ID: yNKiN2UYT8, 2018/05/21(月) 14:08:58 前述の通り、ドバイワールドカップはダート馬の世界王者決定戦とでもいうべき競走。
第05回(1988年) ローマンプリンス 第22回(2005年) メイショウボーラー 毎日王冠(GⅡ) 9着
第33回(2016年) モーニン 第06回(1989年) ベルベットグローブ 秋になり、ホクトベガはGⅢクイーンステークスへ挑戦するも2着。続くGⅡローズステークスでも3着と勝つことは出来なかったものの、GⅠエリザベス女王杯への出走権を手にする事はできた。, ローズステークスでの優先出走権を手に、ホクトベガはエリザベス女王杯へ出走。
その後はヨーロッパへ渡り、欧州の一流種牡馬たちと交配させる計画も立てられていた。
第42回(2017年) モズカッチャン
「彼女はモナリザ。その強さは永遠の秘密です。」
第36回(2011年) スノーフェアリー 第12回(1995年) ライブリマウント ゴールイン後のその姿で、ホクトベガを思い出した競馬ファンも多いのではないだろうか。, ・ホクトベガを扱っていた中野調教師がホクトベガの強さについて問われた際答えた
そんなレースで、ホクトベガは大爆走。
第09回(1984年) キョウワサンダー ID: znrjU66Eek, 2015/10/27(火) 21:46:22 第10回(1985年) リワードウイング 「ベガはベガでもホクトベガです! 命名は馬主・森滋の奥さん。冠名「ホクト」にハ行の言葉を足すというマイルールから琴座α星「ベガ(織女星)」を選んだという。濁点は気にしたら負け。
函館記念(GⅢ) 11着
途中エリザベス女王杯や有馬記念などで敗退するも、この年ダート重賞は全勝。
クイーンステークス(GⅢ) 2着
第34回(2009年) クィーンスプマンテ ID: tgoWki1eX9, 2014/11/28(金) 07:06:04
マイルチャンピオンシップ南部杯(交流競走) 1着
第20回(2003年) ゴールドアリュール 函館記念(GⅢ) 3着
ID: da79u6lLEA, https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E3%83%9B%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%99%E3%82%AC, 推奨環境:Edge, Safari, Chrome, Firefox, Opera いずれかの最新版, 『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』心に炎を灯して…主題歌「炎」から紐解く炎柱・煉獄杏寿郎の魅力とは?, 『サンモニ』関口宏「アメリカの話題はカラッとして、日本の問題はジメっとする」トランプ氏の主張には触れず?, 友達と一緒に食べたおいしいおやつ、一人で食べるとなんか違う…… 4歳の女の子の「かわいい大発見」を描いた漫画. ID: QCJOHbVOxz, 2018/05/21(月) 14:23:57 第25回(2008年) ヴァーミリアン, 第26回(2009年) サクセスブロッケン 第29回(2004年) アドマイヤグルーヴ, 第30回(2005年) スイープトウショウ この頃は成績が伸び悩んでいたため障害競走への転向も検討されており、実際に障害飛越の調教が行われてもいた。GⅠ馬なのに。
カトレア賞 1着
2009年にウオッカが記録を塗り替えるまで、牝馬の獲得賞金では歴代最高額であった。
第10回(1993年) メイショウホムラ 天皇賞(秋)(GⅠ) 16着
第24回(1999年) メジロドーベル
第07回(1982年) ビクトリアクラウン 第27回(2002年) ファインモーション 盛岡の南部杯までで、交流重賞含めダート重賞8連勝という怒涛の快進撃を見せた。
ダイオライト記念(交流GⅠ) 1着
中山記念(GⅡ) 8着
安田記念(GⅠ) 5着
第35回(2018年) ノンコノユメ 第28回(2011年) トランセンド
第18回(2001年) ノボトゥルー 結局5歳時は、オープン特別の札幌日経オープン、及びGⅢ札幌記念の2戦を制しただけで終わってしまった。
第39回(2014年) ラキシス 毎日王冠(GⅡ) 7着
ID: 06X19FxBVa, 2014/12/21(日) 13:15:20 2着のライフアサヒに5馬身差をつけての圧勝であった。
第04回(1979年) ミスカブラヤ 第11回(1994年) チアズアトム ところが、このレースにおいてホクトベガは最内を突っ切り、2分24秒9のレコードタイムで優勝。牝馬3冠が期待されていたベガに3馬身半つけての勝利であった。
・ダート路線での大活躍の一因には、一時期行われていた障害競走用の調教が功を奏したとも言われている。「障害飛越の調教を重ねるにつれて足腰が鍛えられ、よりダート向きの馬体になった」という説である。
ターコイズステークス 3着, 平安ステークス(GⅢ) 10着
ローズステークス(GⅡ) 3着
第30回(2013年) グレープブランデー 第01回(1976年) ディアマンテ フラワーカップ(GⅢ) 1着
フェブラリーステークス(GⅡ) 1着
第17回(2000年) ウイングアロー その後も、中央のGⅡフェブラリーステークス(現在はGⅠ)や、ダート王決定戦の地方GⅠ帝王賞等に出走し、サクサク勝利。
国際競走(G1)指定後: 第02回(1977年) インターグロリア 第20回(1995年) サクラキャンドル ID: QCJOHbVOxz, 2018/05/21(月) 14:21:31
第34回(2017年) ゴールドドリーム しかし、そんなホクトベガもついに天職(? 第43回(2018年) リスグラシュー その後、GⅢ中山牝馬ステークスや、GⅡ毎日王冠などに出走するもことごとく敗退。
朱竹賞 2着
第41回(2016年) クイーンズリング 第01回(1984年) ロバリアアモン !」という迷実況まで飛び出した。
第02回(1985年) アンドレアモン その後のホクトベガはまた芝レースに戻り、GⅢ福島記念で2着と好走するも、6歳時代はエンプレス杯の1勝のみで幕を閉じた。
対するベガ単勝オッズ3.7倍の2番人気だった。
第24回(2007年) サンライズバッカス 日本馬によるドバイワールドカップ制覇は、ホクトベガの死から14年後の2011年、ヴィクトワールピサが成し遂げた。
桜花賞(GⅠ) 5着
1990年3月26日、北海道浦河町の酒井牧場で誕生。 父はカナダ生まれのナグルスキー、母タケノファルコン、母の父がフィリップオブスペインという血統。全兄ホクトサンバーストと同じく、大きな馬体だった。 命名は馬主・森滋の奥さん。冠名「ホクト」にハ行の言葉を足すというマイルールから琴座α星「ベガ(織女星)」を選んだという。濁点は気にしたら負け。 1992年に、美浦の中野隆良厩舎に入厩。ガタイの良さに対して体力が全くなく、デビューは遅れに遅れる。 翌年、中山競馬場の新馬戦でデ … その後は牝馬クラシックに挑み、桜花賞に出走するも5着。次走の優駿牝馬(オークス)でも6着。同じ織女星の名を持つベガが牝馬二冠と輝きを放つ中、ホクトベガは良いとこ無しで春シーズンを終えた。
・ホクトベガの遺体は、検疫の関係で日本に持ち帰る事が出来なかった。そのため、故郷の酒井牧場にある墓には、彼女のタテガミのみが埋まっている。
2年前にメジロパーマーが障害競走から平地GⅠを勝利した事も手伝い、現在では平地競走専門の馬にも障害調教が行われる事がある。
第11回(1986年) メジロラモーヌ 浦和記念(交流GⅠ) 1着
ホクトベガはそれまでの成績が振るわなかったためか、単勝オッズ30.4倍の低人気。
初重賞として、桜花賞の前哨戦であるGⅢフラワーカップへ参戦し、見事に1着。
この結果を受け、陣営は本格的にホクトベガをダート競走へ転向させる事を決意する。, 7歳となったホクトベガは、地方GⅠ川崎記念に出走した。
「砂の女王」ホクトベガの最後のレースには絶好の舞台であった。
第14回(1989年) サンドピアリス 第40回(2015年) マリアライト ドバイワールドカップの最終コーナーで、ホクトベガは「馬場のわずかなくぼみに左前脚をとられて」転倒。
札幌日経オープン 1着
第12回(1987年) タレンティドガール 2番人気に押されたものの、10着と大敗してしまう。
群馬記念(交流競走) 1着
生涯獲得賞金は、8億8812万6000円。
父ナグルスキー母タケノファルコン母父フィリップオブスペインという血統。ナグルスキーはダートに強い馬を多く輩出している種牡馬。ホクトベガも牝馬にしては大きくて力強い馬体、深くて「スパイクみたい」と言われた蹄など、見るからにダート向きの馬体ではあった。 虚弱体質で牧場ではいじめられ、入厩してからもまともに調教できない有様でデビューは遅れ、3歳になってからようやくデビュー。あまり期待されていなかった割にはここを楽勝。一躍クラシック候補に踊り出る。 しかしながら、彼 … ベガの牝馬3冠達成なるか(当時はまだ秋華賞がなく、牝馬3冠最終戦はエリ女)が話題となっていた。
富士ステークス 6着
エンプレス杯(交流GⅡ) 1着
ID: RZhaYF/AKB, 2020/01/11(土) 02:37:22 日本のファンは、ホクトベガの勝利の知らせを今か今かと待ち望んでいた。
第23回(2006年) カネヒキリ )を発見するに至るのであった。, この年から、川崎競馬場で行われる伝統の牝馬限定重賞エンプレス杯が、中央競馬との交流重賞競走に指定され、JRA所属馬も出走が可能になった。
京王杯スプリングカップ(GⅡ) 3着
翌年の川崎記念も勝利し、ダート重賞10連勝という大記録を達成したのであった。, 1997年、ホクトベガも8歳となり、陣営はいよいよもってホクトベガを引退させる決断をした。
第22回(1997年) エリモシック ホクトベガはここに出走したのである。
エリザベス女王杯(GⅠ) 1着
第44回(2019年) ラッキーライラック, 国際競走指定前: 第15回(1990年) キョウエイタップ, 第16回(1991年) リンデンリリー 左前腕節部複雑骨折を発症し、予後不良の診断が下されてしまったのである。
しかし、ここでホクトベガを突然の不幸が襲った。
第04回(1987年) リキサンパワー 第03回(1978年) リードスワロー 雨の降りしきる不良馬場の中行われたこのレース、ホクトベガは1頭だけ全くレベルの違う走りを見せつけた。
・ホクトベガが勝利したエリザベス女王杯では、生産者の酒井公平氏は競馬場へ行かなかった。まさか勝つ事は無いだろうと思っていたためであり、その後「折角の晴れ舞台なのに、彼女には申し訳ないことをした。馬を見る目が無いことを思い知らされた。あの馬の強さを見抜くことができなかったなんて、プロのホースマン失格」と話している。
京王杯スプリングカップ(GⅡ) 5着
ID: QCJOHbVOxz, 2019/04/17(水) 16:57:55 第13回(1988年) ミヤマポピー この事故の明確な原因は、未だにわかっていない。
第19回(2002年) アグネスデジタル 第27回(2010年) エスポワールシチー 第28回(2003年) アドマイヤグルーヴ 悲願のGⅠ制覇を遂げたホクトベガだったが、次走のターコイズステークスでは、以前のクイーンステークスでも後塵を拝したユキノビジンに敗れ3着に終わった。, 古馬となったホクトベガの年明け初戦は、ダート重賞のGⅢ平安ステークス。
ホクトベガは日本の競走馬。1993年エリザベス女王杯勝ち馬。1996年JRA賞最優秀ダートホース、NARグランプリ特別表彰馬。, ダート競走において無類の強さを発揮し、牝馬でありながらダートでは並み居る牡馬をことごとく退ける圧倒的な走りを見せたことから、『砂の女王』とも呼ばれる。, 1990年3月26日、北海道浦河郡浦河町の酒井牧場で生まれる。酒井牧場の同期生産馬には、牝馬クラシック二冠馬マックスビューティの初年度産駒で、後に共に桜花賞と優駿牝馬に出走するマックスジョリーがいた。, 父・ナグルスキーと母・タケノファルコンの配合はホクトサンバースト(中央11戦2勝、地方3勝)と同じもので、牧場主の酒井公平が「素晴らしい馬体の持ち主で、若駒のころに浦河地区のコンクールで最優秀賞を受賞したこともあった」というホクトサンバーストの好馬体の再現を狙ったものだった[2]。しかし生まれた仔馬(ホクトベガ)は「兄とは全く似ていない粗野な印象の馬」で、酒井はこんなはずじゃなかったと落胆したという[2]。また生後1、2か月のホクトベガを見た調教師の中野隆良は、その印象を「牝馬にしては体がいかつい感じで、これは大きくなるという印象を持った。牧場関係者にはダート900万条件の特別くらいは勝てると言ったのを覚えている」と語っている[3]が、どちらにしても関係者の期待はさほど高いものではなかった。ホクトベガのオーナーとなった森滋は、購入理由を「理屈じゃなく一目で気に入ってしまった」と語る。ホクトベガの名前は森の妻が名付けたもので、冠名の『ホクト』にハ行の単語を組み合わせるという慣例から、こと座のα星のベガを合わせたものである[4]。, 2歳になったホクトベガは日高町のファンタストクラブで育成調教を受けるが、体は大きいものの体力が全くなく、他の馬が坂路コースを2本走るところを1本しか走ることができないという有り様だった。これを見たオーナーの森は、「この馬は競走馬にはなれないんじゃないかと思ったくらいだった」と語っている[4]。結局育成スケジュールは遅れ、3歳でのデビューはできなかったが、美浦トレーニングセンターの中野隆良厩舎へ入厩して調教を続ける中で着々と地力を付けていく。調教助手の田畑正照は「後ろ足のバネが強すぎて、乗っていて変な感じだった。1ハロン15秒程度の追い切りをする頃には、『これはモノが違う』と思った」と語っている[5]。, 明けて1993年、加藤和宏の鞍上で1月5日の4歳新馬戦(中山競馬場)に出走すると、2番人気ながらダート1200mを1分12秒5という準オープンクラス馬を凌ぐ時計を叩き出し、2着に9馬身差をつけて逃げ切り勝ちを収める。次戦となった同年1月16日の朱竹賞(中山競馬場、4歳500万円以下)では2着に敗れるが、3戦目のカトレア賞(東京競馬場、4歳500万円以下)で2勝目を挙げる。新馬戦から3戦目まではいずれもダート戦である。, ホクトベガが初めて芝コースを走ったのは、4戦目で初の重賞挑戦となったフラワーカップ(GIII)である。初めての芝コースでのレースということで2番人気だったが、直線で内から楽に抜け出して3勝目を飾る。桜花賞トライアルのフラワーカップを勝ったことでホクトベガは牝馬クラシック候補の1頭に数えられ、同じ星の名前を頂く栗東所属のベガとの対戦は『東西ベガ対決』とも呼ばれたが、桜花賞は長距離輸送で落ち込んだ馬体を戻せず、さらに阪神競馬場では不利となる大外枠だったこともあってベガの5着、優駿牝馬は道中ベガをマークし、早めに動いたものの直線で伸びきれずにまたしてもベガの6着にそれぞれ敗れた。優駿牝馬終了後に放牧に出され、帰厩後にトライアル競走のクイーンステークスとローズステークスを戦うが、それぞれユキノビジンの2着、スターバレリーナの3着に敗れた。ローズステークスの後は美浦に戻らずに栗東で調整を続けて調子は上向いていたが、この頃には既に勝ち切るだけの決め手に欠けるという評価が定着しており、エリザベス女王杯では1番人気のスターバレリーナ、牝馬三冠がかかる2番人気のベガに対し、ホクトベガは9番人気と評価を落としていた。, レース本番、ケイウーマンがスタートから飛び出して大逃げを打ち、1200m通過タイムが1分10秒2というハイペースで進む。1枠1番という最内からスタートしたホクトベガは、これまでの先行策ではなく道中は中団で折り合いをつけ、4コーナーで最内から先頭へ進出。先行するベガとノースフライトをかわして先頭に立つと、追いすがるノースフライトを上り3ハロン35秒3の時計でねじ伏せ、2分24秒9というレースレコードをマークしてエリザベス女王杯を制した。このホクトベガ陣営の作戦は、かつて中野が管理していたグリーングラスが同じ京都競馬場で行われた菊花賞を優勝した際の作戦をほぼそのまま踏襲したものであり、これが見事にはまった形となった。ベガはノースフライトの後塵を拝する3着に敗れ[6]、この時実況を担当した関西テレビ放送の馬場鉄志は「東(美浦)の一等星、北斗のベガ!ベガはベガでもホクトベガ‼︎」というフレーズを残した[7]。騎手の加藤と調教師の中野は当レース初勝利、GIは加藤がシリウスシンボリで勝った1985年の東京優駿以来、中野がクシロキングで勝った1986年の天皇賞(春)以来の勝利となった。酒井牧場にとっても当レースは初勝利であり、かつて牝馬三冠を目指したマックスビューティでも果たせなかった勝利を飾ることになった。しかし、牧場主の酒井はまさかホクトベガが勝つとは思っていなかったため、この時京都競馬場に応援に行っていなかった。このことについて酒井は後年、「せっかくの晴れ舞台なのに、彼女には申し訳ないことをした。馬を見る目がないことを思い知らされた。あの馬の強さを見抜くことができなかったなんて、プロのホースマン失格です」と語っている[2]。, 晴れてGI馬の仲間入りを果たしたホクトベガは、1993年12月18日のターコイズステークス(中山競馬場)に出走してユキノビジンの3着となり、同年の出走を終えた。, 1994年(5歳時)は札幌日経オープン、札幌記念(いずれも札幌競馬場)と連勝するが、ホクトベガにとって中央競馬のレース体系は生易しいものではなかった。古馬のGIは全て牡馬との混合戦、ハンデ戦や賞金別定戦ではGIホースであるがゆえに重い負担重量を課されて苦戦が続き、結局5歳時は9戦に出走して2勝、3着1回着外6回という、GIホースとしては物足りないものとなった[8]。この状態を見た調教師の中野は、平地GI優勝馬でありながら障害競走への転向を考え、6歳になった1995年の正月明けから実際に障害飛越の練習を開始する。ホクトベガは障害飛越がうまく、1月のアメリカジョッキークラブカップ(AJC杯、中山競馬場)を控えた中であったが調教は障害練習を中心に行われ、追い切りはレース直前に1本行われただけであった。これについて中野は「入障するプランもあるが、今回(AJC杯)は斤量が軽いので使ってみることにした」とAJC杯のレース前に語っている[9]。ところが障害転向がほぼ決まっていたAJC杯でホクトベガは先頭で直線に入ると、最後はサクラチトセオーにかわされるもののクビ差の2着に入線、結局障害レースへの転向は白紙に戻されることとなった。, ホクトベガは後にダートコースで圧倒的な強さを見せるが、この時に行われた障害飛越の練習による足腰の強化が活躍に繋がったのではないかと考える者もいたという。中野も障害練習がホクトベガの心身を共に鍛え、さらなる成長を促したのではないかと語っている[9]。さらに、2年前にメジロパーマーが史上初の「障害帰りのGI馬」となったこともあり、程度の差こそあるものの調教において障害飛越の練習を採用する厩舎が急増するきっかけにもなった。現在では、平地競走で調子を落とした馬のリズムを取り戻させるために行う手段の一つとされている。, AJC杯で復調したかと思われたホクトベガだが、AJC杯以降も5戦して勝利なしとうだつの上がらないレースが続いていた。そんな中、1995年6月13日、川崎競馬場で転機が訪れる。同年から中央と地方競馬の交流が盛んに行われるようになり、川崎競馬場伝統の牝馬限定重賞・エンプレス杯が当時としては唯一となる牝馬限定の中央・地方全国交流競走として実施されることとなった[注 1]。中野は「牝馬限定でメンバー的に楽だったこと、そして斤量が55キロとこれも楽だったこと」を理由にホクトベガを出走させることを決定する[3]。なお、このエンプレス杯には同厩舎のヒシアマゾンも出走登録していたが、こちらは後に登録を取り消している。, 初めての川崎競馬場、初めてのナイター競走、雨で水溜りができて田んぼのようになった不良馬場のコンディション、そして中野が「中央のGIホースが地方に乗り込んで、負けたらマズいというぎりぎりの切羽詰まった気持ちで行った」[3]と語るプレッシャーの中、断然の1番人気に推されたホクトベガはスタートから2番手の好位につけ、向こう正面で持ったまま先頭に立つと1頭だけ別次元のレースを展開。同年のダイオライト記念優勝馬で南関東最強牝馬と目されたアクアライデン、前年のエンプレス杯優勝馬のケーエフネプチュン、当時7連勝中で地元川崎の期待を集めるマフィン、笠松代表として安藤勝巳を鞍上に送り込んだクラシャトルといった他の出走馬を全て子供扱いにし、4コーナー立ち上がりで既に5馬身以上つけていた差をさらに広げ、終始まったくの馬なりにもかかわらず、2着のアクアライデンに3.6秒差(18馬身差。公式では大差)という観客の度肝を抜く圧巻の走りを見せつけて勝利。4着のマフィン鞍上の山崎尋美に「前のレースの馬が残っているかと思った」[10]と言わしめる圧勝劇で、地方競馬関係者に大きな衝撃を与えた。, エンプレス杯を圧勝したホクトベガは、その後函館記念(函館競馬場)、毎日王冠(東京競馬場)、天皇賞(秋)(東京競馬場)など芝コースのレースに5戦出走したが、いずれも敗れて1995年を終える。この結果を受けて陣営は翌年からの本格的なダートレースへの参戦を決め、手始めにエンプレス杯と条件が同じ川崎記念(1996年1月24日)に出走させた。, このレースは第1回ドバイワールドカップに出走予定の日本が誇るダート最強馬・ライブリマウントの壮行レースと考えられており、レースでも1番人気に推されていた。他の出走馬も「打倒ライブリマウント」を掲げてJRAからトーヨーリファール[注 2]、船橋期待のアマゾンオペラなど、中央・地方を問わず当時のダート戦線の精鋭たちが顔を揃えていた。しかし蓋を開けてみれば、3コーナーで先行するライブリマウントをかわして先頭に立ったホクトベガは他馬を全く寄せ付けず、2着・ライフアサヒ(名古屋)に1秒(5馬身)差をつける圧勝で交流競走2勝目を飾る。ホクトベガから6馬身差の3着に敗れたライブリマウントの陣営はこの結果にショックを受け、ライブリマウントの壮行レースと考えていた周囲にも動揺が広がったという。, 大差勝ちではなかったものの、エンプレス杯のパフォーマンスは再現できたと考えた陣営は、その後もダートの中央・地方交流競走に照準を定め、フェブラリーステークス(東京競馬場)、ダイオライト記念(船橋競馬場)に勝利。群馬記念(高崎競馬場)ではレースレコードも記録する。そして帝王賞(大井競馬場)で5連勝を飾るとともに、ヒシアマゾンの生涯獲得賞金額を上回り、牝馬の獲得賞金額の新記録を樹立。この時実況を担当した及川暁は、「この実況をお聞きの、大井の、そして地方競馬ファンの皆さん、私は何度でも言いましょう。…ホクトベガ、やはりお前は強かった!」と、その強さに脱帽したと言わんばかりの実況を行っている。ホクトベガのあまりの強さに出走回避が相次いで6頭立てとなったエンプレス杯で2着のスピードアイリスに8馬身差をつけて悠々と連覇を飾り、ジャパンブリーダーズカップ協会が設けた1億円ボーナスを獲得すると、秋の初戦となったマイルチャンピオンシップ南部杯(盛岡競馬場)では、場内実況を務めた井上学が「女王様とお呼び!
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