私の見解ですが、事故が起きたときの天皇賞秋のサイレンススズカの今までのパフォーマンスを見る限りですが、後ろの馬、たとえハーツ、ディープでも届かないと思います。よって、
お礼通知メールが深夜に来ても構わない、という方、宜しくお願いいたします。
第50回(2009年) ドリームジャーニー 第19回(1978年) エリモジョージ 勝負処で行っても突き放される、ルドルフ、ディープが後方で喘いでいる? テレビでは何とか見れますが、その骨折のシーンを生で見てから、
サイレンススズカは、左前脚の膝に見える部分、手根骨を粉砕骨折していた。 直後、再起不能の診断が下され、安楽死の処置がとられた。 そんな大けがだったにもかかわらず、故障発生時、サイレンススズカは何度となくバランスを崩しながらも最後まで立ち続け、武を背中に背負い続けた。
なおもその晩のことを尋ねると、「その話はもういいですよ」と急に笑顔を引っ込めた。聞かれたことにはプロとして最低限答えるが、これ以上は立ち入らないで欲しいという意思表示に思えた。 サイレンススズカはどんな相手でもあの競馬が出来たのか? 第01回(1960年) ホマレーヒロ ※私の生活の都合により、お礼が深夜になってしまうかも知れません。
類稀なスピードで宝塚、毎日王冠まで?連勝、全部逃げ切り? こんな自分は精神的に弱いのでしょうか?
国際競走指定後: 第38回(1997年) マーベラスサンデー
昨年12chの番組で往年の名馬の3番目ぐらいだったと思います。 何レース目かは正確には覚えていないのですが(7か8Rぐらいだったように思います)レース後、ゴール付近にトラックがやってきて、目隠しの幕を張り何か作業をしていました。 第55回(2014年) ゴールドシップ
第23回(1982年) モンテプリンス 別に安楽死させる必要無くないですか?
3着 首差届かずハーツクライ
競馬では、しばしば屈腱炎、まれに骨折が発生する場合があると思うのですが、なぜ馬はこれ以上にひどい怪我をすると、死んでしまったり安楽死をさせてしまうのでしょうか。サイレンススズカが安楽死させられた理由がいまいちわからないので、ぜひ教えてください。, また回答します。
櫻井翔 松本潤 二宮和也 相葉雅紀 大野智 アラフェス. 私もサイレンススズカが凄く好きだったので本当に当時は残念でした、ニュース速報で放送される位でしたからね・・・泣きました。, 回答ありがとうございました。私はゲームをやっていてサイレンススズカを知ったのですが、このようなことになっていたのはつい最近知りました。こういう強いアイドルホースがいなくなるのは非常に残念です。
サイレンススズカをどう考えるか?(唐突ですが) お願いします。, 競争馬が骨折すると、安楽死にするらしいですが、なぜ治療しないんでしょうか?たとえ、走れなくても、治療して、生かせてあげればと思うのですが…。, あなたを助けてくれる人がここにいる 二度と見たくないシーンです。
無知なので分からないのですが、何故、骨折=安楽死なのですか?
サイレンススズカがもし骨折してなかったら天皇賞はどうなってたでしょうか?
でも結局途中で倒れて動けなくなり痛そうでした
それともどちらも選びませんか?
第44回(2003年) ヒシミラクル サイレンススズカ引退後【沈黙の日曜日】 上記でも簡単に説明しましたが、サイレンススズカは故障により安楽死という最悪な結果になってしまいました。 その当時の内容を細かく説明します。 馬の場合はあの体を四本足でしかもあんなに細い足で支えていますから一本でも折れると体重を支えきれないんです、ですからヒビが入った位ならまだしも折れたりすると安楽死をさせるしかなくなったりするのです。
「泥酔したの、あんときが生まれて初めてだったんじゃないかな。夢であって欲しいな、って」 ここで言う強い相手とは世代を超えています、だから比較は想像するしかありません。
第13回(1972年) ショウフウミドリ 第56回(2015年) ラブリーデイ
第20回(1979年) サクラショウリ あなたも誰かを助けることができる 第28回(1987年) スズパレード 我が儘を申して、すみません…。, 回答します。
競馬をやる資格、もしくは競馬に向かないのでしょうか?, 安楽死についてのレポートを書いています。日本では安楽死は法的に認められていませんが、実際日本の人々はどう思っているのかわかりません。安楽死についてどうおもいますか?賛成、反対、および簡単な理由をおしえてください!, 今、安楽死について調べています。
第04回(1963年) リユウフオーレル 第32回(1991年) メジロライアン 今回紹介するのは、他馬の追随を許さない大逃げと、最後まで衰えない末脚があったサイレンススズカです。, とにかく速い事が使命であり宿命であり、競馬に於いて逃げて勝つのが1番強い勝ち方であるとも言われています。, 自身の体に備わったサラブレッドの人知を超えたスピードを武器に、ただひたすらスタートからゴールまでを先頭で走る続けた快速馬が存在していました。, 何かに怯えて逃げていたわけではなく、自分のスピードの限界に挑戦していた馬こそが『サイレンススズカ』です。, そして、1997年2月1日の京都競馬場でデビューしたサイレンススズカの単勝オッズは1.3倍と圧倒的なものでデビューします。, しかし、サイレンススズカはすぐに馬群に取り付き、 最後のコーナーでは3番手まで進出しますが、さすがにこれには勝てませんでした。, 最後のダービートライアルのプリンシパルステークスに出走したサイレンススズカだが、今までとは一変した作戦に打って出ました。, その結果、サイレンススズカはひどく折り合いでもまれ、サイレンススズカは9着に敗れました。, その後は、距離適性を考えて天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップと出走するが6着、15着と負けました。, 大外からスンナリハナに立つとスピードに任せて進んで、1000m通過が57.8の明らかなハイペースでした。, 5歳の時にようやく息を入れることを覚え、そのころあたりから大逃げをしながら最後をまとめられるようになりました。, 様々な意見が存在しており、後続を大きく突き放して大差の圧勝を飾った金鯱賞と、エルコンドルパサー、グラスワンダーとの3強対決で完勝した毎日王冠がベストレース候補として挙がることが多いようですが、個人的には『小倉大賞典』を上げたいと思います。, 4歳となってバレンタインS、中山記念と2連勝していたサイレンススズカですが、中山記念では掛かり気味に逃げた上に直線で内にササるといったように、まだ粗削りな走りが目立ちました。, しかし、この小倉大賞典では鞍上の武豊騎手が直線までほぼ何もせずに、さらに直線ムチを使わずに軽く追っただけで後続を突き放して圧勝した逃げの完成形がみえました。, 上記でも簡単に説明しましたが、サイレンススズカは故障により安楽死という最悪な結果になってしまいました。, 1998年11月1日(日)東京競馬場で第118回天皇賞(秋)(G1)が開催されました。, 1000mを57.4のハイペースではあるが、もはやこの馬にハイペースなど存在しませんでした。, これがサイレンススズカペースなので、先頭からシンガリまではもはやとんでもない差になっていました。, しかし、軽快に気分良く走っていたサイレンススズカが大欅を過ぎた時に悲劇がおきました。, そのまま外に行ったサイレンススズカだが、鞍上の武豊を馬上から落とすことはしませんでした。, 競馬ファンに与えた鮮烈な印象が強い伝説の逃げ馬のサイレンススズカですが、最悪な終わり方をしてしまいます。, 数ある距離別部門の中で、当該距離でのGI勝利がない競走馬の1位は本馬が唯一であったとも言えるでしょう。, 今後もサイレンススズカのような、誰よりも早く走る馬が出てくる事を楽しみにしたいと思います。, 今回は、伝説の三冠馬でもありナリタブライアンの競走馬人生を振り返ってみます。今から20年以上前に伝説になったナリタブライアンです。そんな伝説馬の魅力を現代の競馬ファンにもわかりやすく説明します。, 本記事では日本史上最強馬と競馬ファンから言われているシンボリルドルフについて紹介します。かつて無敗でクラシック三冠も獲得する偉業を成し遂げた事もあるシンボリドルフの歴史や競走成績、名勝負についてお話します。, 今回は、外国産馬で97年から2000年ま活躍したグラスワンダーについて説明します。当時の競馬界で一躍有名になったグラスワンダーですが、故障による苦悩や外国産馬の理由で様々なドラマがあります。そんなグラスワンダーの過去を振り返って説明します。, リスグラシューは2019年に行われた有馬記念で1番人気のアーモンドアイを抑えて勝利したことで記憶に残っている方も多いでしょう。本記事では、そんなリスグラシューがどの様な馬だったのか、競走成績を交えて紹介していきます。, 今回はジャスタウェイの残した伝説について紹介します。ジャスタウェイは最強の中距離馬として現在でも、語り継がれる程の最強馬です。そんなジャスタウェイの過去の歴史を振り返っていきます。, 日本の競馬界で、現在も伝説が語られているメジロマックイーンですが、当時のレーススタイルや名勝負はどんなものだったのでしょうか。過去に振り返り、詳しくご紹介します。, 2019有馬記念でアーモンドアイを完敗させたリスグラシュー!経歴や競走成績などを徹底紹介. 第59回(2018年) ミッキーロケット 結果は『左前脚の手根骨粉砕骨折』これがサイレンススズカに下った症状だった。 結果は安楽死で、生きる事は許されませんでした。 速さの代償と言うには余りにも残酷すぎる結末です。 まとめ. そのレース自体もよく見てなかったので、何があったのか詳細をご存じのかたがいらっしゃいましたら教えて下さい。 安楽死の方法. テンポイントも骨折しましたが、治療され、でもその傷から別の病気を発症し死に至った…と知りました。
WRXなんか買ったら破産しませんかね…笑, バイデンが大統領になるの日本が終わる。。ってみんないってますがなんでおわるんですか?, 嵐大野智がファンよりもシングルマザーを選んだ理由は何ですか? 4月24日、皐月賞を見るために東京競馬場へ行きました。 第34回(1993年) メジロマックイーン 第39回(1998年) サイレンススズカ ただその行動と私に対して報告してくれた内容に違いがあ... パズドラについて質問です。炭治郎2体目と、無惨2体目と、煉獄1体目どれがいいですかね?やっぱり持ってるキャラによりますか?, パズドラで、炭治郎テンプレを作りたいんですけど、何をどう組めばいいのか分からないので、誰か組んでいただきです。よろしくお願いします。, パズドラ初心者です。 たとえば動けなくなった馬を運ぶために麻酔で眠らせるだけとか。 JavaScriptが無効です。ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてください。JavaScriptを有効にするには, サイレンススズカってなんで安楽死させたんですか? それを批判する訳ではなくて、ただの疑問なのです。
第60回(2019年) リスグラシュー 第46回(2005年) スイープトウショウ 主に筋弛緩剤などの薬を用います。出来るだけ馬への苦痛を与えずに旅立ってもらおうって目的です。 安楽死となる原因 ・骨折 ・脱臼 ・靭帯損傷 ・内臓疾患. サイレンススズカ(英: Silence Suzuka、香港表記:無聲鈴鹿、1994年5月1日 - 1998年11月1日)は日本の競走馬。, 1997年に中央競馬(JRA)でデビュー。デビュー戦となった新馬戦から素質の片鱗を表したが、2戦目の弥生賞で大敗を喫して以降は不安定な走りを続けた。しかし、この年の最終戦となった香港国際カップにおいて武豊と初コンビを組むと、大逃げを打つ戦法に活路を見出す。翌1998年に本格化し、初戦のバレンタインステークスから毎日王冠までGIの宝塚記念と重賞5勝を含む6連勝を果たしたが、最大目標であった天皇賞(秋)においてレース中に左手根骨粉砕骨折を発症、予後不良と診断され安楽死となった。主戦騎手は上村洋行→河内洋→武豊。宝塚記念のみ南井克巳が騎乗している。, 1993年、サイレンススズカの母・ワキアは初年度産駒のワキアオブスズカが牝馬だったということもあり、繋養する稲原牧場の「今度こそ牡馬を」という期待からバイアモンとの種付けが行われたが、ワキアは受胎しなかった[1]。そこで稲原牧場は、次の発情がきたらシンジケートの1株を持っているトニービンとの交配を考え、トニービンが繋養されている社台スタリオンステーション(以下、社台SS)へ向かったものの、その頃のトニービンはうなぎのぼりで評価が上がっている時だったため、種付け予定に空きがなかった[1]。稲原牧場関係者は頭を悩ませたが、見かねた社台SSのスタッフからサンデーサイレンスなら今日にでも交配が可能であることを伝えられ[1][† 1]、「サンデーサイレンスならそう悲観することもないか」ということで牧場関係者は同意し、ワキアはその日のうちにサンデーサイレンスとの交配が行われ、一度で受胎した[1][† 2]。, 1994年5月1日、北海道沙流郡平取町の稲原牧場にて誕生[3]。ワキアにとっては二度目のお産ということと産まれた仔馬が比較的小柄だったこともあってワキアのお産は安産であり、仔馬は産まれてから約30分後に懸命に四肢を踏ん張って立ち上がった[3]。しかし、稲原牧場社長の稲原一美は鹿毛のワキアに青鹿毛のサンデーサイレンスを付けたにも関わらず栗毛の仔馬が生まれ、さらに普通の仔馬よりもひと回り小柄だったため、両親にも似ていないとすればこの仔馬はそう期待できないかもしれない、という不安を抱いたが、それを別にすれば父や母よりも一層きれいな毛色には仔馬らしからぬ品格が備わっていたといい、立った時のバランスも素晴らしかったため欠点らしい欠点は見当たらなかったという[3]。, 稲原牧場の稲原昌幸は生まれたときのサイレンススズカについて「小さくて、華奢で、可愛くて」と振り返るものの、当時のサンデーサイレンス産駒の評価はフジキセキを代表として「走る馬といえば黒い馬」というのが通り相場であり、明るい栗毛として生まれたサイレンススズカは「黒い馬」という条件からかけ離れていたため、不安いっぱいの第一印象であった[4]。産まれて一週間も経っていなかった頃の本馬を見たという後の管理調教師・橋田満は「均整の取れたいい馬でしたよ。でも、これは誰でもそうですけど、その時点でどれくらい走るかなんてわかるはずがありませんし、ましてや、その後のサイレンススズカのように走るかなんて、とても想像することすらできませんでしたね」と振り返っている[3]。, サイレンススズカは誕生前からワキアの初子であったワキアオブスズカと同じく、永井啓弐がオーナーとなることがほぼ決まっていた[5]。永井は生後1ヶ月の本馬と初めて対面し、その時の第一声は「ああ、これはいいねえ…」というものだった[5]。当時は「サンデーの子は黒鹿毛か青鹿毛が走り、それ以外の毛色の馬は走らない」[5][† 3]との噂について、永井は「私は案外、栗毛が好きでね。大物は出なかったけど、結構、栗毛の持ち馬は走っているんです。だから栗毛に対する抵抗感は全然なくて、噂話も全く気になりませんでしたね。そんなことより、「ああ、栗毛がきれいでよかったなあ」「可愛いな」と思っただけでした」と述べている[5]。, 2歳の10月に二風谷の二風谷軽種馬育成センター[† 4]に移動して育成調教を開始[6]。育成を担当した若林幹夫は本馬を一目見たときに「こんなに小さくて競走馬になれるのかな」と不安を抱いたが[7]、馴致を始めて背中に跨り走らせるようになると、若林はサイレンススズカの他馬とのスピードの違い、また馬と馬の間を割って追い抜くトレーニングを課しても一回でクリアしてしまった本馬の能力に驚かされたという[7]。冬に雪が深く積もっている所へ敢えて馬を浸からせて行うトレーニングにおいても、サイレンススズカはお腹のあたりまで雪に埋まっていても平気で進もうとしていたため、これで二風谷のスタッフの注目を集め[8]、若林は「本当にすごい馬だな」と感じたという[7]。育成調教で高い能力を示したことに加え、3歳時の4月に行われた皐月賞で同じく栗毛のサンデーサイレンス産駒であるイシノサンデーが優勝したことで、誕生当時一部で噂されていた「栗毛のサンデーサイレンス産駒は走らない」という風評が払拭されたため、現地での評価はさらに上がっていった[9]。, 3歳の11月20日に二風谷から栗東トレーニングセンターの橋田厩舎へ移動し、翌21日に橋田厩舎へ到着[10]。厩務を担当することとなった加茂力は、入厩当時の本馬について「誰が見たって体は小さいし、厩のなかではビッショリ汗をかいている」と不安を抱いた[10]が、新馬戦で鞍上を務めることとなった上村洋行が調教で初めて跨った際に、「ものすごいインパクトがありました。乗り味にしても持っている雰囲気にしても、過去、3歳馬でそんな動きをする馬はいませんでしたから、『これは間違いなく大きいところを取れるな』と確信しましたし、相当な期待を抱きました」と振り返る程に強い印象を与えた[10]。1月5日に初めて時計を出した際には、栗東の坂路コース(800メートル)を52秒3という極めて優秀なタイムを出して周囲を驚かせ、1月24日に準オープン馬のアドマイヤラピス[† 5]と追い切りを行った際には、馬なりのままでアドマイヤラピスに0秒5先着、6ハロン78秒0という時計を出し、周囲からの目を引き付けたと同時に競馬専門紙・スポーツ紙のトラックマンの間で一気に話題となった[10]。こうした事実から、橋田は登録こそしなかったもののすでに一勝を上げている馬によって行われる500万下条件の特別競走にいきなり出走させること考えていたという[10]。, 1997年2月1日、京都競馬場での新馬戦(芝1600メートル)で上村を鞍上にデビュー。デビュー前の調教での動きが評判となったことで単勝オッズは1.3倍での一番人気に支持された[11]。スタートから先頭に立つと後続との差を徐々に広げていき、向こう正面に入るとさらに加速し直線に入ると上村がターフビジョンを確認する余裕を見せ、2着のパルスビート(後に重賞2着3回)に7馬身差をつけて圧勝した[10]。勝ちタイムの1分35秒2は当日の分割レースの勝ち時計とは2秒以上の差があるという驚異的なものだった[10]。鞍上の上村も「間違いなく勝てるだろうけど、どういう強い勝ち方をしてくれるのか、期待はその点だけでした」と振り返っている[10]。京都競馬場でレースを観戦していた競馬評論家や専門誌の記者からは「今年のダービーはこの馬でしょうがない」という声も上がり[10]、パルスピードに騎乗していた松永幹夫は「今日は相手が悪すぎました」とコメントし[12]、5着のプレミアートに騎乗していた武豊は「皐月賞もダービーも全部持っていかれる。痛い馬を逃したと思った」といい[13][14]、レース後には周囲にもそう喧伝したという[15]。この時武は後ろからサイレンススズカの走りを見て、「体は小さいけど、すごくダイナミックな走り方をする。素晴らしいフォームだな、と」感じたという[15]。, 新馬戦後にサイレンススズカはソエ[† 6]が出たことで調教の強度を緩めなければならなくなったが、陣営の「なんとしても皐月賞に間に合わせたい」という意気込みから、橋田は3月2日に中山競馬場で行われる皐月賞トライアル・弥生賞にサイレンススズカを出走させることを表明した[17]。今回のレースはサイレンススズカにとって長距離輸送、2000メートルの距離のレースが初めてであるという不安要素があったものの、陣営は「すべて素質だけで克服できる」と踏んでの出走であった[18]。出走メンバーには前年の朝日杯3歳ステークス3着馬のエアガッツ、この年の皐月賞・東京優駿を制するサニーブライアン、武豊が騎乗するランニングゲイルが登録され、当日の単勝オッズでは1番人気にエアガッツが支持されたが、サイレンススズカはデビュー2戦目でありながらこれに次ぐ2番人気に支持された[18]。, ところが、ファンファーレが鳴り各馬がゲートに収まっていく中、サイレンススズカは突然ゲートの下に潜り込み、鞍上の上村を振り落としてゲートの外へ出てしまった[17]。中山競馬場のスタンドからはどよめきが起こり[17]、振り落とされた上村は足を負傷したものの[19]、サイレンススズカを他の騎手に渡したくないという思いからレースでの騎乗を決意し[† 7]、サイレンススズカは馬体検査が行われたところ馬体に異常が見られなかったため出走取消とはならなかったが、大外枠に移されての発送となった[17]。再スタートが切られる直前ゲート内で再びサイレンススズカの動きは激しくなり、そのタイミングでゲートが開くとサイレンススズカはゲート内で立ち上がりかけたことでタイミングが合わず、もがくようにして飛び出したものの今度は大きく左にヨレてしまったため、先頭馬から約10馬身近く離された大出遅れを喫した[17]。それでも1コーナーで馬群に取りつき、外々を回って前方へ徐々に進出していくと、4コーナーでは先頭集団に並びかけようとした[20]。しかし最後の直線で力尽き、勝ち馬のランニングゲイルから1秒5離された8着に終わり、皐月賞の優先出走権獲得に失敗した[17][19]。レース後に上村はゲートをくぐってしまったことについて「普段は大人しいし、ゲートをくぐる素振りを見せたことは初めて。やっぱりサンデーの子なのかな。能力のある馬だけに、もたいなかった」と振り返り[19]、橋田は「今はスピードが勝ちすぎているが、筋肉の柔らかさからくる瞬発力に非凡なものがある。将来は相当なところで活躍できる」とサイレンススズカの現状を分析したコメントをした[17]。, レース前にゲートをくぐったことを受け、サイレンススズカにはゲートの再試験と3月23日まで20日間の出走停止処分が下された[21][22]。サイレンススズカがゲートをくぐってしまったことについては、「サンデーサイレンスの気性の悪さが出た[† 8]」、「まだ馬が若く、精神的に大人になっていない」といった憶測が飛び交った[17]。橋田はなぜゲートをくぐってしまったのかその原因についてはよくわからないとしつつも、ゲート入りまで厩務員の加茂がついており、「その厩務員がいなくなっちゃったから寂しくなって出ちゃったんじゃないかと思うんですが…」と推測しており、加茂も橋田の推測を認めている[17]。前走の新馬戦では1番枠での発走であり、加茂によるとこの時はサイレンススズカ以外の全馬がゲートに収まるまで加茂もゲート内で待機し、出走馬全馬の厩務員がゲートを離れた瞬間にスタートが切られていたが、弥生賞では真ん中よりの5枠に入ったこと、さらにスタンド前からの発走だったことが原因だったと述べているが、「まさかゲートを潜るとは思わなかった」と振り返っている[17]。この日は稲原一美と若林幹夫も北海道から中山競馬場に訪れていたが、サイレンススズカがレース前とレース本番で見せた態を目の当たりにした両名は口をそろえて「もう競馬なんて見たくない」と言うほど大きなショックを受けた[23]。弥生賞後のゲート練習で、橋田はサイレンススズカをゲートの中に入れ、一緒にゲートに入った他馬がゲートを出てもサイレンススズカをゲート内にとどまらせるという方法をとり、サイレンススズカもゲート内で暴れずに待ち続ける忍耐力を見せ、練習を始めてから3週目に行われたゲート試験をクリアして東京優駿(日本ダービー)を目指すこととなった[23][19]。, 陣営は仕切り直しの一戦として500万下の条件戦(阪神競馬場、芝2000メートル戦)に出走、サイレンススズカが出走することが明らかになると当初出走予定だった有力馬が相次いで回避し[24]、12頭立ての出走メンバーとなった中で単勝では1.2倍の支持を受けた[20]。前走のような気性の激しさは現れずに好スタートを切って1コーナー手前で先頭に立つと[25]、道中は2、3馬身差を保ち、直線に入って上村が1、2発鞭を入れると後続との差をさらに引き離し、残り100メートル地点では上村が腰を挙げる余裕を見せ、新馬戦と同じ2着に7馬身差をつけての圧勝を収めた[20]。2勝目を挙げたものの、東京優駿に出走するための収得賞金を満たせていなかったため、橋田は同レースのトライアル競走であり、本番と同じ東京競馬場の2400mで施行される青葉賞への出走を目指す[26]。しかし、レース1週間前の日曜日の調教後にサイレンススズカの左前脚の球節が腫れて熱を持ち、検査の結果球節炎を患っていることが判明[26][25]。症状は極めて軽いものだったため翌日に症状は治まったものの、橋田は青葉賞を回避してその後の状態を見て出走ローテーションを再編成することを決定し、最終的に青葉賞の翌週土曜日に行われるトライアル競走・プリンシパルステークスに出走させることを決定した[26][22]。, プリンシパルステークスでは弥生賞で対戦したランニングゲイル、エアガッツと再び顔を合わせ、当日は1番人気ランニングゲイル、2番人気にサイレンススズカ、3番人気エアガッツという人気となった[26]。レース前、橋田は東京優駿を見据えて上村に「抑えて行けるなら控える競馬をしてくれ」と指示を出し、6枠11番からの発想となった上村・サイレンススズカは好スタートを切ると先頭に立ったカイシュウホマレに次ぐ2番手につけた[26]。向こう正面に入っても上村との折り合いを保ち続け、3,4コーナーを回ってマチカネフクキタルが並びかけてきたが、これを待って上村が外へ追い出すと残り400メートル地点で先頭に立った[26]。大外からはランニングゲイルが追い込みを見せて3頭の叩き合いとなったが、マチカネフクキタルをクビ差しのいで勝利を収め、東京優駿の優先出走権を獲得した[27]。, 迎えた東京優駿ではメジロブライト、ランニングゲイル、シルクジャスティスに次ぐ4番人気(単勝8.6倍)に支持された[28]。またこのレースでは「ダービーの大歓声に興奮しないように」という配慮から、緑色のメンコを着用して出走することとなった[28]。レース前、橋田は上村に前走と同様に前半を抑えて行ってほしいと指示を出した[28]。しかし、スタートが切られるとサイレンススズカは前方へ行きたがる素振りを見せながら内側へ切れ込んでいき、サニーブライアン、フジヤマビザンに次ぐ3番手につけて向こう正面へ入っていった[28]。第3コーナーに入って内から先頭へ抜け出そうとしたものの前が開かずに抜け出せず、残り150メートル地点で後ろから来た馬群に飲み込まれ、優勝したサニーブライアンとは1秒1離された9着に敗れた[29]。レース後、橋田は「ホントにチグハグな競馬になってしまった。馬がいこうというときに前がつかえたり、なんかややっこしいことになっちゃって全然スムーズに進まなかった。まったくサイレンススズカの良さを出せずに終わっちゃってね。失敗でした、抑えて行く作戦が」と振り返った[28]。上村は敗因について「ダービーまで押せ押せできた影響でしょうか。あるいは、あまりにも馬にいろいろなことを求めすぎた影響なのかわかりませんが、ダービーの追い切り後、とうとう馬が精神的にキレてしまったんです」と語り、前へ行きたがって行きたがってしまい、3コーナーまで折り合いを欠いたことを原因とした[28][29]。上村は後に、ダービーにおいて前方へつける作戦で行かせた場合は馬も自分も楽だったかもしれないと推測しているが、この場合でも勝てたとは思っていないといい、仮に作戦通りに逃げた場合の勝ち馬はサニーブライアンではなくシルクジャスティスが勝ったであろうと推測している[28]。, ダービーから4日後の6月5日にサイレンススズカは栗東トレーニングセンター近くの栗東ホース倶楽部へ放牧に出され、6月28日に二風谷軽種馬育成センターへ移動して疲労を取った後、7月17日に函館競馬場へ移動して調教を再開した[30]。8月24日に栗東に帰厩し、橋田は秋の最大目標を天皇賞(秋)に定めた。橋田はサイレンススズカのスピード能力を生かそうと今後は中距離のレースに出走させることを永井に提案し[31]、永井もこれに賛成した[30]。サイレンススズカの秋の初戦には天皇賞の前哨戦として距離が同じ2000メートルで行われる菊花賞トライアル・神戸新聞杯に決定し、そしてこの神戸新聞杯から陣営は中距離路線でサイレンススズカを出走させるにあたり、無理に抑えるようなことはせず、馬の気持ちに任せて好きなように走らせることを決定した[30]。, 9月14日の神戸新聞杯では小雨が降りしきる天候ではあったものの、馬場状態は「良」という中で行われ[30]、単勝オッズは1番人気に支持された[32]。サイレンススズカは好スタートを切ると先頭に立って1コーナーを回り、2コーナーからは11秒台のラップを刻んでいき、前半1000メートルを59秒3で通過し、後続とは3馬身の差をつけていた[30]。残り200メートル地点では後続に4馬身の差をつけていたが、外からマチカネフクキタルが強烈な追い込みを見せ、ゴール寸前で同馬に交わされ2着に敗れた[30]。橋田は上村の最後の油断が原因で敗れたと考えたが、これに上村は途中で勝ったと思ったが最後に内へモタれたことで敗れ、自身のミスであったことを認めた[33]。そして、この競走を最後に上村は自ら責任を取る形でサイレンススズカの主戦から降板することとなった[34]。, 神戸新聞杯後は予定通り天皇賞(秋)へ出走。前述の神戸新聞杯を最後に上村が責任を取って降板した経緯から、このレースではペース判断の良さに定評があるベテランの河内洋が鞍上を務めることとなった[35]。ところが、河内が初めて騎乗した最終追い切りにおいて、サイレンススズカは河内が必死に手綱を抑えても止められないほど掛かって[† 9]前半から暴走してしまい、最終的に併せ馬のパートナーを務めたロイヤルスズカに一度も馬体を合わせることができずにスタミナ切れしてしまうという気性の悪さを露呈してしまう[35]。上村によれば、この追い切り後に河内は「もう無理や、これ」と"ギブアップ"していたという[36]。, 天皇賞当日は一番人気に前年度の優勝馬バブルガムフェロー、二番人気に8月の札幌記念において牡馬を一蹴した前年のオークス優勝馬エアグルーヴ、三番人気に1995年の皐月賞・前年のマイルチャンピオンシップ優勝馬ジェニュインが支持され、サイレンススズカは単勝17.6倍でジェニュインに次ぐ四番人気に支持された[35]。サイレンススズカは本馬場入場時にスタンドからの歓声を浴びた途端に激しくイレ込み、河内が内ラチ沿いに誘導してなだめようとしたものの、落ち着きが収まらず満足に返し馬ができない状態でスタートを迎えることとなった[35]。スタートが切られると最初の1ハロンをゆったりと行きつつも2ハロン目から加速して先頭に立ち、2コーナーでは2,3番手につけていたバブルガムフェローに7,8馬身の差をつけた[35]。1000m通過は58秒5というハイペースでの大逃げを見せ、第3コーナー手前では後続に10馬身の差をつけた[35]。しかし直線に入ると後続勢が一気に押し寄せ、残り100メートル地点で勝ち馬のエアグルーヴとバブルガムフェローに交わされ、結果はジェニュイン、ロイヤルタッチ、グルメフロンティアに交わされての6着に敗れた[37]。レース後に河内は「最後の1ハロンは完全にばてた」と振り返ったが、上位二頭を除いてはハナ差、クビ差、ハナ差のきわどい3着争いに加わっていたことで、橋田は「6着でしたが、善戦といっていいでしょう」とコメントした[35]。, 天皇賞後は京阪杯(GⅢ、京都芝1800メートル)に出走する予定だったが、急遽12月14日に行われる香港国際カップの日本代表に選出されたため急遽予定を変更し、京阪杯の1週前に行われるマイルチャンピオンシップへ出走した[38]。この頃サイレンススズカの旋回癖を治そうと加茂は天井から畳を吊るして回れないようにしたが、これがかえってサイレンススズカにストレスを溜め込むこととなってしまい、当日のパドックでも落ち着きがない状態を見せてしまう[38]。スタートが切られると同年の桜花賞馬キョウエイマーチが先頭に立つとサイレンススズカはこれに次ぐ2番手につけ、2頭が激しい競り合いを見せたことで1000m通過は56秒5というハイペースとなった[38]。第3コーナーを回って第4コーナーに差し掛かるとサイレンススズカは靴ズレを起こして故障発生かと思わせるほど一気に後退し[39]、キョウエイマーチがレースを制したタイキシャトルに次ぐ2着に粘ったのとは対照的に、サイレンススズカはタイキシャトルから2秒9離された、生涯最低着順となる15着と大敗を喫した[38][40]。, 香港国際カップにおいて、当初陣営は前走と同様河内を鞍上に出走させようとしていたが、この日日本ではスプリンターズステークスが開催され、河内はお手馬のマサラッキが出走予定でそちらを優先したため、鞍上が空位となった[41]。すると、「ジョッキーは騎乗依頼が来るのをじっと待つしかない」と言い続けていた自身のスタイルを崩し[42]、同日開催される香港国際ボウルにおいてシンコウキングへの騎乗を予定していた武豊が自ら橋田に騎乗を直訴し、橋田も二つ返事で承諾したことで武との新コンビを組んでの出走となった[13]。永井は武が鞍上を務めることが決まったこの時の心境について、「これまでずっと競馬を見てきて、武さんが馬への当たりが一番いいから、機会があったら乗ってくれないかなあとは思っていたんです」と振り返っている[43]。, 出走メンバーにはドバイのアヌスミラビリスや地元香港のオリエンタルエクスプレスらが名を連ねたが、サイレンススズカの強敵は香港のスマッシングパンプキン、イギリスのウィキシムと予想された[43]。当日は8番人気での出走となり[39]、スタートが切られると本馬以外のメンバーに逃げ馬がいなかったことから楽に先頭に立つと、徐々に後続との差を広げていった[43][39]。1000mの通過タイムは58秒2を記録し[43][39]、3馬身の差をつけて直線に入り、残り200m地点までは粘ったものの、100m地点でオリエンタルエクスプレスとアメリカのヴァルズプリンスに交わされ、勝ち馬のヴァルズプリンスからコンマ3秒離された5着に敗れた[44][43][39]。, レース後、敗れはしたものの抑えるよりも逃げる戦法に手ごたえを得た武は橋田に対して「今日は負けたけれども、この馬には押さえない競馬が向いている」と進言し[45]、そして武はサイレンススズカとのコンビ続行を熱望した[39]。4歳時の最終的な成績は重賞の掲示板に1度載っただけの成績であったにも関わらず、境勝太郎元調教師は競馬雑誌『サラブレ』誌上で「あの馬は5歳の秋までくらいまでにはバリバリのGIホースになっていると思う。実はデビュー戦から気になっていた馬なんだ。これからがとても楽しみだね」と発言した[46][47]。橋田は常々「この馬が本当に良くなるのは5歳になってから」と言い続けてきたが、5歳となったサイレンススズカの最大目標を天皇賞(秋)に定めた[48]。, 年明け初戦、陣営は「2000メートルは長い。スピード馬ではあるが1600メートルは短く、ベストは1800メートル」という判断で同距離のレースに狙いを絞り、別定戦のため55kgで出走できるオープン特別・バレンタインステークス(東京競馬場、芝1800メートル)に決定。当日は関西を拠点とする武がオープン特別の騎乗のためだけに東上したということもあり、単勝オッズ1.5倍を記録して1番人気に支持された[49]。レース前に激しくイレ込んで暴走気味に先頭に立った結果1000メートル通過は57秒8というハイペースとなったが、3コーナーで落ち着きを取り戻して息が入り、直線でやや失速したもののゴール手前で武は手綱を抑え、2着のホーセズネックに4馬身差をつけて優勝した[49]。レース後に武は「今日は3角に入ってうまく息が入った。こういう形になると強い」と述べ、ホーセズネック鞍上の後藤浩輝は、「それにしても勝った馬はケタ違いだ」とコメントした[49]。, 続いて中3週で前走と同距離の重賞・中山記念に出走。一昨年の皐月賞優勝馬イシノサンデー、前走のAJCC勝ち馬ローゼンカバリーが出走メンバーに名を連ねたがこのレースでも1番人気に支持された[50]。スタートで先頭に立つと1000メートル通過時点では後続に10から13馬身ほどの差をつけた[50]。直線に入るとやや内側にモタれたものの、ローゼンカバリーを1馬身3/4馬身差で抑えて逃げ切って重賞初制覇を果たした[50]。しかしこのレースでは馬場のコンディションが悪く上がりは38秒9かかり、直線ではモタれたことに加えて手前を替える[† 10]ことにも苦労したため、右回りでの不器用さを露呈するレースにもなった[50]。続いて小倉競馬場の改修に伴って本馬が得意と目されていた左回りの中京競馬場での代替開催となった小倉大賞典では、トップハンデの57.5kgを背負わされたものの単勝オッズは1.2倍の圧倒的な一番人気に支持された[51][52][53]。前半1000mは57秒5を記録して逃げ、上り3ハロンは36秒4を記録して後方待機策から追い込みを見せたツルマルガイセンを3馬身差抑えて重賞を連勝[51]。勝ちタイムの1分46秒5は1991年に武が手綱を執って優勝したムービースターが記録したコースレコードをコンマ1秒更新する結果となった[51][52][53]。武は後にこのレースでの2ハロン目に記録した11秒0というラップについて「中距離戦線ではめったにお目にかかれるものではないでしょう」と振り返っている[54]。, 小倉大賞典後は中5週で金鯱賞に出走。馬体重が過去最高となる442kgを記録し[55]、重賞3勝を含む4連勝中の神戸新聞杯で敗れたマチカネフクキタル、デビュー以来着外に落ちたことがないタイキエルドラド、同条件の中京記念勝ち馬のトーヨーレインボー、6連勝中のミッドナイトベットらを抑えて単勝2.0倍で一番人気に支持された[56]。好スタートを切ると2コーナーを回る時点で2番手のテイエムオオアラシとトーヨーレインボーに4,5馬身の差をつけて前半1000mを58秒1で逃げ、後半を59秒7で上がり、2着のミッドナイトベットに1秒8の大差をつけて、1分57秒8のレコードタイムで逃げ切り勝ちを収めた[54]。この時中京競馬場では、残り800m地点ではサイレンススズカが後続に10馬身以上の差をつけていたため大歓声が起こり、最後の直線に差し掛かったところでは拍手で迎え、馬主席にいた永井も観客と一緒に拍手していたという[55]。陣営は「今は最高の状態。負けるなんて考えられない」という自信をもってレースに送り出すほどの状態に仕上げてサイレンススズカをこのレースに出走させ[55]、橋田は後に「レース内容も素晴らしく、なかなか再現しろと言われても再現できないレース」と述べている[55]。レース後に武は「本当にいい体つきになったし、一段と力をつけている。今日のサイレンススズカならどんな馬が出てきても負けないんじゃないか」[56][57]、「夢みたいな数字だけど、58秒で逃げて58秒で上がってくる競馬もできそうな気がしてきました」[54]とコメントした。, 金鯱賞後は最大目標である天皇賞(秋)を見据えて放牧に出される予定ではあったが、上半期のグランプリ・宝塚記念のファン投票で6位に支持され、レコードを連発した疲れよりも馬体の充実が際立っているということで、急遽宝塚記念へ出走することとなった[58][† 11][† 12]。しかし、主戦の武には既に年末の有馬記念までエアグルーヴへの騎乗の先約があったため今回のレースはエアグルーヴに乗らざるを得ない状況となっていた[58][† 13]。これを受けて、橋田はレース3日前の木曜日に武の代役としてサイレンススズカと同じく永井の所有馬で、出走予定の僚馬ゴーイングスズカの主戦騎手であった南井克巳を鞍上に迎えて出走させることを決定した[58][60][† 14]。この時の心境について武は「正直に言えば内心、どっちかが(出走を)辞めてくれればと。どちらもすごく好きな馬ですから、どっちにも乗りたい。でもそれは不可能だから、どちらか一頭が出てほしいと、願っていたのですが。そうそう自分の都合のいいようにはいきませんね」と振り返っており[59]、一方サイレンススズカに騎乗することとなった南井は「大方、エアグルーヴが出てくるだろうと思っていたから、別にいら立ちはなかった」と振り返っている[58]。, 当日の馬体重は金鯱賞から4kg増加した446kgと発表され、単勝では武が騎乗するエアグルーヴ、この年の春の天皇賞勝ち馬で河内洋が騎乗するメジロブライトらを抑え1番人気に支持された。ただし、本馬にとって初めてとなる2200メートル、また南井に乗り替わっている点が不安視され、単勝オッズは3倍近い数字となった[61]。レース前にメジロブライトが立ち上がって脚を引っ掛けるというアクシデントがあったものの落ち着きを失わず、外側の13番枠からスタートを切ると内側に移動してメジロドーベルの機先を制して先頭に立ち、前半1000mを58秒6で通過[58]。第3コーナー手前では後続に8馬身の差をつけたがここからステイゴールドがスパートをかけ、ここで南井がペースを落として息を入れたため残り600m地点では4馬身ほどの差に縮まったが、サイレンススズカも内で粘りこみ、ステイゴールドとエアグルーヴの猛追を凌いで逃げ切り勝ちを収め、GI初勝利を挙げた[58]。勝ちタイムの2分11秒9は前年の勝ち馬マーベラスサンデーが記録したタイムと同じであり、阪神競馬場で行われた宝塚記念においては1994年の勝ち馬ビワハヤヒデが記録した2分11秒2に次いで2番目に早い時計だった[62]。, レース後に南井は「ユタカ君が乗って4連勝してきた馬。この馬の力を出し切ることだけを考えました。あくまでも、この馬の行きたいペースで行かせることだけを心掛けました。さすがに強いメンバーで、これまでより差は縮まりましたが、道中で無理に脚を使っていない分、最後まで頑張ってくれましたね。1番人気に応えることができてホッとしています」とコメントし、橋田は南井の騎乗について「ほんとうに上手く乗ってくれました。気持ち良く走らせてくれればそれでいいと思っていましたが、彼もよく研究してくれていましたからね」と讃えた[62]。3着となったエアグルーヴ鞍上の武は「サイレンススズカが止まりませんでした」と淡々としたコメントを残した[58]。南井の45歳6か月での宝塚記念勝利は1994年にビワハヤヒデで制した岡部幸雄が記録した45歳2か月に次ぐ年長勝利記録となり、また翌年を以って現役を引退した南井にとってはこれが現役最後のGI勝利となった[62]。, 秋の初戦には、目標である天皇賞(秋)へのステップとして毎日王冠に出走することとなった[63]。鞍上に武が復帰したが、NHKマイルカップ優勝馬エルコンドルパサーと前年の朝日杯3歳ステークス優勝馬グラスワンダーの無敗の外国産4歳馬2頭が出走するメンバー構成となり、この2頭とサイレンススズカを交えた「3強対決」の様相を呈した[64]。毎日王冠は別定戦のため、負担重量はグラスワンダーが55kg、エルコンドルパサーが57kg、サイレンススズカは過去最高となる59kgを背負っての出走となったが、レース前に武は「強い4歳馬が2頭いますが、サイレンススズカのペースで行くだけです」と余裕のあるコメントをし、橋田はファンに向けて「とにかく競馬場に来てください。きっと素晴らしいレースを堪能できるでしょう」とコメントした[63]。, 10月11日の毎日王冠当日は、GII競走ながら東京競馬場には13万3461人の観衆が詰めかけた[63][64]。当日サイレンススズカは生涯最高体重となる452kgを記録、単勝オッズは1.4倍で1番人気に支持され、2番人気にはエルコンドルパサー・グラスワンダーいずれの主戦を務めていた的場均が騎乗を選択したグラスワンダーが推され、蛯名正義に乗り替わったエルコンドルパサーは3番人気となった[65]。スタートが切られるとサイレンススズカは前半600メートルを34秒6[65]、1000メートルを57秒7[63][66]というハイペースで飛ばし、エルコンドルパサーは2番手集団のなかでこれを追走し、グラスワンダーは中団から後方を進んだ[65]。第3,4コーナーでサイレンススズカは一度1ハロン11秒7から12秒1に落として息を入れ[63][64]、その第3コーナー過ぎからはグラスワンダーがサイレンススズカを捉えに先団へ進出したもののそこから伸びを欠く[65]。直線に入ってもサイレンススズカの逃げ脚は衰えず、これをエルコンドルパサーが追走したが、2馬身2分の1の着差をつけて逃げ切り勝ちを収めた[65]。上がり3ハロンで記録した35秒1は出走メンバー中最速[63]、エルコンドルパサーに次いで3着に入ったサンライズフラッグはエルコンドルパサーと5馬身差がついており、グラスワンダーは5着であった[65]。, 辛うじて2馬身半差の2着まで差を詰めたエルコンドルパサー鞍上の蛯名は「直線に向いてからも手応えはありましたし、十分、サイレンススズカは射程圏内だと思ったんですが、全く止まりませんでしたね。前にいったサイレンススズカにあれだけ伸びられては仕方ありません」[58]、「相手が強かった。完敗だった[67]」としたが、同馬管理調教師の二ノ宮敬宇は「勝った馬はうちの馬とは違う脚質の馬で、レースも相手の馬の流れになってしまってのもの。負けはしたけれどもいいレースをしてくれたと思った。決して落胆するようなことはなかった」と述べた[67]。的場はコメントがなく[63]、武は「後続の馬は気にせず、自分のペースを守ることに集中してレースをしました。できる限りゆっくり行くつもりでしたが、イメージ通りのレースができたと思います。レース前も落ち着いていましたし、道中もものすごくいい感じでした。ホント、楽勝でしたね。いやあ、強かったあ