"Social Welfare Policy: A 'Flexible' Strategy?". 座標: 北緯22度10分00秒 東経113度33分00秒 / 北緯22.16667度 東経113.55000度 / 22.16667; 113.55000 (マカオ), 中華人民共和国マカオ特別行政区(ちゅうかじんみんきょうわこくマカオとくべつぎょうせいく)、通称マカオ(葡: Macau、澳門、おうもん、広東語イェール式: Oumùhn、普通話: Àomén)は、中華人民共和国の特別行政区の一つ。中国大陸南岸の珠江河口(珠江デルタ)に位置する旧ポルトガル海外領土で、現在はカジノとモータースポーツや世界遺産を中心とした世界的観光地としても知られる。, マカオは珠江の最下流域、西の河口に位置し、中華人民共和国広東省の広州からは南西に145km、香港からは南西に70km離れている。広東省の珠海市に接し、中国大陸本土南海岸に突き出たマカオ半島と、沖合の島から構成される。この島は、もともとタイパ島とコロアネ島という二つの島であったが、島の間は埋め立てられてコタイと呼ぶ地域となり、全体がひとつの島のようになっている。現在、半島部と旧タイパ島の間は三つの橋でつながれ、コタイから西に珠海市と結ぶ橋もできている。, 1999年までポルトガルの海外領土であったマカオは、中国大陸のヨーロッパ諸国の植民地の中ではもっとも古く、域内に植民地時代の遺構が数多く点在する。このため、2005年7月15日に、マカオの八つの広場と22の歴史的建造物がマカオ歴史地区という名前でユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。, 域内には多くのカジノが運営されていることから、「東洋のラスベガス」ともいわれている。歴史的建造物とカジノが、香港や中華人民共和国本土のほか、東南アジア、東アジア域内から多くの観光客を呼び込み、それに隣接しているホテルを含む観光産業が盛んである。毎年11月に市街地を使って行われるマカオグランプリは世界的に著名な自動車レースであり、この時期に多くの観光客をひきつけている。, マカオと香港間は24時間高速船が約1時間で結んでおり、ほかにもヘリコプターによる定期便が頻繁に運航される。日帰りで訪れる香港人や旅行客も多い。2018年10月23日に香港とマカオを結ぶ港珠澳大橋が完成した。, マカオという名称の由来には多数の説があり定かではないが、マカオ半島にある道教の廟、媽閣廟に由来する説が有名である。ポルトガルの船員がマカオの媽閣の前から上陸するときに地名を聞いたら、廟の名前を聞かれたと思って「媽閣」(広東語:Ma1gok3)と答えたからと伝えられている[3]。それ以外は、当地の人間は船員の言葉が理解できず、広東語の悪口「㞗」(広東語:gau1)が混ぜた「なに?」すなわち「乜㞗?」(広東語:Mat1gau1)の返事を真に受けたという説もある。, 媽閣廟は、1448年に媽祖を奉るために建設されたもので、現存し、海運、漁業の神として崇拝されている。, 澳門は、「澳」が「水が奥深く入り込んだ湾や入り江」を表し、「門」は門のようにそびえ立つ南台山と北台山、また東の大字門と西の小字門から澳門と表記された。歴史的には、蠔鏡という名が明代に記録されているのが最初で、澳門のほか濠鏡澳、濠鏡、海鏡、香山澳などの名称もあった。文語的な表現でマカオは「濠江」(普通話: Háojiāng ハオチアン、広東語: Hou4gong1 ホウゴーン)とも表記される。蓮が多いことから蓮島、蓮海などの呼称もあり、区旗のモチーフにも使われている。, 「Macau」の広東語音訳として馬交(広東語:Ma5gaau1 マーガーウ)と言う表記が用いられることもある。ポルトガル領時代の正式名称は Cidade do Nome de Deus de Macau, Não Há Outra Mais Leal(「最も忠貞なる主の名の街・マカオ」の意味)であった。, 珠江と南シナ海の境目に位置するマカオは、もともと、漁民や蛋民と呼ばれた水上居民を中心とする漁業の村であった。その後、東南アジアなどとの通商が始まると、貿易の町として栄えてきた。, 1513年に、当時世界有数の海洋大国として世界各地にその覇権を誇っていたポルトガル人が中国に初渡来し、明王朝との交易を開始した。海禁下の明が1522年に屯門島を拠点とするポルトガル船を駆逐し、広州交易を禁止した。ただしこの時期のマカオの領有権はポルトガルではなく明にあり、明がマカオに税関を設置するなど主権を有していた。, しかし、明の嘉靖年間(1522年 - 1566年)には、マカオ周辺海域での海賊の横行が甚だしく、ポルトガル艦隊総司令官のレオネル・デ・ソウザが海賊退治に協力した。1557年、その褒美としてに明からマカオへの居留が認められた。明が終焉に至る17世紀中頃までマカオを中継地としたポルトガル交易が東アジア周辺国で広がりをみせた。ポルトガル人居住者は、明代から居留のための献金などの名目で交易の一部利益を上納していた。, この頃のマカオは、日本が鎖国するまでは長崎との貿易で繁栄を極めた。その後、ポルトガルとスペインは同君連合となり、スペインの植民地マニラとの間にも貿易ルートが開かれ、これはオランダとのマカオの戦いを起こすことになる。しかし明清交替期の動乱や広東(広州)の対外開放等の影響から、アジアにおける貿易港としてのマカオは次第に衰えていった。, 居住確保を目的としたポルトガルからの継続的な献金は、アヘン戦争後の1849年(道光29年)に停止された。ポルトガル人は、清代の1851年にタイパ島、続いて1864年にコロアネ島を占拠するところとなり、1887年の中葡和好通商条約により、澳門(マカオ)はポルトガルへの正式割譲となり、ポルトガル直轄の植民地となった。, ポルトガル政府が任命した総督の統括により、居住地が線引されて2区となった。1区は清国人居住地で、もう1区にはポルトガル人をはじめとした外国人居住区が設けられ、各区長によって各区の行政が推進された。こうした行政下で、清国人および領事以外の外国人が、1906年7月に旅券または書類提示による入出国管理へ移行するなど、ポルトガル人居住区で近代的な法整備が進んだ。, その後、天然の良港に恵まれアジアにおける要衝として発展した香港とは対照的に、マカオの貿易港としての機能は低下し、その地位は全く凋落した。マカオは珠江の土砂が堆積しやすい位置にあり、大型の船舶が入港しにくくなっていたこと、当時ポルトガルの国力が低下していたことも衰退の原因に挙げられよう。, 中華民国と日本との間に1937年より起きた日中戦争においては、両国と国交を持ち中立的立場にあるポルトガル領であることから戦火とは遠い存在であった。, 1939年9月に起きた第二次世界大戦においてポルトガルは中立国となり、その後1941年12月に勃発した太平洋戦争を通じて日本とも中華民国ともイギリスとも交戦状態に入らず、ポルトガルの海外県政庁のもとで中立港として機能した。このため戦禍を逃れようとした大量の難民が中国大陸から流れ込んだ。, イギリスなど各国領事館が在したマカオは、大戦中は諜報活動の場となった。日本も1941年1月に在マカオ日本領事館を設置、蔣介石の直属機関(藍衣社)等による抗日活動と標的テロも勃発し、枢軸国の敗戦が濃厚となる1944年末には対日テロが激化した。, 1945年には福井保光駐マカオ領事が中国人の襲撃に遭い、拳銃で射殺されるという事件が起きている[4]。なおマカオ人の少数が香港防衛義勇軍 (Hong Kong Volunteer Defense Corps) のメンバーであり、香港の戦いで日本軍の捕虜となった。ポルトガル人警察官による澳門特務機関員への発砲事件などが発生するなど、緊迫した事件が相次いだ。, 1945年8月に第二次世界大戦が終結し、日本軍が中国大陸から撤退した後に、中華民国総統である蔣介石率いる中国国民党と、毛沢東率いる中国共産党の間に国共内戦が勃発した。, その後1949年には、毛沢東率いる中国共産党により、北京を首都とした中華人民共和国が成立し、中華民国に代わって中国大陸の大部分を統治するようになったものの、その後もイギリスが統治を続けた香港同様、マカオも依然としてポルトガルの統治が続いた。, なお、ポルトガルは中国共産党政府を西側陣営で早くも1950年に承認したイギリスとは異なり、第二次世界大戦後もファシズム的なエスタド・ノヴォと呼ばれる長期独裁体制が存続していたアントニオ・サラザール政権下にあったこともあり、中華人民共和国との国交は結ばないままであった。, 中華人民共和国内で文化大革命が行われていた1966年11月に、中国共産党系小学校における無許可での増築工事に対するポルトガル陸軍大佐のモタ・セルヴェイラ代理総督による制裁が行われ、この制裁に怒った住民によるデモがセナド広場などで数回にわたり行われた。当初は平和的なデモであったが、その後中国共産党系の住人によって暴動化し、12月3日には、これを鎮圧しようとしたフィゲレド警察署長指揮下のポルトガル軍警察がデモ隊に発砲したために、数人のデモ隊が死亡する惨事となった。, 事件の最中に赴任したホセ・マニュエル・デ・ソウサ・エ・ファロ・ノブレ・デ・カヴァーリョ新総督は、29日午後にマカオの経済界代表と会談し、学校建設阻止のために警察を動員したことは不適切であったことを認め、中立の調査委員会を設けて事件の解決を図ろうとした。, しかし中華人民共和国政府は、人民解放軍によるマカオへの軍事侵攻をほのめかしながら、ポルトガル政府に対して事件の謝罪と責任者の処罰、共産党系の遺族に対する慰謝料の支払い、以後の中国共産党系住民による統治参加、そして中華民国の国務機関(諜報機関)によるマカオ内での活動の停止などを要求した。, 当時のポルトガル海上帝国はポルトガル植民地戦争で国力が低下し、マカオにわずかな軍事力しか駐留させていなかった上に、同じく海外領土として中国大陸に香港を抱えていたイギリスとの英葡永久同盟も5年前にゴアなどのポルトガル領がインドから武力侵攻を受けた際に役立ってなかったため、軍事的な支援は期待できなかった。軍事対立が起きた場合全てを失うとサラザール首相は判断し[5]、総督は毛沢東の肖像画が掛けられた場所で謝罪の文書に署名させられ[6]、セルヴェイラ代理総督は追放され、要求をほぼ全面的に受け入れた。, 以後「マカオの王」「マカオの影の総督」[7]と呼ばれ、ポルトガル政府と友好的な関係を持った親中派実業家の何賢(中国語版)の影響下に入ることになり[8]、当時のアフリカのポルトガル植民地とは対照的に政情は安定した[9]。ポルトガル政府は中華民国との国交を保ち続けたにもかかわらず、国連で国際連合総会決議2758に賛成したり、その植民地であるマカオがあらゆる中華民国の活動を禁止[10][11][12]して単独で中華民国と事実上「断交」するなど中華人民共和国政府に配慮した政策をとることとなった。, オテロ・デ・カルバーリョ大尉率いる国軍左派による1974年4月25日のカーネーション革命の後にポルトガルは民主化され、当時所有していた全ての海外領土を放棄する方針を採ることになった。しかし中華人民共和国政府はマカオの主権を主張しつつ当分の間のポルトガルによる統治を希望し[13]、1976年にポルトガル政府は、マカオを「特別領」として再編成し行政上及び経済上の自治を多くの点で認めた[14]。, その後1979年に、ポルトガル政府は中華人民共和国政府との国交樹立(と中華民国との断交)を行った。第二次世界大戦後に国力が低下しており、しかも地元民による自治が進んだマカオを海外領土として統治することに興味を持たなくなったポルトガル政府は、中華人民共和国への即時移譲を望むも、中華人民共和国もまだまだ貧しいため返還は遅れ、「アジア最後のヨーロッパ植民地」と呼ばれていた[15][16][17][18]。, その後、1984年に行われたイギリスと中華人民共和国の香港返還交渉に続いて、1987年4月13日にポルトガルと中華人民共和国がマカオ返還の共同声明に調印した。, マカオの行政管理権は1999年12月20日に中華人民共和国へ返還され、マカオを特別行政区にすることになった。初代行政長官には何賢の息子である何厚鏵が就任した。, 返還後のマカオの行政長官は、選挙委員会が選んだ者を中華人民共和国の中央政府が任命する形となっている。中華人民共和国の領土の一部であり、政治的にもその下に入ることとなったが、返還後50年間は現状の保全が取り決められている。このため、現在もポルトガル語が公用語として使用されるほか、ポルトガル統治時の法律の多くがそのまま適用される。, ポルトガル語は中国語(広東語)と並ぶ公用語とされ、政府の公文書におけるポルトガル語表記や、道路表示や看板などの全ての表示にはポルトガル語と中国語の表記が義務付けられているほか、一部のカトリック系学校においてポルトガル語の授業が設けられているものの、少数のポルトガル系住人を除くほとんどのマカオ住民が日常的に使用する言語は広東語である。上述の通り、以前から中華人民共和国との結び付きが強かったため、香港に比べ若い世代を中心に普通話の理解度が高い(広州とほぼ同程度)。, 2002年に、カジノ経営権の国際入札を実施し、その結果これまで何鴻燊(スタンレー・ホー)経営の「Sociedade de Turismo e Diversões de Macau,S.A.(STDM/澳門旅遊娯楽股份有限公司)」が独占してきたギャンブルを含むカジノ産業を開放して香港系の銀河娯楽やアメリカのシェルドン・アデルソン経営のラスベガス・サンズなど多くの外国からの投資を呼び込むことに成功し、2003年には中国本土・マカオ経済連携緊密化取決めの締結で中国本土との貿易も盛んになり、2004年から2014年まで2桁の経済成長を続けて世界で最も1人当たりの国内総生産(GDP)が高い地域の一つとなり[19]、先進国水準の公共サービスや社会福祉制度も充実するようになった[20][21]。2008年からはインフレ対策や富の再分配を名目にマカオ市民への9000パタカ(約12万円)の定額給付金も2019年時点で毎年実施されてきた[22][23]。カジノに偏らない統合型リゾート(IR)も整備してAIやICTを活用したスマートシティ化も進められた[24][25]。, 南シナ海に面するマカオは、中心地となる半島部と、タイパ島とコロアネ島の間を埋め立ててつなげた島からなる。半島部は、東には珠江(パールリバー)、西には西江があり、中華人民共和国の本土の珠海経済特区と隣接している。, 1970年代以降に大規模な埋め立てが行われたため、マカオの地形は概ね平坦であるが、険しい丘が多数あり元の地形の名残をとどめている。マカオ半島はもともと島だったが、徐々に砂州が伸びてゆき、狭い地峡になり、その後の埋め立てにより狭い水路を残して大陸と一体化した(陸繋島)。, マカオは高度に構造物が密集した都市であり、耕地、放牧地はなく、実質的に農業はほとんど行われていない。このために、マカオの人々は伝統的に海に目を向けて生計を立ててきた。, かつては、半島部を澳門市、その他島嶼部を海島市とした基礎自治体により構成されていたが、2002年に両市は廃止され、全域を民政総署が管轄することとなった。, 法人的地位を持たない行政区画としては、そこにある代表的な教会堂を冠した七つの堂区 (Freguesia)、タイパ島およびコロアネ島をつなぐ埋立地であるコタイ地区、中国本土にある澳門大学並びに帰属未定の埋立地(マカオ新城区(中国語版))により構成される。, 各堂区等は以下のとおり(右の地図の番号に一致)、なお澳門大学はコタイ、コロアネ島の対岸である横琴島に位置し(2014年の澳門大学移設により中国内地からマカオ特別行政区に編入)、マカオ新城区は、マカオ半島東岸およびタイパ島北岸の埋立地である。, マカオは、温帯夏雨気候(ケッペンの気候区分: Cwa)に属し、年間の平均湿度が75% 〜 90%[26]とかなり高い。他の華南地域同様、モンスーンの影響を強く受け、夏と冬の気温差・湿度差が、大陸内部ほどではないにせよ、顕著である。年間平均気温は22.7℃[27]であり、7月が平均気温28.9℃と最も暑く、1月が平均気温14.5℃で、もっとも寒冷な月となる[26]。, マカオは中国の南岸地域に位置し、年間降雨量2120mmと多雨地帯に属する。しかし冬季はシベリア高気圧の影響を受け、比較的乾燥する。10月から11月にかけての秋季は、晴天に恵まれ、温暖で湿度も低いなど過ごしやすい季節となる。12月から3月初旬の冬季は、平均的最低気温は13℃と穏やかであるが、時折8℃を割るほど低下することもある。3月から湿度が上昇し始め、夏季は気温がかなり高くなり(しばしば、日中30℃を超える)、亜熱帯性の豪雨や時には台風に見舞われる[26]。, マカオの行政長官は、各業界団体から選出された委員からなる選挙委員会が選んだ者を、中華人民共和国の中央政府が任命する。行政長官は7〜11人からなる行政会と呼ばれる内閣を組織する。マカオの中国系住民の名望家であり、銀行家でもあった何厚鏵(エドモンド・ホー)が1999年12月20日にマカオ特別行政区初代行政長官に中華人民共和国から任命され、ポルトガル統治下で任命されたロシャ・ヴィエラ (Rocha Viera) 総督に取って代わった。, 立法機関はマカオ特別行政区立法会であり、マカオ住民の直接選挙で選ばれた12人の議員と各種職能団体(職能代表制)を通じて間接的に選出される10人の議員および行政長官が指名する7人の任命議員で成り立っている。立法会はあらゆる分野での法規定立の責任を負っている。現在のマカオには政党を名乗る政治集団が存在せず、住民は政治目的ごとに社団を組織して議員選挙に参加している(社団の一覧についてはマカオの政党を参照のこと)。, マカオでは長年、大陸法系ポルトガル法に基いた司法制度が運用されてきたが、中国返還後も継続している。返還に際して制定されたマカオ基本法は、中国中央政府が澳門特別行政府に対して自治権および一部の対外事務につき、これらを授権する旨規定された。これによりマカオは将来も「中國澳門」名義により外交的行為を行い、広汎な裁量権に基づいた地方自治は継続する。独自の法執行機関も保有している(マカオの警察)。, 三審制であり、第一審は初級法院と行政法院がマカオ域内のほぼ全域を管轄している。中級法院(控訴裁判所)は五名の裁判官、終審法院(CFA)は三名の裁判官により構成される。陪審制が規定されているが、実例はない。裁判官は選出委員会が選出し、行政長官が指名する。なお、マカオには死刑制度は存在しない。, 1991年以前、マカオはポルトガルの司法管轄区分によるものとして、リスボン地方裁判所管区の支部として運用されていた。, 2009年には香港で撤回に追い込まれた国家安全条例案と同様に国家分裂行為などの反政府活動を禁じる国家安全維持法が制定されている[29]。, 返還以来、マカオには中国人民解放軍が駐屯している(人民解放軍駐マカオ部隊)。出動したのは2017年8月、台風被害の対応が初めてである[30]。, 世界銀行の統計によると、2015年のマカオのGDPは461億ドル(約5兆円)である。一人あたりのGDPは世界屈指[31]であり(2013年はカタールを超えて世界一でもあった[32])、返還後の経済の急成長で税収も非常に潤沢となったため[20]、マカオ市民には教育費と医療費を無料化する高福祉政策が行われ[21][33]、毎年現金給付もされるようになった[22][34]。世界最大級の都市圏を目指す粤港澳大湾区構想の一部にもなっている[35]。, 域内の法定通貨は大西洋銀行および中国銀行マカオ分行(1995年より)が発券するマカオ・パタカである。しかし流通通貨の相当部分は香港ドルである。パタカの発券に際しては1香港ドル=1.03パタカ(1983年より)と香港ドルにペッグされており[36]、香港ドルは米ドルにペッグされているので、米ドルにペッグされているのと実質同等となっている。1香港ドル=1.03パタカと、パタカがわずかに価値が低いが、ほとんどの店では等価に扱われたり、流通レート以上に値上げされることがある。, なお香港ドルで支払っても釣り銭はパタカで返ってくることがある。香港ドル硬貨はマカオ内の自動販売機などでも使用が可能ではあるが、タクシーなどでは1香港ドル未満の硬貨は受け取りを拒否されることがある。逆にパタカを香港での支払いに使うことはできない。, マカオの経済はギャンブルを含む観光産業と織物や衣類、花火の生産に大きく依存しているが、多角化に努めた結果、小規模ながら玩具や造花、電子機器の製造も始まった。, 織物や衣類は輸出金額のおよそ4分の3を占めているが、GDPに占める製造業の割合は5%程度であり、GDPの40〜60%程度(さらにホテル、飲食業が5%程度)[37]、政府歳入の80%程度はギャンブルに依拠している[38]。, 2018年には3580万人を越える観光客がマカオを訪れた。最多は、約2500万人の中華人民共和国本土からの訪問客であり、香港からの観光客約630万人がこれに次ぎ、以下、台湾・韓国・日本をはじめとしたアジア各国・地域からの観光客がそれに続く[39]。世界最大のカジノ設備が集客に貢献している他に、世界遺産に登録されたマカオ歴史地区や、東西を融合した独特の食文化、カジノに隣接するブランド品の直営店など、ギャンブル以外の観光資源にも恵まれている。, 返還直前の1998年ごろには経済の暗黒面である黒社会(マフィア、ギャング)の抗争が懸念されていたが、返還後は治安はよくなった[40]。, 2002年には、カジノ経営権の国際入札を実施し、その結果これまで何鴻燊経営の「マカオ旅遊娯楽有限公司(中国語版、英語版)(Sociedade de Turismo e Diversões de Macau,S.A.