Peso Ley 18.1888 : 100 : 01-01-1970—31-05-1983 Austral : 1.000 : 15-06-1985—-31-12-1991 一方,戦後のアルゼンチン経済は,ペロニズムによる経済政策の失敗,軍政,ハイパーインフレーション,対外債務のデフォールトとさんざんな印象だ。アルゼンチンの歴史を振り返ると,借金をまともに返す気がない国にも見える。 Rudolf Plett , Presencia Menonita en el Paraguay Institudo Biblico Asuncion 1978 これらの農業専門企業は資金は一般の資本家より高い利子で集める大きな企業は10万町歩程度の農地で毎年耕作している。この時期に遺伝子工学にて改良された大豆とこの大豆に被害を与えない米国モンサント社が開発した種大豆RRと農薬ランダップが一挙に売り出され広まった。おかげで農地は耕さずに農薬にて耕作できる近代農業が普及した農地を耕さない事により耕地の風化が大幅に削減された。但しこれでは農家またこの種の経営者が儲けすぎるので政府が大豆に課税する事になる。勿論農家も色々と節税策は図っているが税務署には勝てないで彼は合理化と近代化にて対抗するより道は無い、この反動にて農業地域の過疎化に拍車がかかり近郊の難民増加が並行する。, 国営企業を買い上げた企業は顧問弁護士に民営化実施の法案を作成させた弁護士事務所の責任者達を雇用して手に入れた資産権利の保留を計っている。MENEM政権では国営企業の多くを民間に譲渡したがこの取引の裏で、政治家が絡む贈収賄等の汚職が横行した。。Menenは1995年に再選されたがその後に国内の民営された企業にからむ賄賂の調査に関わった新聞記者の殺人またこの裏の容疑者Yaburanの自殺などによりCaballo経済大臣が辞表した。, 1999年の大統領選挙でペロン党の代表者DuhaldeにFernando de La Ruaが勝ち久しぶりにラジカル等政権が誕生した。, 政治経済の破綻:2000年8月の国会にて行なった労働法改正に関わる賄賂の騒ぎで副大統領が辞職した。その後De La Rua大統領 は昔の経済大臣Domingo Caballoを再度経済大臣に任命し国外よりの外貨の借り入約300億ドルを実施し1ドル/1ペソ為替レ-トの維持を図った。それでも外貨の流失国民の不安不信が収まらず2001年12月1日に外貨送金禁止、銀行預金の引き出し一人一週間に250ドル以下と制限した。, 銀行貯金はCorallito家畜の囲いと言う名で凍結された。市中より紙幣がなくなり市民の暴動がおこり銀行に預金を凍結された民衆が鍋を叩き銀行街を練り歩いた。また失業者も20%に増えかれらも市町村ごと冶自体がとの陳情、抗議団体を結成して国道、大道を閉鎖、議会または大統領官邸、独立記念の五月広場、等に集結し太鼓を叩き不満をぶち当てた。サッカー以外にお祭りの行事が少ないためかまたはラテン人の血の性かこの国のこの種の集会は昔からお祭りのように大衆がよく集まり道を騒いで練り歩く。ブラジルのカニバル、日本の盆踊り、徳島の阿波踊りなどがどこの町でも必要ではないかと私は思う。, 2001年の12月21日に政庁の2五月広場での暴動を鎮圧できずそれに続いておきた市町村での内乱を抑えられずに大統領は辞表を提出した。, De La Rua大統領の辞職を受けてペロン党の党首であったRoduriguez Sa なる San Luis州知事が上下両国会議員により12月23日に大統領に押されてた。同大統領は対外債務返済の一時停止。為替の維持を打ち出した。但し12月28日にまたも暴動発生し30日に与党の緊急会議を招集したが支援無く即時に辞表した。, 大統領の再度の辞表により上下両院による国会議員の緊急会議が2002年1月1日に開催され前ペロン党の大統領候補でブエノス州 州知事でもあったEduardo Dualdeが臨時大統領に選出された。, Dualde大統領はLavañaを経済大臣に任命し次期の大統領選挙日を2003年4月27日に制定した。これまでの長い間維持されてきた1ドル/1ペソの固定為替制度を改め、国内生産、雇用などを回復させる為の経済政策を発表した。そのため為替が一挙に1ドル/1.4ペソ、1ドル/2.4ペソ、1ドル/3ペソと切り下げられた。国内の輸入商品と輸出商品が為替の変動に添って値上がりしたが政府の公共料金の値上げに対する規制また大企業の商品に対する値上げの規制が敷かれ思ったより値上げ巾が大きくなかった。但し為替が1ドル/7ペソまで行くとの噂もとび売り惜しみも多くあった。, 経済危機、社会不況の中で誕生したDUARDE政権は、その救剤政策として貧困者約2百万所帯に150ペソ(50ドル)をばら撒き暴動の再発を抑えた。, 国家再建促進:2003年1月16日にIMFと債務の繰り延べ交渉に同意した。この総額は161億ドル。ペソ貨幣の切り下げにより経済の活性化が起こりおかげで政府の税収が2003年度は前年度比較43.2%増し722億ペソ、貿易収支は輸出が295億ドル輸入が138億ドルにて大幅な黒字に転換した。GDP成長率も2003年度は8.8%に達した。, 2003年4月の大統領選挙でDualdeが推したKitsnerが大統領に選ばれた。経済大臣はラバニャが引き継いだ。, ラバニャ経済大臣は2004年6月1日に亜国政府がこれまでに発行し国内外の私立の金融機関に渡していた債務再編成に関する新たな案を発表した、一方的に債務元金及び金利を含む金額994億ドルを385億ドルの新たな国債に交換すると提案した。元本総額812億ドル、金利182億ドルであったので元金だけでみれば75%の値引きとなった。, 2003年5月25に新大統領Nestor Kirchnerが就任した前政権による大幅な切り下げにより公務員及び恩給の支払い金額が激減され財政が良くなった農牧産品の輸出で外貨も増えた。 Irma Bernal , Rebellones indigenas en La Puna Ediciones Busqueda 1984 2010年5月末に今まで放置していた昔の政権よりの滞留債務を新たな国債にて買い上げる政策を発表した。世論支持を改善する目的にて貧困者の子供向けの補助金ばら撒き政策を打ち出した。野党によればこのばら撒き政策は真面目に働く人を軽視し浮浪者を増加させる怠け者促進政策とやじられてた。 Carlos Martinez Sarasora , nuestro paisanos los indios Emece Editores 1992 民営化された後に企業が支払えなくなった債務は国の債務に切り替えられていた。, 自由経済路線を打ち出したMENEM政権は、貿易の自由化、外貨管理制度の廃止を図ったことににより輸入品が国内市場を徐々に制圧し、国内産業.企業は倒産し雇用に アルゼンチンの歴史 生垣 彬 参考書類, Bibliografia de la historia argentina por Akira Ikegaki, Feliz Luna , Historia integral de la Argentina tomo 1, y 2 la segunda edición mayo de 1994 Editorial Planeta Argentina, La cultura en tiempo de la colonia y La cultura desde Independencia hasta el Centenario. 為替、インフレ、給料の値上げ闘争を押さえらずに政府が潰れるの繰り返しであった。, Peso Moneda nacional: : 0 4-11-1899–31-12-1969 Julio Cesar Chaves Compendui de historia parahuya , Editor Carlos Schauman 1988 Virginia Haurie , Historias reales de La Patagonia Invisible , Editorial Sudamerciana 1996. ちなみに種蒔き機は普通5万ドル、農薬散布機は10万ドル、収穫機は20万ドル程度である。 Pesos Argentino : 10.000 : 01-06-1983—-14-06-1985 1) 政治経済の概略:私なりに調べ理解しているこの国の歴史の概略: このように現地の人間、文化を軽視する事は今の日本社会にもまだあるのが現実である国外にある欧州のドイツ、フランス、イタリアの学校では母国の言葉と現地の言葉で授業を行い互いの文部省が中学、高校卒業書まで与えているが日本人学校ではバイリグエ、ツリレングエは認めていない戦前に中国、韓国にて実施していた日本語学校と同じであり國際化されていないのが現状である。化学、数学、音楽、哲学、体操などの学問はなに語で教えても同じだろうと私はドイツの現地学校の校長より言われた。日本の文部省は北海道から沖縄まで一つの教育指針に添って児童を育成している。国民を統一するには優れた教育方針であろうが個人の独創、選択の自由を無視しているとも言える。欧州の多国籍企業の幹部には若い時代に現地よりつれてきた女性が奥さんになっている方をよくみるが日本企業ではこの様に異国の女性を妻に持った職員の前途が厳しいのが現状である。 2009年6月の選挙にて国会議員の過半数を多数の野党に政府は奪われた、この次期にはカトリク協会、ジャナ-リストも政府に反対しだした。この裏には数年前よりNestor Kirchiner前大統領が進めて来た金で市町村、洲知事を牛耳る政策が底をつきだし貧困が増え、治安悪化、統計局の数字の偽りなどが暴露された。法政も裏から操作しているがこの手も徐々に困難になりつつある。 2007年10月28の選挙にてNestor Kirchner夫人Cristina Fernandez de Kirchnerが大統領に選ばれ12月10日に就任した。 Feliz Luna , Historia integral de la Argentina tomo 1, y 2 la segunda edición mayo de 1994 Editorial Planeta Argentina, La cultura en tiempo de la colonia y La cultura desde Independencia hasta el Centenario. 第三次移民:197代より隣国とくに、ウルグアイ、パラグアイ、ボリヴィア、ペル-からの移住者が徐々に増えだした。これらの移住者は自国での苦しい生活に亜国でのより容易な生活を求めて来た純粋な勤労精神に燃えた人々が多いが中には悪質な人々もおり亜国民より差別される事が多く問題にされた。それでも亜国の憲法は移住奨励する法律でありこの種の勤労者を受け入れるべきと語っている。, 女性の進出:この時期より色んな職業に女性が活動するようになってきた、今まで会社の秘書、小売店の売り子、小学校の先生、看護婦、など限られた職業しか女子が活動できる職場がなかったがスペイン、イタリア、米国の社会変換に添いアルゼンチンでも裁判官、医者、軍隊、警察、企業、ジャナリスト、企業、政治家、全ての職業に女性が活動するようになった、おかげで男性の雇用の枠がより削減された。アルゼンチンでも2000年台になれば家長として家族を支えている女性が30%以上になった。おかげで若い世代の家族では共稼ぎはあたりまえで親父が失業して母親に支えられている家族また離婚も以上に増加した。この変化により家族、社会構成も大きく変てきている。大統領、国防大臣まで女性となれば男性はどこに行ったのかと言いたくなる。, 1989年になり国内のハイパ-インフレを巻き起こし、生活苦を訴える庶民が、各地で商店を襲って品物を略奪する暴動が発生した、一方、このような経済不況や社会不安を恐れた有産階級は、貯金などを国外にに持ち出す自衛手段を講じるようになって外貨流失を招いた。外貨の流失、国民の不満抑えれず暴動発生がよりひどくなりAlfonsin大統領は既に投票で選ばれていた Menenに大統領就任式を早めて7月8日に政権をわたした。この時点で国外債務は630億ドルに膨らみインフレは年間5.000%にもなっていた。, 1991にMenen大統領は米国のハ-バ-ド大学卒のDomingo Caballoを経済大臣に任命しそれまで取ってきた反米国的政策とは反対の米国型の自由経済政策を一挙に導入した。最高裁判官の数も増やし法政が大統領のいいなりになる体制をしいた。, 行政改革:それまで財政の赤字の根源となっていた国営企業を一斉に民営化した、たとえばオイル公団、航空会社、鉄鋼会社、電話公社、ガス公団、郵便公社、水道公団、飛行場、養老年金及び保険、電力会社、テレビ局、国鉄、道路公団、等々、。これら公団を買い上げた会社はほとんどが国外の欧米系の外国木企業や亜国企業との合併会社によるものであった、。おかげで今までの政府の赤字の元と汚職の巣が消えどの会社も設備が良くなり近代化を図って利益を上げだした。但し私企業は効率、利益のみを追う会社ゆえすべてが受益者負担となり国民がこれら社会の基幹産業である会社の利益追求の犠牲になった。話によるとMenen政権が着手した国営企業のの民営化では契約の条件を有利にするため莫大な賄賂が裏で操作されたと言われている。政府は売るものがなくなり祖母が蓄えた宝石まで売ったとの悪評も聞く。この民営化を指導した米国銀行の責任者はおかげで今まで国営企業に貸し付けていた債権を回収でき米国政府より表彰された。, 国の財源に赤字をもたらし続けた国営企業の身売りを実施したMENEN政権で有ったが、国の債務は一向に減少することなく、莫大な債務に苦しむ国情は少しも改善されることはなかった。 尚3年前よりウルグアイと闘争しているBotnia製紙工場の汚染問題による二国間を結ぶ大橋封鎖 Luis Maju ,Los Dueños de La Argentiana tomo 1 y 2 Editorial Sudamericana nobiembre de 1994 Luis Alberto Borrero, Los Selk´Nam ( Onas) Aborigenes Argentina Galerna Julio de 2007 Muchos otros libros, y revista que ya no encuentro en mi biblioteca. Reyes Abadie Bruschera Melogno , La Banda Oriental , Impresora Crdon, Montevideo Uruguay, mayo de 1970 Bibliografia de la historia argentina por Akira Ikegaki. 憲法作成:1853年にSanta Feの町に国内の権力者達が集合し亜国の憲法が作成され発布された。これは米国の憲法を参考にJuan B.Alberdiにより作成された。, 尚1864年—1870年にブラジル、ウルグアイと共同で時の独裁政権であったパラグアイの大統領Mariscal Lopezを攻め 女、子供までを招集し対抗するパラグアイ軍を攻め落とした。話によればこの戦いで12歳以上のパラグアイの男性は全員殺された。, 尚パラグアイはこの後1933—1935年にボリヴィアを相手に戦争したこの戦いでは少ない武器で勇敢に戦いドイツより呼び寄せた参謀が指導し戦車までもっていたボリヴィア軍に蛮刀を振るって勝った。この戦利品の戦車をパラグアイの首都アスンシオン市の公園に飾ってある。, パラグアイでは度々重なる戦いにより多くの男性が多く戦死した。このような時代の異変を「公園に座っておれば木のうえから女性が降って来る」と形容された。この歴史の名のこりか今でも田舎の女性に生き継がれているようで田舎の女性はは男性に対して非常にやさしい。パラグアイの田舎の大木の下たで若いパラグアイの女性にTerereと言う冷たいお茶を頂くのはまさに天国に居る気分にさせられる。亜国にて公立学校教育を普及させアルゼンチンの教育の父と今でも慕われているSARMIENTOは大統領職を追われ亡命生活を余儀なくされ世界中まわりチリ、ペル、ウルグアイなど転々とした。そような亡命生活を送たSARUMIENTOが一番気に入り住んだ土地は女性が優しいパラグアイであったここは楽園と言いアスンシオンに住み友人も多く呼び寄せた。南米では権力、金持った男性に女性が群がる習慣があり単身派遣者として南米に派遣された日本男児が現地妻を連れ添う事が多のは喜ぶべきであろうか?。, 1862-1868 Bartolome Mitre 1868—1874 Domingo Sarmiento, 1874—1880 Nicolas Avellanedaこの三名の大統領の在任期間18年中にアルゼンチンは国家体制が整理され軍隊、移民促進、公立の学校教育普及、税務省、法務省、公務員、貨幣統一、国道、橋、鉄道、郵便局、銀行業務、などが確立し経済が活性化した。, 欧州移民:1870年代になるとアルゼンチンの人口は約200万人に達した移民また自然の増加で増えたが広大な土地に人を住ませ生産を増やせねば強力な国家を創るためには、一層人口を増やし、生産性を高める必要があると認識した政府は特使をイタリア、フランス、などお欧州に派遣して移民呼び寄せの政策を実施した。その結果1920年までになんと約5百万人のヨ-ロッパ移民が押しよせて来た。政府はこのような移民を受け入れるために一時の一時の宿舎と入植する土地まで与え開拓者には2年間の資金まで安い金利で貸し付けの便宜を図った。, • 1880年より1914年までの期間に6百万人が入国し同じ期間に2百万人が出国したとの記録がある、1869年の国内総人口が180万人より780万人に増加した。欧州では小作または使用人であった人々がこちらにくれば住食衣まで満たされその上に自分の土地が買えたので沢山の白人がおしよせた。しかし、初め彼は異国の地にて先に入植した者達また政府の役人にだまされながらも真面目に働き教会を建て個々の会館まで立て同房者達で助け合って生活した。やがて蒸気船が出現すると多量輸送が可能になり蒸気船会社は儲けるために欧州特にイタリアの住民を多量に運んだがこれでは余りにも町が空になると騒いで亜国行きの船の入港を禁止したイタリアの町もあったとこ事。そのような理由でアルゼンチンにはイタリア系の住民が一番多くその次がスペイン系となった三番目は多分アラブ系であろう、ドイツ系は約150万、ポ-ランド、アルメニア、ユダヤなどは約30万とも言われる。尚日系人は推定4万人と言われている。特にイタリア系が多いせいか美男美女が多く情熱的でまたいかなる時もジョウ-ク、笑いを忘れないのが面白い。只イタリアのマンマ(母親)が作るスパゲッ-チを週末に家族が集って食べる習慣が徐々に消えていくのは悲しい。時々胸尻が大きすぎる女性もあり私の友人に尻が大きすぎバスに乗れない、映画館に行けない(大き過ぎて腰掛けに座れない)また子供が生れた後に母乳が出すぎ絞って冷蔵庫に保管し隣の子に分けていた人もいた。亜国人の女性には胸を小さくする又は鼻を低く削る整形手術を行なう者もいる。私のギリシャ人の知人は孫が生れた時にまず鼻が自分のように大きくないことを祈ったと言っていた。, 私が知っている田舎の移民者や彼らの子孫はカトリク信者で真面目で義理がたい人が多かった。, 移民の現地での同化:ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ポ-ランド、アルメニア、ユダヤ、等、多くの民族による団体ができ世代が変わり徐々に彼らたちはお互いに混ざった。だが、歳月の流れと共に、これらの民族の混血が繰り返され徐々にアルゼンチンの民族カラ-が出来上がってきたその結果原住民はどこに消えたのか解らなくなったほどで国民の約95%がヨ-ウロッパ系白人社会になってしまった。植民地開設当初の社会では、何処も男ばかりで女性が常に不足した。これに目を付けたマフィア達はヨ-ロッパ若い女性をだましてつれてきて売春組織に送り込んだ。但し 売春宿に女性を求めて来た多くの男性は結婚相手いになる女性を探しに来た若者も多く沢山の売春婦が家庭の主婦になった。このため時の裁判官はそれまで保管していた売春婦業の記録を始末させられたとも書かれている。監獄はセメントが無い土で出来た牢屋が多くまた看守が悪く逃亡者が続出した。この時代から警察また裁判官は汚職の巣であり亜国で生きる庶民は警察の所長もしくは裁判官を友人として持つ事が不可欠と言われていた。この事は亜国で有名なMartin Fieroの本に書かれている。, 「アルゼンチン人は船から降りた人」であるとの諺があるがこの国は真にこうして欧州より押しかけてきた移住者により産業うや文化が作られた国である。メキシコ、ペルの如く植民地前の文化は無かった、ペル、ボリヴィアはアンデスの高地でスペイン兵は侵略できずまたブラジル、コロンビア、ヴェネズエラ、その他は密林でこれも侵略は不可能あった。カリブも島では逃げる余地が無かったのでみな殺されるか生き残った者は混ざった模様 カリブの国に行けば原住民との混血の顔がほとんど見えず奴隷で来たアフリカ系と白人の混血が多い。 尚亜国のアンデスは太平洋側とは違い雨が無くアンデスは裸の山であり住民はほとんど居なかった。原住民は隠れる場所のない草原で皮のテントの下で生活する狩猟民族であったので鉄砲を持ち馬に乗ったスペイン軍に簡単に皆殺しにされた。, 尚 初めに来たスペインの兵士には女性がいなかったので沢山の原住民の女性が奥さん兼使用人としても利用されたため思ったより多くの原住民の血が亜国人の中に入っているとも言われる(近年DNA検査したブエノス大学の学者によれば約15%程度の住民との学説もある)。, • Roca将軍(1880-1886)による土地の開放戦争は亜国南部の原住民を殺し土地を略奪者達に開放した。, しかしながら政治は約400家族の大地主により支配され安定し国内の教育、市民登録、ブエノス市を首都にした、開発銀行開設、軍隊再編成、紙幣統一した。, ブエノス市及びこの近郊のみに貿易港がありここで輸入また輸出商品の関税をとりブエノス市が権力者達の巣になった国道また鉄道もブエノス市から国内に延びており国内の都市どうしの道はいまでも少ない。ブエノス市及びブエノス市近郊が経済と政治の中心である。, 政治経済危機:1930—1943年は暗黒時代となり街にはストライキ、カッパライ、窃盗、乞食があふれ政権を握る軍隊は革命に明け暮れた1930年の一年間に約10回の軍事革命があったが9月6日の軍事革命による軍事政権Uruburu将軍が率いる軍事政権は国会を閉鎖し戒厳令をしき一時的に政情は安定させた。但しこの次期にドイツまたソ連より逃亡してきた多くの無政府党(TORTSKYST)共産党達の政治活動により国内に強力な社会主義思想団体が結成され動きだした。そのため多くの首謀者達は暗殺、拷問されたが共産党の思想の種はこの次期に蒔かれた。Patagonia reberdeや El Forestalなど外国でもこの時代の亜国における有名な歴史の本が発行されている。, 尚この時代に欧州では社会主義の機運が芽生えこれを恐れた多くの貴族達が南北アメリカに逃げ出した時代でアルゼンチンにも多くの貴族が渡って来た。このような貴族達によってアルゼンチンに美術、音楽の文化が啓発され、また、生まれてきたと言われる。, この時期にブエノス市近郊の工業化が始まり国内の農業移民者(移住者)がブエノス近郊に移動しだした、国内に入植した多くの移住者には大地主が土地はあたえずに家僕として奴隷同様に使用したところも多かったので工業化が始まると多くの移住者がブエノス市の近郊におしよせ工場で働いた。牛の屠殺場、加工工場、靴、家具、農機具の工場などができ工場の労働者が増加し近郊社会が形成されだした。欧州からの移民者を奴隷の代わりとして扱う経営者も多くあったとの記録ある。今でも田舎の州政府には行政、司法、議会も自分の親類友人で抑え10年から20年間も昔の殿様のごとく治めているところもある。, ペロンによる社会主義国家:1943—1955年に大統領を務めたペロン政権時の大統領夫人エバ ペロンはそれまで支配してきた亜国の特権階級より資金を集め国内に散らばっていた多くの移住者また混血児の子供達に学校と病院を設立し労働者を優遇する政策を実施した。こような経緯で亜国は中産階級の多い国になったとも言える。同時に国内外の企業家に抑えられていた公共サ-ビス事業の国営化を全面的に実施した。また女性の投票権を認め労務法も発布し労働者を優遇した。この時代は第二次世界戦争があった次期で亜国産の牛肉穀物が良く売れそれまで貯まっていた国外債務は全て支払った。, またペロンにより国営化された公共サ-ビス業の分野において強力な労働組合も出現した。, 1958年にFrondizi大統領は国外からの投資を促進する外資法を発布し米国企業よりの投資を導た。特に化学、鉄鋼、電気、家電などに約5億ドルが投資された。, 地主と企業:このような社会構造の変革によって今まで力を持っていた国内の大農場主に変わってこれら工業の企業家達の政治力が強くなった。, 但しFrondiziも自由経済を押す米国と、ペロン政権以来力をつけた労働組合のストライキ、そして大農寄りの保守党などの板ばさみになった。軍隊内部も一枚岩ではなく、青党と赤党に分かれ競いだしたが伝統的な大地主と仲の良い軍人部が革命政権を立ててOngania将軍が軍事革命にて大統領に就任した。, その後1983年12月10日のAlfonsin大統領が率いる民主政権が誕生するまでは民政と軍政の繰り返しであった。, 民族融合:人数が特別に多かったイタリア、スペイン系は別にしてその他の民族団体は1950年ごろまで他民族との結婚はできるかぎり避けてきたが徐々に同化し1960年代から違和感が無くなって来たように私は感じる。同時に個々の民族が母国より持ってきた先祖より受け継いできた良き生活習慣も薄れまたうしなわれていった。戦前に亜国に来ていた日本人達は日本学校、日本人会に集まりここで知り合った男女が連れ合って非日系人との結婚は非常に少なかったこのためこの時代の日系人はお互いに強く結ばれていた。このような状況はドイツ人、ユダヤ人などの民族も同じであった彼らは教会が社交の場となり教会を基礎に社会が形成されていた。, この風習が今でも生きているのはパラグアイのドイツ人によるメノニタ-である彼らはキリスト教の教えに従いキリストのメモリア-を簡素化してメノニタ-たる集団を結成していまだに他民族とは混ざらずドイツ語だけでお金の要らない独自の社会を形成し生活しているのに関心する。メノニッタは今でも暴力を否定し勤労を旨とし金が通用しない社会主義の自治体を形成している。この部落のお年寄りの村を一度見せていただいたが本当にうらやましく思った。, 私の持論なるも亜国に長く住み世代が変わるごとに人間が現地化してくる。