女子教育の必要性 津田 梅子(つだ うめこ、元治元年12月3日(1864年12月31日) - 昭和4年(1929年)8月16日)は、日本の教育者。日本における女子教育の先駆者と評価される。女子英學塾(のちの津田塾大学)創立者。 初名はうめ(「むめ」と書いた)で、明治35年(1902年)に漢字表記に改めて「梅子」とした。
7歳になったばかりの梅子にとって、幸運だったのはランマン夫妻に預けられたことだった。夫妻は普通親が子供に与えうるあらゆるものを梅子に与え、10年以上の長きにわたって梅子を見守り、その成長の芽を大きく育んだ。その影響の大きさは実親のそれよりはるかに勝っていた。
梅子を含む残った3人は生涯の親友となりました。, 津田梅子は、日本弁務官(大使館のようなもの)で書記をしている ぜひ10,000円札の渋沢栄一さん、1,000円札の北里柴三郎さんについても知ってみてください。, ・渋沢栄一は何した人?1万円札に選ばれた理由やその名言は? 英語教師として働きます。
「お墓参りをすると結婚できなくなる」というジンクスがあります。, 「3回お参りすれば、大丈夫になる」などの噂もあります。 アメリカにいる頃、共に留学した日本の女子留学生仲間と語り合った夢があった。日本に帰ったら自分たちの学校を作ろう。最年少の梅子の情熱が、少女たちの漠然とした夢を実現させた。1900年、梅子35歳の時、念願の女子英学塾が創立され、私立学校令に基づき正式に認可を受けた。現在の津田塾大学の前身である。 津田梅子は1864年、江戸牛込に生まれた。父親は明治初期の西洋農学者・津田仙。 津田塾大学の公式サイトには、津田梅子の生涯が紹介されている。 女性の地位向上に教育不可欠
ドラマにもちょいちょい登場する津田梅子、何をした人かご存知ですか?実は一万円札の渋沢栄一ともゆかりがあるんです。, 津田梅子は、津田塾大学の創立者として有名ですが、それだけではなかなか日本のお金の顔になることはありません。, そう、今の男女平等社会、社会というよりも女性の立場を変える根本となる女性教育を作った人なんです。, 1880年頃、日本の社会ではまだまだ女性の立場は男性とは程遠いものでした。選挙権の法律も「満20歳以上の男子」とされていた時代です。, そんな中、幼少時代をアメリカで過ごした津田梅子は、日本のこの状況はダメだと感じ再度アメリカに留学を決意。, 自分と同じように女性留学ができるようアメリカで募金を募り、その募金の利子で学生を留学させたりする「日本婦人米国奨学金」を設立しました。, そして、後に津田塾大学となる女子英学塾を開き、「男性と協同して対等に力を発揮できる女性の育成」に力を注ぎ、今の日本に貢献しました。, 男女平等社会と書きましたが、津田梅子自身は、女性にも男性と同等の地位を認めさせるのを目指したわけではありません。, 帰国後の日本で、同じ留学生の男性はある程度の地位で働いていたのを横目に、仕事が無かった津田梅子。素晴らしい才能を持っていたにも関わらず、こういった状況に疑問を持ったのだと思います。, でも、これを社会のせいというよりも、その状況を変えようとしない日本女性達にも憤りを感じ、そこから変えていこう!そう志したこともすごい!, 単に女性権利を主張・要求するのではなく、女性の柔らかい物腰や知性、そして判断力などを持った女性を育てていきました。, 津田梅子は、伊藤博文の英語指導や通訳として働いていたり、伊藤博文の推薦で華族女学校(現在の学習院女子)の英語教師を任されたりして交友がありました。, つまり、女子の教育の必要性を考えていた人物です。もちろん津田塾大学の寄付を行ったり、祝辞を述べたりしています。. 山川捨松と津田梅子は在学中だったため、 津田梅子は7歳でアメリカに留学し、11年間アメリカに学んだ。帰国した梅子は、教養ある女性を必要としない日本社会に落胆する。自ら向上しようとしない日本女性に怒りすら覚えた。梅子は、日本女性の地位の向上のために女子教育の必要性を痛感する。 ランマン夫妻が梅子を預かるようになって、1年以上過ぎた頃、ランマン夫妻を感動させるできごとが起こった。梅子がキリスト教の洗礼を受けたいと申し出たのである。夫妻が説得したわけでも、勧めたわけでもなかったので、夫妻の感動はひとしおであったと言う。 ましてや帰国子女を生かせる仕事などありませんでした。 Sponsored Link
津田梅子って何した人? 津田梅子は、1864年の江戸末期に、現在の東京都新宿に生まれました。 津田梅子は平等な女子教育を目的とした「女子英学塾(現:津田塾大学)」の創設者でもあり、女性教育の先駆者として知られています。 夢をふくらませながら帰国した梅子は、たちまち落胆と焦燥の日々を過ごすことになる。開拓使が解散になったこともあって、梅子に適当な仕事がないのである。男子留学生は2、3年の修学で帰国後かなりのポストについて、将来が保証されていた。しかし、女性の才能を生かす社会的なポストは皆無といってよかった。まして、梅子は日本語をほとんど忘れていたのである。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 女子留学生は5名、 少女時代 年間米国留学 権利要求の前に自ら高める でもそこに至るまでにはかなりの苦労があったんです。 先生というところから学校が連想され、このような声が挙がったのでしょうか。, 『梅ちゃん先生』は2012年上半期に放送されたNHKの朝ドラで、東日本大震災の復興支援プロジェクトの一環として製作されました。, 1945年、戦争で焼け野原となった蒲田に家族6人で暮らしている高等女学生の梅子は、勉強は苦手でいつも失敗ばかりし、劣等感を抱いていた。, 努力して医師免許取得後、大学病院に就職する。 「男性と協同して対等に力を発揮できる女性」 津田梅子は何した人?経歴や功績!結婚や津田塾大学のお墓参りのなぞ まとめ. 岩倉使節団( 明治時代、日本からアメリカやヨーロッパ諸国に派遣された使節団) 様々な経験を経て大学病院を退職し蒲田の町医者になる。, そこでは終末医療や家庭内不和、医療費の回収問題や家事育児と仕事との両立、そして総合病院との競合・淘汰といった様々な難題に直面する。, これらの経験を経て梅子は、か弱く頼りのない一人の女学生から、町の人々に頼られる立派な一医師に成長していく。, なお『梅ちゃん先生』は完全にオリジナルの脚本であり、実在の人物がモデルではなく、架空の人物です。 〒185-0011 東京都国分寺市本多2-6-5 042-349-6392, International Foreign Students Association. 疑問を持っていたのかもしれません。
アメリカで梅子を預かっていた夫妻は 、
という声がネットで多く挙がりました。, しかし、朝ドラの「梅ちゃん先生」と津田梅子は全くの別人です。
津田梅子はなぜ新しいお札に選ばれたのか理由を分かりやすくご紹介しています。津田梅子の功績やプロフィール、津田塾などゆかりの地、名言など新五千円札の津田梅子についてどんな人なのか知ってお …
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そもそも津田梅子って何した人なの? 津田梅子の功績としてはどんなことが挙げられるの; 津田梅子の女子教育は具体的にどんな教育なのか? 津田梅子についてもっと知りたい!本人の書いた著書はある … 共に留学した仲間が、帰国後次々に結婚し、古い日本社会の慣習の中に埋もれていくのを見て、梅子は一人頑なに自らの使命に忠実に生きようとした。結婚という女性の一般的生き方に抗い、日本女性の地位向上のため、その教育のために献身した。そして、日本の女子教育の先駆者としてその名を残すことになったのである。 生徒たち一人ひとりの自ら学ぶ意志こそが重要なのです。, 人生の導き手である良い書物は、その書物のなかで語る偉人たちの言葉は、求めさえすれば皆さんのものとなることでしょう。, 活字離れが進んでいる現代人には耳が痛い言葉かもしれません。 梅子の父親津田仙は、西洋に非常に大きな関心を持っていた。彼が属していた佐倉藩の藩主は、「オランダかぶれ」と噂されるほど西洋的なものを積極的に導入していたからである。しかし、決定的な影響はペリー提督率いる黒船を直接目にしたことであった。17歳の仙は、当時江戸湾警護のための砲兵隊に配属されていた。目の前に現れる黒船の威力。多感な17歳の青年は圧倒された。西洋文明の象徴ともいえる黒船のインパクトは、絶大であった。その後の仙の人生を大きく変え、その影響は梅子に及ぶことになる。 ランマン夫妻 Sponsored Link
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吉益亮(14歳) 梅子さんが生涯独身だったため、 留学期間の10年がたち, 明治14年1881年に帰国命令が出ます。 書いてみました。
仙は行動の人である。まず江戸に出てオランダ語を学んだ。その後、横浜に行き、英国人の医師のもとで英語を学び始める。彼のこうした努力が認められ、当時幕府がアメリカに使節を派遣するときの随員に選ばれた。1867年のことである。つまり、梅子の父親仙は、梅子に先立ってアメリカを体験していたのである。 そんな時ある夜会で、伊藤博文に再会。, 伊藤博文の英語の指導や通訳として雇われます。 津田梅子 明治“アラウンド20”の悩み(2011年・NHK『, 『女の旅―幕末維新から明治期の11人 (中公新書) 』中央公論新社:山本志乃 著(2012年), 『新マンガ日本史 45号 津田梅子 [雑誌]』朝日新聞出版;週刊版(2011年)ASIN: B005HJ10N0, 『明治の女子留学生―最初に海を渡った五人の少女 (平凡社新書)』平凡社:寺沢龍 著(2009年), 『津田梅子とアナ・C・ハーツホン 二組の父娘の物語』双文社出版:亀田帛子 著(2005年), 『明治日本の女たち』みすず書房:アリス・ベーコン、矢口祐人、砂田恵理加 訳(2003年), 『津田梅子の娘たち-ひと粒の種子から』ドメス出版:川本静子、亀田帛子、高桑美子 編著(2001年), 『津田梅子を支えた人びと』有斐閣:飯野正子、亀田帛子、高橋裕子 編著(2000年), 『津田梅子―六歳でアメリカに留学した女子教育のパイオニア(小学館版学習まんが人物館)』小学館:みやぞえ郁雄、菅谷淳夫 著(1997年), 『Tsuda Umeko and Women's Education in Japan 』, 『The Attic Letters: Ume Tsuda's Correspondence to Her American Mother』. 何度も縁談を断ったそうです。, お墓は津田塾大学の構内にあります。 ただ優秀な先生の集まる予備校に通っても成績が上がるというわけではありません。, 上でも述べたように、ただ学校に通うだけでは知識はつきません。
帰国後、単に自らの仕事がないというだけでなく、日本社会における女性のあり方そのものが、梅子の落胆に拍車をかけた。日本社会は女性に教養を求めていない。女性たち自身も、「男性からましな扱いを受けることなど期待していず、自分たちは劣っていると感じ、向上しようなどとは全く思っていない」と日本女性の立場に憤りの手紙をランマン夫人宛の手紙に書いている。 経歴や功績と、津田塾大学の面白いジンクスについて 何卒、宜しくお願いいたします。.
また、日本語を覚えて、華族子女の教育を行う塾で、 1871年、明治維新政府は欧米の先進文化に学ぶために、政府の中枢メンバーを欧米に派遣した。岩倉使節団と呼ばれた一行は、岩倉具視、大久保利通をはじめとする政府の要人が約2年間、欧米を視察して、新しい日本の国造りのモデルを探そうとした。実は、この使節団に5人の女性が加わっていた。その一人が今回の主人公、後に津田塾大学を創設し、日本の女子教育の先駆者となった津田梅子である。梅子は5人の中で最年少で、太平洋横断中に7歳の誕生日を迎えた。5人の女性は、乗船時の年齢が14歳(2人)を最年長に、11歳、8歳、6歳という少女たちであった。 今回は、津田梅子の生涯と人物についてご紹介いたしました。 津田梅子とは ① カルチャーショックを乗り越え、古い儒教的価値観の元で認められなかった日本女性のための高等教育への道を拓いた、帰国子女 しかし梅子の目指した女性の立場は、当世流行のフェミニズムとは、一線を画するものである。女性の権利を主張し、要求する前に、女性が自らを高めなければならないというのが梅子の信念である。闇雲に権利を主張する女性は、逆に女性の尊厳を損なうことになる。梅子が目指していた女性像は、聡明で公平な判断ができ、責任感に溢れ、能力がある、それ故に家庭では夫から尊敬され、社会から必要とされる女性であった。 「東洋の女性は、地位の高い者はおもちゃ、地位の低い者は召使いにすぎない」と梅子は述べている。男性のおもちゃ、召使いにすぎない日本の女性の地位向上のため、教育が不可欠である。梅子の使命感は、徐々に具体的な形となって現れ始めた。7歳でアメリカ留学という希有な体験も、これからの日本の女子教育においてこそ生かされるものと確信するようになる。 私の友人はお墓参りをしましたが、ちゃんと結婚しています。 女子英学塾の創設 いつも夫婦で対等でした。, 良妻賢母で夫に尽くすという日本女性の結婚に 女子留学は、北海道開拓使次官の黒田清隆の提案で実現したものである。開拓には有能な人材が必要であり、有能な人材を育てるには教養ある母親が不可欠である。そのために女子教育を振興すべきであるという趣旨に基づいていた。具体的には、女子を北海道の開拓のモデルであるアメリカに留学させ、アメリカ女性を現地で観察し、その素晴らしさの秘密を探り、アメリカ式の教育を身につけ、帰国後北海道開拓の良き母になってもらおうということであった。驚くべきことに、彼女たちに与えられた留学期間は10年間という長期に及ぶものであった。
卒業まで留学を延長。. キリスト教にも興味を持つようになり、自分から洗礼を受けました。
津田 梅子(つだ うめこ、元治元年12月3日(1864年12月31日) - 昭和4年(1929年)8月16日)は、日本の教育者。日本における女子教育の先駆者と評価される。女子英學塾(のちの津田塾大学)創立者。, 初名はうめ(「むめ」と書いた)で、明治35年(1902年)に漢字表記に改めて「梅子」とした。, 梅子は、津田仙(旧幕臣・東京府士族・下総佐倉藩出身)・初子夫妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新宿区南町)に生まれた[注 1]。 a:30940 t:173 y:18, Copyright © 2020 International Foreign Students Association All Rights Reserved. 永井繁子(10歳) 梅子はランマン夫人や周囲のアメリカ女性の姿を見ながら、アメリカ女性は聖書から道徳を学んでいることを発見する。アメリカ人女性のような立派な女性になることが、主要な留学目的だったことを考えれば、梅子がキリスト教徒になろうとしたのは、自然の成り行きだったであろう。幼心のうちに女子留学の使命感がはっきりと意識されていたのである。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); この頃、女性の職業などほとんどありません。 津田梅子は、津田塾大学の創立者として有名ですが、それだけではなかなか日本のお金の顔になることはありません。 津田梅子は簡単に言うと、 注目 「日本の女性教育を開拓!女性の地位向上に貢献した人 … ・北里柴三郎は何した人?その子孫や名言を知りたい!, 津田梅子の功績により、現在では女性が教育を受けること、社会に出て自立することが当たり前に, 『梅ちゃん先生』は完全にオリジナルの脚本であり、実在の人物がモデルではなく、架空の人物, 信じれば夢は叶うなどと甘い言葉を言わないところが、いろんな経験をして苦労してきた津田梅子らしい名言.
大晦日年越しスペシャル! 父・仙は幕臣であったため、江戸幕府崩壊とともに職を失ったが、明治2年(1869年)に築地のホテル館へ勤めはじめ、津田家は一家で向島へ移った。仙は西洋野菜の栽培なども手がけ、幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしている。, 明治4年(1871年)、仙は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となり、津田家は麻布へ移る。開拓次官の黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応募させ、同年、岩倉使節団に随行して渡米。5人のうち最年少の満6歳であった。11月12日(12月23日)に横浜を出港し、サンフランシスコを経て、同年12月にワシントンへ到着。, アメリカではジョージタウンで日本弁務館[注 2]書記で画家のチャールズ・ランマン (英語版)夫妻の家に預けられる。5月には森有礼の斡旋で、留学生はワシントン市内に住まわされるが10月には上田悌子、吉益亮子の2名が帰国した。残った3人が梅子、山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)である。この3人は生涯親しくしており、梅子がのちに「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する際に二人は助力する。, 梅子は再びランマン家に預けられ、十数年を過ごすことになる。梅子は英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通う。日本へ宛てる手紙も英文で書くようになる。この頃にはキリスト教への信仰も芽生え、ランマン夫妻には信仰を薦められていないが、明治6年(1873年)7月には特定の宗派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受ける。明治11年(1878年)にはコレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ。また、ランマン夫妻に連れ添われて休暇には各地を旅行している。明治14年(1881年)には開拓使から帰国命令が出るが、在学中であった山川捨松と梅子は延長を申請し、明治15年(1882年)7月に卒業。同年11月には日本へ帰国する。, 梅子らは帰国したものの、儒学の価値観が色濃く残る日本においては女子留学生の活躍できる職業分野にも乏しく、山川捨松と永井繁子はそれぞれ軍人へ嫁した。また、幼少からの長い留学生活で日本語能力はむしろ通訳が必要なほどになってしまい[注 3]、日本的風習にも不慣れであった。明治16年(1883年)には、外務卿・井上馨の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会し、華族子女を対象にした教育を行う私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介される。このころ父・仙との確執もあったことから、梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在、歌子からは日本語を学び、「桃夭女塾」へ英語教師として通う。明治18年(1885年)には伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった[注 4]。明治19年(1886年)には職制変更で嘱託となる。, 梅子は華族女学校で3年余り教えているが、上流階級的気風には馴染めなかったと言われ、この頃には何度か薦められていた縁談も断っている。やがて梅子は「二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」と手紙にしたためたほど、日本の結婚観に辟易して生涯未婚を誓う。明治21年(1888年)には、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、彼女に薦められて再度の留学を決意。父の仙の知人で、日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・クララの仲介で留学希望を伝えて学費免除の承諾を得て、校長の西村茂樹から2年間の留学を許可される。明治22年(1889年)7月に再び渡米。, 当時は進化論においてネオ・ラマルキズムが反響を呼んでおり、梅子はフィラデルフィア郊外のリベラル・アーツ・カレッジ、セブン・シスターズ (大学)のひとつであるブリンマー大学で生物学を専攻する。3年間の課程を切り上げて終了させ、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆*1。使命であった教授法に関する研究は州立のオズウィゴー師範学校で行う。梅子に留学を勧めたアリス・ベーコンは日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしていた。ベーコンがアメリカへ帰国し、研究を出版(『日本の女性』)する際には手助けをしている。これは梅子が日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われており、留学を一年延長すると、梅子は日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行う。, *1:当時ブリンマー大学に在職していて1933年にノーベル生理学・医学賞を受賞するモーガンに師事、梅子はカエル卵の卵割と体軸の方向性について1891年から1892年にかけて実験を行い1892年の春に成果をまとめた。モーガンは1893年の春に華族女学校の教師津田うめとの共著論文として5章から構成される論文にまとめたが、梅子の成果は第2章にほぼそのままの形で使用された[1]。本人はおろか弟子、孫弟子8人がノーベル賞を受賞するモーガンの影響は、梅子にも計り知れないものがあった。, 大学からはアメリカへ留まり学究を続けることを薦められるが、明治25年(1892年)8月に帰国。再び華族女学校に勤める。梅子は教師生活を続けるが、自宅で女学生を預かるなど積極的援助を行い、明治27年(1894年)には明治女学院でも講師を務める。明治31年(1898年)5月、女子高等師範学校教授を兼任する。成瀬仁蔵の女子大学創設運動や、明治32年(1899年)に高等女学校令、私立学校令がそれぞれ公布されて法整備が整い、女子教育への機運が高まると、明治33年(1900年)に官職を辞する。父の仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、同年7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府知事に提出。認可を受けると東京麹町区に開校し(1909年9月14日開校式)、塾長となり、華族平民の別のない女子教育を志向して、一般女子の教育を始める。, 女子英学塾は、それまでの行儀作法の延長の女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となる(ただし、当初はあまりの厳しさから脱落者が相次いだという)。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模にとどめられ、梅子やベーコンらの友人ははじめ無報酬で奉仕していたものの、学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など経営は厳しかったと言われる。明治36年(1903年)には専門学校令が公布され、塾の基盤が整うと申請して塾を社団法人とする。, 梅子は塾の創業期に健康を損ない、塾経営の基礎が整うと大正8年(1919年)1月に塾長を辞任する。鎌倉の別荘で長期の闘病後、昭和4年(1929年)に脳出血のため[2]64歳で死去する。生涯独身を貫いた。墓所は、東京都小平市に在る津田塾大学の構内にある。, 女子英学塾は津田英学塾と改名するも、校舎は後に戦災で失われ、津田塾大学として正式に落成・開校したのは梅子没後19年目の昭和23年(1948年)のことである。, 1905年10月17日、梅子を会長として日本基督教女子青年会(YWCA)が創立された[3]。, 令和6年(2024年)上半期を目処に執行される予定の紙幣改定に於いて、五千円紙幣に梅子の肖像が使用されることが決まった[4][5]。, アメリカ留学中に日本の実情を訴える公演などで寄付金8000ドルを集め、1891年に「日本婦人米国奨学金制度」を設立し、帰国後、制度を利用して計25人の日本女性をアメリカに留学させた[6][7]。第一号受給者として1893年に渡米した松田道(1868-1956)は1899年にブリンマー大学を卒業し[8]、1922(大正11)年に同志社女子高等学校校長となった。このほか、河井道(恵泉女学園創立者、ブリンマー大学1904年卒)、鈴木歌(華族女学校教授、ブリンマー大学1904-1906年)、木村文子(東京女子師範学校教授)、星野あい(津田塾大学学長、ブリンマー大学1912年卒)など、この制度で留学した多くが女子教育の指導者となった[9]。また、梅子の母校であり、奨学金留学生を受け入れたブリンマー大学の卒業生には、レオニー・ギルモアなど、日本で英語教師となった者もいる。, 生家の津田家は、桓武平氏織田氏流で織田信長とは同族[15]。晩年に甥にあたる津田眞を養子に迎える。津田眞の娘・あい子と西郷隆盛の曾孫・西郷隆晄の次男として生まれた写真家津田直は祖父・津田眞と養子縁組をし、2000年津田梅子家当主を継いだ。また、司法通訳翻訳論者、社会学者、フィリピン研究者の津田守は又甥にあたる。梅子の祖母フクは栗沢汶右衛門(千人同心)の実姉と言われる。, 1885年(明治18年)9月、宮内省御用掛、奏任官に准じ取り扱い。同年11月、華族女学校教授に任じる。, 『第10巻 津田梅子: レジェンド・ストーリー』学研プラス, 2015/02/10「私だからこそできること」, https://www.mof.go.jp/currency/bill/20190409.html, https://www.sankei.com/economy/news/190409/ecn1904090008-n1.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=津田梅子&oldid=80302041, 結婚の話なんかしないで!