日本の国土の総面積は377,972㎡です。日本は北海道、本州、四国、九州、沖縄と別れた島国国家です。日本に住んでいると他の国の面積なんてあまり気になりませんが、一体度の国が大きくて日本の何倍くらいの大きさがあるのかランキング表を作成してみました。 5,110kmと東西に非常に長く、また世界最多の島嶼を抱える国家(島国)である。 Copyright - Indonesialove, 2020 All Rights Reserved. ジャカルタ(人口1,017万人:2015年,インドネシア政府統計) 4 民族. パナソニック、オムロン、ブリヂストンをはじめとした日系企業が現地に子会社・あるいは合弁などの形態で、多数進出している。, 独立後、政府は主要産業を国有化し、保護政策の下で工業を発展させてきた。1989年には、戦略的対応が必要な産業として製鉄、航空機製造、銃器製造などを指定し、戦略産業を手掛ける行政組織として戦略産業管理庁(Badan Pengelora Industri Strategis)を発足させている。, 2019年時点、インドネシアには115の国営企業があり、クラカタウ・スチール(製鉄)、マンディリ銀行など17社がインドネシア証券取引所に株式を上場している。分野ごとに持ち株会社を設けるなど効率化を図っているが、一方で雇用維持など政府の意向が優先されることも多い[51]。, かつてはに、華人系企業との癒着や、スハルト大統領ら政府高官の親族によるファミリービジネス等が社会問題化し、1996年には国民車「ティモール」の販売を巡ってWTOを舞台とする国際問題にまで発展した。しかし、1997年のアジア通貨危機の発生により、経済は混乱状態に陥り、スハルト大統領は退陣に至った。その後、政府はIMFとの合意によって国営企業の民営化など一連の経済改革を実施したが、失業者の増大や貧富の差の拡大が社会問題となっている。, 労働者の生活水準を向上させるため、月額式の最低賃金制度が施行されており、2015年からはインフレ率と経済成長率に基づく計算式が導入され、年8%程度上がり、タイ王国を超える水準となっている。これに対して、労働組合側は賃上げが不十分、日系を含む企業側は人件費の上昇が国際競争力を低下させると主張し、労使双方に不満がある[52]。, なお、イスラム教徒が多数を占める国であるため、従業員からメッカ巡礼の希望が出た場合、企業はメッカ巡礼休暇として、最長3カ月の休暇を出すことが法で規定されている[53]。, ただ、改革と好調な個人消費により、GDP成長率は、2003年から2007年まで、4%〜6%前後で推移した。2008年には、欧米の経済危機による輸出の伸び悩みや国際的な金融危機の影響等があったものの、6.1%を維持。さらに2009年は、政府の金融安定化策・景気刺激策や堅調な国内消費から、世界的にも比較的安定した成長を維持し、4.5%の成長を達成。名目GDP(国内総生産)は2001年の約1,600億ドルから、2009年には3.3倍の約5393億ドルまで急拡大した。今ではG20の一角をなすまでになっており、同じASEAN諸国のベトナムとフィリピンと同様にNEXT11の一角を占め、更にベトナムと共にVISTAの一角を担うなど経済の期待は非常に大きい。, ただし、2011年より経常収支が赤字となる状況が続いており、従来から続く財政赤字とともに双子の赤字の状態にある[54][55]。, このような中、日系企業の進出は拡大している[56]が、投資環境の面で抱える問題は少なくない。世界銀行の「Doing Business 2011」でも、ビジネス環境は183国中121位に順位づけられており、これはASEANの中でもとくに悪いランキングである[57]。具体的には、道路、鉄道、通信などのハードインフラの整備が遅れていることのほか、ソフトインフラとも言うべき法律面での問題が挙げられる。裁判所や行政機関の判断については、予測可能性が低く、透明性も欠如しており、これがビジネスの大きな阻害要因になっていると繰り返し指摘されている[58]。 インドネシア共和国(インドネシアきょうわこく、インドネシア語: Republik Indonesia )、通称インドネシアは、東南アジア南部に位置する共和制 国家。 首都はジャワ島に位置するジャカルタ首都特別州。. なお、県・市には、行政区としての郡(Kecamatan)とその下には区(Kelurahan)が置かれる。なお、都市以外の地域には村(Desa)が置かれているが、これは区の担う行政機能に代わり、地縁的・慣習的なコミュニティであり、行政区ではない。, スハルト政権の崩壊後、世界で最も地方分権化が進んだ国の1つに数えられている。しかし、逆に言えば中央政府の力が弱く、地方政府が環境破壊を進める政策を実施していても、中央政府には、これを止める力がない[35]。, 世界で最も多くの島を持つ国であり、その数は1万3466にのぼる[2]。島の数は人工衛星の調査により算出されたもので、かつては1万8,110とも言われていたが、再調査の結果、2013年に現在の個数が明らかになった[2][36]。, 当地を含む周辺では、ユーラシアプレートやオーストラリアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートなどがせめぎあっており、環太平洋火山帯(環太平洋造山帯)の一部を構成している。そのため国内に火山が多く、活火山が129ある[37]。スマトラ島北部にあるカルデラ湖のトバ湖を形成したトバ火山は、有史前に破局噴火を引き起こしたほか、クラカタウ大噴火に代表されるように古くから住民を脅かすと共に土壌の肥沃化に役立ってきた。火山噴火によって過去300年間に15万人の死者を出しており、この数は世界最多とされる。スマトラ島のクリンチ火山が最高峰(3805m)である。スメル山はジャワ島の最高峰(3676m)で、世界で最も活動している火山の一つである。, また、地震も多く、2004年のスマトラ島沖地震、及び2006年のジャワ島中部地震は甚大な被害を与えた。スマトラ島とジャワ島は、約60,000年前は陸続きであったが、11,000年前の大噴火があり、スンダ海峡ができて両島は分離した[38]。これらの島々の全てが北回帰線と南回帰線の間に位置しており、熱帯気候である[39]。, 国土を「林業地区」(国有林)と「その他の地区」に区分している。大気中の二酸化炭素を吸収する役割を担う森林は、適切な利用・管理により地球温暖化防止に役立つ[41]。, IMFによると、2018年のGDPは1兆225億ドルであり、世界第16位である。一方、一人当たりのGDPは3,871ドルであり、世界平均の約34%である[1]。世界銀行が公表した資料によると、2017年に1日1.9ドル未満(2011年基準の米ドル購買平価ベース)で暮らす貧困層は全人口の約5.71%(都市部:約5.61% 農村部:約5.82%)であり、約1500万人いる。また3.2ドル未満の場合は約27.25%(都市部:約25.29% 農村部:約29.61%)であり、5.5ドル未満の場合は約58.66%(都市部:約53.21% 農村部:約65.24%)であった[42]。, 基本的に農業国である。1960年代に稲作の生産力増強に力が入れられ、植民地期からの品種改良事業も強化された。改良品種IR8のような高収量品種は他にもつくられ、農村に普及し栽培された。このような「緑の改革」の結果、1984年にはコメの自給が達成された。しかし、1980年代後半には「緑の改革」熱も冷めてゆき、同年代の末にはコメの輸入が増加するに至った[43]。 インドネシア共和国(インドネシアきょうわこく、インドネシア語: Republik Indonesia)、通称インドネシアは、東南アジア南部に位置する共和制国家。首都はジャワ島に位置するジャカルタ首都特別州。, 5,110kmと東西に非常に長く、また世界最多の島嶼を抱える国家(島国)である。赤道にまたがる1万3,466もの大小の島により構成される[2]。国の公用語はインドネシア語である。人口は2億6,400万人を超える世界第4位の規模であり、また世界最大のムスリム人口を有する[3]国家としても知られている。, 島嶼国家であるため、その広大な領域に対して陸上の国境線で面しているのは、ティモール島における東ティモール、カリマンタン島(ボルネオ島)におけるマレーシア、ニューギニア島におけるパプアニューギニアの3国だけである。, 海を隔てて近接している国家は、パラオ、インド(アンダマン・ニコバル諸島)、フィリピン、シンガポール、オーストラリアである。, 東南アジア諸国連合(ASEAN)の盟主とされ、ASEAN本部が首都ジャカルタにある[4]。そのため、2009年以降、アメリカ、中国など50か国あまりのASEAN大使がジャカルタに常駐しており、日本も2011年5月26日にジャカルタにASEAN日本政府代表部を開設し、大使を常駐させている。東南アジアから唯一、G20に参加している[5]。, 正式名称は Republik Indonesia (インドネシア語: レプブリク・インドネシア)、略称は RI(インドネシア語: エール・イー)。, 公式の英語表記はRepublic of Indonesia、略称は Indonesia ([ˌɪndoʊˈniːziə] または [ˌɪndəˈniːʒə])。, 日本語表記はインドネシア共和国、略称はインドネシア。漢字表記は印度尼西亜、略称は尼。, 国名インドネシア(Indonesia)のネシア(nesia)は諸島を意味する接尾辞。ギリシャ語で島を意味するネソス (nesos) の複数形ネシオイ (nesioi) に由来する。オランダ領東インド時代の1920年代に定着した。, インドネシアの国旗は上部に赤、下部に白の2色で構成された長方形で、縦と横の比率が2:3である。モナコ公国の国旗と類似しているが、こちらは縦横比が4:5と異なる。ポーランド国旗とも似ているが、赤と白の配置が上下逆である。, 国章は、「ガルーダ・パンチャシラ」と呼ばれる。ガルーダはインド神話に登場する伝説上の鳥で[6]、ヴィシュヌ神の乗り物と言われる。鷹のような図柄である。尾の付け根の羽毛は19枚、首の羽毛は45枚で、尾の羽毛は8枚、翼の羽毛は左右それぞれに17枚ずつあり、独立宣言をした1945年8月17日の数字を表している[7]。, 先史時代は、様々な出土品から石器時代と金属器時代の2つに大きく分けることができる。, 人類が使用する色々の道具を石器で作っていた時代である。なお当時は、石器のみではなく、竹や木からの利器や器具、道具が作られていた。この石器時代をさらに旧石器時代、中石器時代、新石器時代、巨大石器時代の4つに分けることができる[8]。, 後にインドネシアとなる地域に住んでいたマレー系の人々は、紀元前1世紀頃から来航するインド商人の影響を受けてヒンドゥー教文化を取り入れ、5世紀頃から王国を建国していった。諸王国はインドと中国をつなぐ中継貿易の拠点として栄え、シュリーヴィジャヤ王国、シャイレーンドラ朝 、古マタラム王国、クディリ王国、シンガサリ王国、マジャパヒト王国などの大国が興亡した。12世紀以降はムスリム商人がもたらしたイスラム教が広まり、人々のイスラム化が進んだ。, 大航海時代の16世紀になると、香辛料貿易の利を求めてヨーロッパのポルトガル、イギリス、オランダが相次いで来航し、17世紀にはバタヴィア(ジャカルタ)を本拠地としたオランダ東インド会社による覇権が確立された。, 東インド会社により搾取され続けていたインドネシアであったが、オランダはインドネシアの民衆が結束しないよう、320種以上あった種族語をまとめた共通語を作ることを禁じた[9]。また、一切の集会や路上で3人以上が立ち話することも禁止され、その禁止を破ると「反乱罪」で処罰された[9]。オランダは一部の現地人をキリスト教に改宗させ優遇することで彼らに間接統治させたり、搾取をする経済の流通は華僑にさせていた[9]。, オランダ人は18世紀のマタラム王国の分割支配によりジャワ島、19世紀のアチェ戦争によりスマトラ島のほとんどを支配するようになる。この結果、1799年にオランダ東インド会社が解散され、1800年にはポルトガル領東ティモールを除く東インド諸島の全てがオランダ領東インドとなり、ほぼ現在のインドネシアの領域全体がオランダ本国政府の直接統治下に入った。, ただし、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は1795年にフランス革命戦争でフランス軍に占領されて滅亡。バタヴィア共和国(1795年-1806年)、ホラント王国(1806年-1810年)と政体を変遷した。インドネシアは、1811年から1815年のネーデルラント連合王国建国まで英国領であった。, 1819年、イギリスのトーマス・ラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目し、ジョホール王国の内紛に乗じてイギリス東インド会社の勢力下に獲得したことにオランダが反発し、1824年、イギリス・オランダ両国が英蘭協約を締結。オランダ領東インドの領域が確定した。, 日本は南進論の影響もあり、1925年には田邊宗英らの発起の三ツ引商事などがスラバヤへ進出した[10]。, オランダによる過酷な植民地支配下で、20世紀初頭には東インド諸島の住民による民族意識が芽生えた。ジャワ島では、1908年5月20日にブディ・ウトモが結成され、植民地政府と協調しつつ、原住民の地位向上を図る活動に取り組んだ。設立日である5月20日は「民族覚醒の日」と定められている。, 1910年代にはイスラームを紐帯とするサレカット・イスラームが東インドで大規模な大衆動員に成功し、1920年代にはインドネシア共産党が労働運動を通じて植民地政府と鋭く対立した。この地の民族主義運動が最高潮を迎えるのは、1927年のスカルノによるインドネシア国民党の結成と、1928年の「青年の誓い」である。, インドネシア国民党の運動は民族の独立(ムルデカ)を掲げ、「青年の誓い」では唯一の祖国・インドネシア、唯一の民族・インドネシア民族、唯一の言語・インドネシア語が高らかに宣言された。しかし、インドネシア共産党は1927年末から1928年にかけて反乱を起こしたことで政府により弾圧され、スカルノやハッタが主導する民族主義運動も、オランダの植民地政府によって非合法化された。スカルノらの民族主義運動家はオランダにより逮捕され、拷問を受けた末に長く流刑生活を送ることになり、以後の民族主義運動は冬の時代を迎えることになった。, 1939年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。翌年、オランダ本国はナチス・ドイツに占領された(オランダにおける戦い (1940年))。アジアでは、日中戦争激化に伴い英米は日本に対して厳しい態度で臨むようになり、オランダ植民地政府もいわゆる対日「ABCD包囲網」に加わった。1941年2月初め、日本は東南アジア地域を占領地とした場合を想定して、軍政を研究し始めた[11]。陸軍参謀本部第一部の中に研究班が設けられ、南方占領地行政に関する研究が行われた[11]。3月末、「南方作戦に於ける占領地統治要綱案」を始めとする一連の軍政要綱案が作成され、この研究をもとに同年11月20日付けの大本営政府連絡会議で、「南方占領地行政実施要綱」が策定された[12]。この「実施要綱」の基本は、「占領地に対しては差し当たり軍政を実施し、治安の恢復、重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保に資す」ことに置かれていた。そして、「国防資源取得と占領軍の現地自活の為、民生に及ぼさざる得ざる重圧は之を忍ばしめ、宣撫上の要求は右目的に反せざる限度に止(とど)むるものとす」とされていた[12]。したがって独立運動に対しては「皇軍に対する信倚(しんい)観念を助長せしむる如く指導し、其の独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす」とした[12]。これが「東亜の解放」「英米の支配からの解放」をスローガンに、「大東亜共栄圏」の実現を主張した日本の本心でもあった。続く11月26日には、東南アジア占領地域についての陸海軍の担当地域の取り決めである「占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定」が定められ、蘭印地域のうち、スマトラ・ジャワ地域は陸軍担当、それ以外の地域については海軍担当とされた[12]。, 日本時間の1941年12月8日午前2時15分(真珠湾攻撃の約1時間前)、日本軍は英領マレー半島のコタバルに上陸し(マレー作戦)、太平洋戦争が開戦した[13]。緒戦の南方作戦は日本軍の圧勝であり、翌1942年1月11日には今村均陸軍中将を司令官とする、日本陸軍第16軍の隷下部隊がタラカン島へ上陸し、蘭印作戦(H作戦)を開始。続く2月14日にはスマトラ島パレンバンに日本陸軍空挺部隊が降下して同地の油田地帯・製油所と飛行場を制圧。上述の「重要国防資源」たる南方大油田を掌握し、太平洋戦争の開戦目的を達成した。3月1日にはジャワ島に上陸、同月9 - 10日には蘭印の中枢であるバタビア(現:ジャカルタ)を占領し作戦は終了した[14]。オランダ側を降伏させ上陸した日本軍をジャワ島の人々はジュンポール(万歳、一番よい)と最大限の歓迎で迎えた[9]。, インドネシアにおける日本の軍政については、ジャワ島を3つに分ける省制度を廃止したほかは基本的にオランダ時代の統治機構を踏襲した[15]。州長官に日本人を配置し、オランダ時代の王侯領には自治を認め、ジャカルタは特別市として州なみの扱いとした[16]。軍政の実務は日本人の行政官が担い、州以下のレベルには地方行政はインドネシア人が担当した[16]。同時に日本海軍はボルネオの油田を、日本陸軍はスマトラの油田を保有した[17]。そして日本の統治は、オランダ植民地政府により軟禁され、流刑地にあったスカルノを救出して日本に協力させ、この国民的指導者を前面に立て実施された[18]。スカルノは日本に対して懐疑心を抱いていなかったわけではなかったが、開戦前に受けたインドネシア独立に対するオランダの強硬な態度に鑑み、オランダの善意に期待できない以上、日本に賭けて見ようと考えたのであった[18]。, 教育制度に関して日本は、オランダが長年行ってきた愚民化政策を取りやめ、現地の人々に高等教育を施し、官吏養成学校、師範学校、農林学校、商業学校、工業学校、医科大学、商船学校などを次々開設して、短期間に10万人以上の現地人エリートを養成した[9]。, 1943年中盤以降、日本はアジア・太平洋地域における戦局悪化の趨勢を受けてジャワ、スマトラ、バリの現地住民の武装化を決定し、募集したインドネシア人青年層に高度の軍事教練を施した[19]。それらの青年層を中心に、ジャワでは司令官以下の全将兵がインドネシア人からなる郷土防衛義勇軍(ペタ、PETA)が発足した。郷土防衛義勇軍は義勇軍と士官学校を合併したような機関で、38,000名の将校が養成され、兵補と警察隊も編成された[9]。このような日本軍政期に軍事教練を経験した青年層の多数は、後の独立戦争期に結成される正規、非正規の軍事組織で、中心的な役割を果たすことになった[19]。, インパール作戦の失敗によって、ビルマ方面の戦況が悪化すると、日本は1944年9月3日には将来の独立を認容する「小磯声明」を発表。さらに1945年3月に東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されるはずであったが、8月15日に日本が降伏したことによって[20]、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなった。, しかし、1945年8月15日に日本がオランダを含む連合国軍に降伏し、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同17日、ジャカルタのプガンサアン・ティムール通り56番地で独立を宣言した(独立宣言文の日付は皇紀を用いている)。しかし、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダと独立戦争を戦うことを余儀なくされた。インドネシア人の側は、外交交渉を通じて独立を獲得しようとする外交派と、オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取ろうとする闘争派との主導権争いにより、必ずしも足並みは揃っていなかったが、戦前の峻烈な搾取を排除し独立を目指す人々の戦意は高かった。, 独立宣言後に発足した正規軍だけでなく、各地でインドネシア人の各勢力が独自の非正規の軍事組織を結成し、日本の連合国軍への降伏後に多数の経験豊かな日本の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加して武装化した[9]。彼らは連合国軍に対する降伏を潔しとしない日本軍人の一部で、インドネシア側に武器や弾薬を提供した[9]。これらの銃器の他にも、刀剣、竹槍、棍棒、毒矢などを調達し、農村まで撤退してのゲリラ戦や、都市部での治安を悪化させるなど様々な抵抗戦によって反撃した。この独立戦争には、スカルノやハッタら民族独立主義者の理念に共感し、軍籍を離脱した一部の日本人3,000人(軍人と軍属)も加わって最前列に立ってオランダと戦い(残留日本兵)、その結果1,000人が命を落とした。しかしながら、インドネシアに数百年来住む華僑(中国人)の大部分はオランダ側に加担しインドネシア軍に銃を向けた[9]。, 他方で政府は第三国(イギリスやオーストラリア、アメリカ合衆国)などに外交使節団を派遣して独立を国際的にアピールし、また、発足したばかりの国際連合にも仲介団の派遣を依頼して、外交的な勝利に向けても尽力した。結果として、1947年8月1日に国際連合安全保障理事会で停戦および平和的手段による紛争解決が提示された。, 独立戦争は4年間続き、オランダに対する国際的な非難は高まっていった。最終的に、共産化を警戒するアメリカの圧力によって、オランダは独立を認めざるを得なくなった。, こうした武力闘争と外交努力の結果、1949年12月のオランダ-インドネシア円卓会議(英語版)(通称、ハーグ円卓会議)で、オランダから無条件で独立承認を得ることに成功し、オランダ統治時代の資産を継承した。これによって国際法上、正式に独立が承認された。, しかし、この資産には60億ギルダーという膨大な対外債務(うちオランダ向け債務20億ギルダーについては、オランダが債務免除に同意した)も含まれており、財政的な苦境に立たされることとなる。その解決のために円卓会議の取り決めを一方的に破棄、外国資産の強制収容を行うなど強攻策をとり、さらには国連から脱退するなどスカルノ政権崩壊まで国際的な孤立を深めていくこととなる。, 現在でも8月17日を独立記念日としており、ジャカルタを中心に街中に国旗を掲揚して様々なイベントを開催し、祝賀ムードに包まれることが恒例となっている。, オランダからの独立後、憲法(1950年憲法)を制定し、議会制民主主義の導入を試みた。1955年に初の議会総選挙を実施、1956年3月20日、第2次アリ・サストロアミジョヨ内閣が成立した。国民党、マシュミ、NUの3政党連立内閣であって、インドネシア社会党(PSI)、インドネシア共産党は入閣していない。この内閣は5カ年計画を立てた。その長期計画は、西イリアン帰属闘争、地方自治体設置、地方国民議会議員選挙実施、労働者に対する労働環境改善、国家予算の収支バランスの調整、植民地経済から国民の利益に基づく国民経済への移行により、国家財政の健全化を図ることなどである。[21], しかし、民族的にも宗教的にもイデオロギー的にも多様で、各派の利害を調整することは難しく、議会制は機能しなかった。また、1950年代後半に地方で中央政府に公然と反旗を翻す大規模な反乱が発生し(ダルル・イスラム運動(英語版)、セカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨの反乱、カハル・ムザカル(英語版)の反乱、プルメスタの反乱(英語版))、国家の分裂の危機に直面した。, この時期、1950年憲法の下で権限を制約されていたスカルノ大統領は、国家の危機を克服するため、1959年7月5日、大統領布告によって1950年憲法を停止し、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。ほぼ同時期に国会を解散して、以後の議員を任命制とし、政党の活動も大きく制限した。スカルノによる「指導される民主主義」体制の発足である。この構想は激しい抵抗を受け、中部・北・南スマトラ、南カリマンタン・北スラウェシのように国内は分裂した。ついに、スカルノは全土に対し、戒厳令を出した[22]。, スカルノは、政治勢力として台頭しつつあった国軍を牽制するためにインドネシア共産党に接近し、国軍との反目を利用しながら、国政における自身の主導権を維持しようとした。この時期、盛んにスカルノが喧伝した「ナサコム(NASAKOM)」は、「ナショナリズム(Nasionalisme)、宗教(Agama)、共産主義(Komunisme)」の各勢力が一致団結して国難に対処しようというスローガンだった。1961年12月、オランダ植民地のイリアンジャヤに「西イリアン解放作戦」を決行して占領。1963年5月にインドネシアに併合されると、反政府勢力(自由パプア運動やen:National Committee for West Papua)によるパプア紛争(1963年–現在)が勃発した。, スカルノの「指導される民主主義」は、1965年の9月30日事件によって終わりを告げた。インドネシア国軍と共産党の権力闘争が引き金となって発生したこの事件は、スカルノからスハルトへの権力委譲と、インドネシア共産党の崩壊という帰結を招いた(これ以後、インドネシアでは今日に至るまで、共産党は非合法化されている)。, 1968年3月に正式に大統領に就任したスハルトは、スカルノの急進的なナショナリズム路線を修正し、西側諸国との関係を修復。スカルノ時代と対比させ、自身の政権を「新体制 (Orde Baru)」と呼んだ。スハルトはスカルノと同様に、あるいはそれ以上に独裁的な権力を行使して国家建設を進め、以後30年に及ぶ長期政権を担った。, その間の強引な開発政策は開発独裁と批判されつつも、インフラストラクチャーの充実や工業化などにより一定の経済発展を達成することに成功した。, その一方で、東ティモール、アチェ、イリアンジャヤなどの独立運動に対しては厳しい弾圧を加えた。, 1997年のアジア通貨危機に端を発するインドネシア経済混乱のなか、1998年5月にジャカルタ暴動(英語版)が勃発し、スハルト政権は崩壊した。, スハルト政権末期の副大統領だったユスフ・ハビビが大統領に就任し、民主化を要求する急進派の機先を制する形で、民主化・分権化の諸案を実行した。スハルト時代に政権を支えたゴルカル、スハルト体制下で存続を許された2つの野党(インドネシア民主党、開発統一党(英語版))以外の政党の結成も自由化され、1999年6月、総選挙が実施され、民主化の時代を迎えた。, その結果、同年10月、最大のイスラーム系団体ナフダトゥル・ウラマーの元議長、アブドゥルラフマン・ワヒド(国民覚醒党)が新大統領(第4代)に就任した。メガワティ・スカルノプトリは副大統領に選ばれた。しかし、2001年7月、ワヒド政権は議会の信任を失って解任された。, その後2004年4月に同国初の直接選挙で選ばれた第6代スシロ・バンバン・ユドヨノが2009年に60%の得票を得て再選され、2014年までの大統領の任にあった。, 2014年7月の選挙で当選した闘争民主党のジョコ・ウィドドが第7代大統領に就任した。