族性を表現したものだという。ロシア帝国及びソ連による統治が長かったため、ルーマニアとは異なりロシア風の姓を名乗っているモルドバ人も多く、実際にロシア人やウクライナ人と混血している人もかなり多い。, モルドバ共和国としての公用語はルーマニア語のみである。2013年の憲法改正により、公用語はモルドバ語からルーマニア語へと変わった。2018年6月、ロシア語を国内共通語と規定してきた法律が失効した[63]。一方、沿ドニエストル共和国支配地域の公用語はモルドバ語、ロシア語、ウクライナ語が、ガガウズ自治区ではガガウス語、ロシア語、ルーマニア語が公用語に指定されている。, 2014年センサスによると沿ドニエストル共和国を除き、母語話者はルーマニア語(モルドバ語)80.2%、ロシア語9.7%、ガガウズ語4.2%、ウクライナ語3.9%の順となっている。一方、日常的な会話になるとロシア語の割合が増加し14.5%となる。ロシア人、ガガウス人やウクライナ人は日常生活ではルーマニア語はあまり理解できず、共通語としてロシア帝国・ソ連時代に普及したロシア語を使用する割合が大半である。また、モルドバ人は非モルドバ系住民との会話では共通語としてロシア語を用いており、ビジネス・メディア等での主要言語としてほぼ全国民に通用するが、2018年6月にロシア語を国内共通語として規定した法律を失効させた[64]。, ソ連から独立以降、民族的に同じルーマニアとの一体化を目指し、唯一の公用語としてルーマニア語(モルドバ語)の普及・使用を推し進めるモルドバ人とこれまでロシア語を使用してきた非モルドバ人との間での言語問題が起こっており、沿ドニエストル共和国の分離独立等の複雑な対立構造を生んできた。, 歴史的に同じラテン系の言語であるフランス語の学習者が多く、フランコフォン加盟国となっている。, モルドバ語(Moldovan)は比較的近年になってから政治的意図によりルーマニア語から区別されたものであり、多少発音や表現に差異があるが、相互理解に不自由はほとんどない(詳しくはモルドバ語に記載)。, 同国の独立運動は、モスクワでの8月革命に先駆けて、モルドバ共和国の公用語をルーマニア語に戻す運動から発端している。過去の歴史において異文化による占領を多く経験してきた同国にとって、自らのアイデンティティーを確立する要素は非常に少なかった。長い間、ソビエト連邦によるルーマニア文化排斥政策が行われた。言語転換もその一つであり、元来、ラテン文字表記であるものをキリル文字標記にさせ、「モルドバ語」という言葉を人為的に作り、ルーマニアとの隔離政策を行ったのである。しかしながら、くしくも日常的に使用する言葉が呼び名は変わろうともルーマニア語に他ならないことが、自らのルーツがルーマニア民族であるという主張を裏付ける説得要因であったがために、必然的にソビエトからの独立を突き動かす原動力となっていったのではないかという見解が存在する。1980年代後半には当時の歴史学者、作家他知識人達が主導して言語奪回運動を組織し、当時モルドバ・ソビエト議会議長だったミルチャ・スネグルを巻き込み、公用語をルーマニア語と宣言した[注釈 7]。だが、後に作成された憲法では、1条13項において、モルドバ共和国の公用語はモルドバ語であり、その表記にはラテン文字を使うことが記された。しかし2013年にはモルドバの憲法裁判所(英語版)により、公用語は「ルーマニア語」と規定された[65]。, 8月31日は国語の日(Limba Noastră)と呼ばれる祝日で、1989年の同日に公用語をルーマニア語にし、キリル文字表記から元々のラテン文字表記に変更されたことを毎年祝賀している。首都キシナウには、これにちなんだ「8月31日通り」が存在する。, モルドバ共和国共産党党首のウラディミール・ボロニンが大統領の時代、この国語の日の存続が危ぶまれた。2006年に、共産党政権は、17年間にわたって伝統的に国語の日が祝賀されていた広場においての公式イベントの実施を禁止し、翌年2007年には国語の日を廃止する計画が立てられている、という噂が流れた。モルドバの独立とモルドバ語の再獲得とを切り離せない同国において、この共産党の政策は歴史の逆行と同等であり、初代大統領スネグルを含め、様々な懸念が各所から噴出している。, 2006年3月に、ロシアがモルドバのワインに対して禁輸政策を打ち出し経済制裁を敷いたが、発端はモルドバ側が、ルーマニア語学校を閉鎖した沿ドニエストル地方に対する経済封鎖を科したからだった。この交渉の際に禁輸政策他経済制裁を解く対価として、ロシア側のウラジーミル・プーチン大統領がモルドバ国内におけるロシア語の擁護をボロニン大統領に要請したが、モルドバ側はかたくなに拒否した。, モルドバ共和国共産党政権時代、ルーマニア歴史過程をロシア寄りの歴史解釈を教える統一歴史過程に置き変える政策を打ち出して、学校におけるロシア語教科のウェイトを増やした他、ルーマニア語・フランス語学校などモルドバ内に住む他言語住民の学校名をモルドバ語・フランス語学校に変えるなどといった政策を展開させ、議論のみならず多数住民との間の対立を深めている。その後統一歴史教科書は出版されたものの現場には受け入れられず実際には使用されなかった。しかし2009年の総選挙で欧州統合同盟(ルーマニア語版)が勝利して政権交代が起こったこともあってか、2013年には再びルーマニア語が「公用語」とされるようになった。, モルドバ人にとってルーマニア語は誇りであるとされ、その響きの美しさが他言語を話す者をも魅了すると自負することが多い。例えば、モルドバの有名な音楽グループであるO-Zoneも「Nu Ma Las De Limba Noastră (僕らの言葉は渡さない)」という歌を歌っている。, キリスト教正教会が主であり、主にルーマニア正教会と、ロシア正教会系のモルドバ正教会(英語版)の2者が並存している。1992年、ロシア正教会のキシナウ府主教区が自主管理教会としてのモルドバ正教会となった。モルドバ正教会は、ルーマニア正教会のベッサラビア府主教区と教区が重複しており、両者の関係は良好ではない。古儀式派の信徒も居住している。, FBI(米連邦捜査局)など諸外国の法執行機関との連携を行なっており、核物質・放射性物質の密輸を過去3度に渡って阻止していた実績を持つ[66]。だが、反面で警察による抑留者への拷問と虐待が広範囲にわたって行われていることが問題視されている。政府はそれを根絶しようと警察機構の改革のための立法上の手続きを行っているものの、その法の支配が現場まで及んでいないのが現状である。, 2005年以降、欧州人権裁判所は8つの事例において、モルドバが拷問と虐待によって人権を侵害していると発表した[67]。, また、モルドバは人身売買の供給源として知られている。これは、労働者や売春婦として国外で働くことが、今もまだ重要な外貨獲得の手段として考えられているからと言われている[68]。, 2012年3月6日には、有罪が確定した児童性犯罪者に対し、強制的に化学的去勢を施す法案が可決された。仮に性犯罪を起こした人間が外国人でも同様の扱いを受ける。モルドバは「児童買春天国」と諸外国から問題視されている[69]。, モルドバ料理は、ルーマニアや他のバルカン諸国の料理と比べ、ロシア料理の影響が大きい。, 結婚の際は、自己の姓を用い続ける(夫婦別姓)・相手の姓を用いる・相手の姓を付加する の3通りのいずれかを選択できるようになっており、基本的な内容は民族的な関わりが最も深い隣国のルーマニアと共通する点が多い。, 外国人との結婚の際には、両方の配偶者から婚姻届を提出することを前提条件として、婚前医療証明書や出生・身分証明書(もしくはその写し)、海外公館によって発行された『結婚相手となる外国人との結婚許可の了承』を記載した書類が必要となる。また、婚姻歴のある外国人との結婚を行なう場合は過去の婚姻を確認できる書類(海外の裁判所で発行された離婚調停の証明書など)あるいはその内容の写しが求められる[70]。, 2004年〜2005年に世界的な大ヒット、日本でも「飲ま飲まイェイ!」で話題になった「恋のマイアヒ (Dragostea Din Tei)」はモルドバ出身の男性3人組「O-Zone」がモルドバ語(ルーマニア語)で歌っていたもの。, 他のヨーロッパ各国同様にサッカーが盛んであるが、ラグビーも人気を博しており、ラグビー欧州ネイションズカップの試合会場にはモルドバから約10,000人の観客が訪れている。その一環でラグビーユニオンにも注目がされている。, また、ロードバイクレースで有力な選手を輩出しており、同国で開催されるモルドバ大統領杯(英語版)ではこれまでの優勝選手ならび上位選手が同国から6人上がっている。, オリンピックではこれまでに陸上競技・バイアスロン・体操競技・アーチェリー・柔道・水泳・ボクシング・カヌー・射撃競技・重量挙げ・レスリング・サッカー・テコンドーなどの試合でいずれもメダルを獲得している。, 一方で、伝統的な競技として トレンタ(Trîntă)(ルーマニア語版) と呼ばれるレスリング形式のスポーツ(格闘技)が開催されており、このスポーツはモルドバにおいて全国的なものとなっている。, モルドバ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件存在する。10か国計34件の資産で構成される「シュトルーヴェの測地弧」の1つをなすルディの測地点である。, モルドバの祝祭日は古来から存在するものと現在の共和国が成立した際に制定されたもの、そしてソ連時代から受け継いだものの3種類で構成されている。また、各都市や地方行政区画ならびガガウズ自治区と沿ドニエストルは地元独自の祝祭日を設定している[注釈 8]。元日と独立記念日には全ての小売業が休業する。, なお、キリスト教の宗教行事は復活祭とクリスマスの2つが存在しており、正教会の休日も通用している。クリスマスは2期間に制定されており、1月7日~8日はモルドバ正教会が公認しているユリウス暦[注釈 9]に基づき、12月25日はルーマニア正教会が公認するグレゴリオ暦[注釈 10]に基づいているものである。, モルドバの農家は日本に比べ一戸が大きな敷地面積を有している大農家が多いが、その一方、農家同士で連携している割合が低い。, モルドバの国家歳入規模はGDPが62億ドル(名目為替相場換算値)に届くほどで、中国から約束された借款額は同国GDPの16%強、すなわち歳入のほぼ半年分に相当する計算となる。, これらの祝祭日は国を通して制定されていないために旅行者にとって混乱を来たすものの一つとなっており、同国の祝祭日を確認の際には注意が必要となってくる。, 現在の暦であるグレゴリオ暦は歴史的にはカトリック側が作った暦であり、グレゴリオ暦(新暦)1月7日がユリウス暦の12月25日に相当する。.