Charles Edward Magoon: The Panama Years. 19世紀(1800年代)のニューヨークの歴史 概要. 毎日のように船が到着し移民がやってくるので、彼らを兵士にしようとする動きも起こります。 そして最後に移ったのが、世界貿易センターのツインタワーでした。, 『ギャング・オブ・ニューヨーク』は2002年の公開でしたが、本来は2001年の公開される予定でした。 そもそもアメリカは、ポテトが主食だったゲルマン系の人々から出発したのですが、もともと食にさほど興味のなかった彼らが更に流通の不便な中央部から西へと移動していったわけですから、日本人のイメージする食文化の豊かさはここにはないのが現状です。スーパーマーケットには通年、同じ品が同じ場所に同じように盛り上げられています。蕗が出たからもう春だね、というような季節感はなく、その代わり、感謝祭の前にはターキーが山積みになったり、クリスマスの前にはハムが前面に出てきたり、つまり、陳列のボリュームが変わることで季節を感じられる、というわけです。, さて、開拓時代の人々の食のほとんどは、肉や魚類は狩りで手に入れたものが、野菜やハーブ類は栽培したものが食卓に上っていました。ただし、これらの食材を手に入れられるかどうかは気候と土地の良し悪しに大きく左右され、コンスタントに食料を手に入れることはとても大変でした。そのため、塩漬けや燻製、それにピクルスといったような保存食が発達します。つい近年(1950年代ぐらい)まで、農家にはキャニング・センター(Canning center)という小屋がありました。これは、果物や野菜を缶詰やジャム、ピクルスに、肉や魚をベーコンやジャーキーなどの燻製や塩漬けにするための保存食作り専用の小屋で、大量の収穫時は、親戚や近所の人たちがお互いに助け合いながら保存のための食料を加工していました。, では、具体的にどんなものを食べていたのか。今、私の手元には1796年に出版されたアメリア・サイモン著、アメリカ最古の料理本The FIRST AMERICAN COOKBOOK、その他1860年代までの料理本が数冊あります。その全てで取り上げている肉類は、牛肉、豚肉、ラム、子牛(母親の胎内のもの)、鹿肉、鶏肉、七面鳥、ガチョウ、鳩、うずら、ウサギ、珍しいところでは亀。, 鹿、七面鳥、ガチョウ、鳩、うずら、ウサギは狩りで、牛、豚、羊、鶏は飼育していましたが、全てを自分で初めから解体することになるため、どの部位をどんな手順で切り分けるか、細かな指示があります。, こんなふうに狩猟生活では男性の手を借りるというより、男性が中心にならなければ獲物を手に入れることも、解体することも難しいわけですから、男子厨房に入らず、という言葉が生まれる背景そのものがこの国にはありません。もちろん、狩りには男性たちが集まって泊りがけで出かけていました。料理以前に、素材をどう手に入れるかのほうが大きな問題で、そうした背景から、素材の微妙な変化に気を配るような繊細な料理の工程はこの国では発達しなかったのかもしれません。, そして、どの料理の本にも必ずと言っていいほど書かれているのが、火についてです。当時はかまどで火をたき、料理していたわけですが、強火、弱火、中火というのも薪を出し入れしながら調節していました。それが難しかったのでしょうか、現代の料理番組でも基本的に火力についての細かな説明がほとんどありません。, また、1900年代には一般家庭にオーブンが普及するのですが、それまではオーブンのある家庭は珍しく、七面鳥の丸焼きが必要になるサンクスギビングなどの特別な日には、大きなレンガのオーブンのある村のパン屋に頼んで焼いてもらっていました。, 一体どれくらいの量を食べていたのか、というのも興味のあるところですが、当時、ほとんどの人々は肉体労働者と言ってよく、彼らの昼食は食パン一斤、とものの本にはあります。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」という詩の一節に「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」とありますが、ご飯でお腹を膨らましていたのは開拓当時のアメリカでも同じでした。ですからパン屋では大量の食パンを毎日焼いていたのです。目玉焼きも今のように卵一個か二個ということはなく、一人五個から七個の卵を使っていました。それでもメタボな人がほとんどいなかったのは、身体性と生活が密着していたためです。, さて、現代のアメリカの食は、語るにはそれはそれは悲しいものがあります。まず、女性が働き始めてから料理をしない傾向にあります。家族がいても三食外食、あるいはデリバリーという人たちも大勢いて、私の友人の50代のある独身女性は、三食冷凍食品です。食費が大変、と思われるかもしれませんが、高級レストランに行くわけではなく、食の質を落として仮にそれがファーストフードであっても外食がいい、となるわけです。そして、そんな割には意外にもキッチンはゴージャスです。キッチンはその女性の主婦としての成功の証、といった感じで、言ってみればプレゼンテーション・ツールの一つ。しかし、悲しいかなそのゴージャスなキッチンで一番稼動しているのは電子レンジです。ちなみに、電子レンジで加熱することを「Fix」と言うのですが、毎食、料理じゃなくてフィックスしておしまいです。当然のことながら、糖尿病は子供にまで拡大し、家から一歩出ると200キロ近い人と間違いなくすれ違うことができ、群集を写すと必ずといっていいほど肥満の人がその中にいます。, 手軽なファーストフードの蔓延、車社会による運動不足などなど肥満の要因はいろいろあり、いまや肥満はアメリカの重大問題の一つです。そして、その原因をさまざまに分析した書籍もたくさんあるのですが、私が一番の原因と思うのは人々の意識です。200キロに至るまでに、120キロを通過し、140キロも、180キロも通過した。なぜ、そこを通過してしまったのか。, 開拓時代から150年後の際限なく食べる人々その意識下には、豊かな生活を得ることこそが成功、という資本主義社会のストレスの落とし穴が、ポッカリ口を開けているように思えてなりません。, アメリカの初期の写真、ダゲレオタイプ、アンブロタイプ、ティンタイプを、当時の人々の暮らしぶりと重ね合わせながら巡って行きます。写真はどのように広まったのでしょう。古い写真とみずみずしいイラストとともにめぐる類書の少ない写真文化史的一冊です。写真を深く知りたい人に。, 文筆家。著書に「撮る人へ」「写真家へ」「あなたの写真を拝見します」(窓社刊)、「写真のはじまり物語 ダゲレオ・アンブロ・ティンタイプ」(雷鳥社刊)がある。アメリカ在住。, Final Cut Pro / トーンカーブ / Photoshop CC / Camera Rawフィルター / Camera Raw / 3DCG / Autodesk 3ds Max / Lightroom CC / ColorEdge / レベル補正. この頃大量なアイルランド人がニューヨークになってきます。, さらにアイルランドでは飢饉が起こり、ニューユークに渡る人達は増える一方でした。 これは映画の中でも描かれています。 船から降りるとその足で兵士となと戦地に向かったアイルランド人もたくさんいました。, ・移民を受け入れ反対の人 1870年代末からアフリカ系アメリカ人はレコンストラクションの間に得ていた多くの公民権を失い、次第に人種差別を受けるようになった。リンチや人種暴動など差別主義者による暴力が増し、南部州におけるアフリカ系アメリカ人の生活水準が著しく後退した。1877 Copyright©1999-2020 GENKOSHA Co. All rights reserved. まさに、ニューヨークひいてはアメリカが、「 前進する息吹(Go ahead to be alive) 」となる時代です。. ホーム; まとめ(要約) 近世(1453年~) 近代(1789年~) 現代(1992年~) 各時代. ワンショット撮影された劇場映画「Last Call」DaVinci Resolve Studioにてカラーグレーディング. 舞台は1800年代半ばのニューヨーク。移民を受け入れて混沌とする中、南北戦争も始まりさらに街は混迷していきます。移民・黒人・アジア人と世界からニューヨークに集まってくる人達。しかしそこは決して平和な世界ではなかったのです。 さて、開拓時代の人々の食のほとんどは、肉や魚類は狩りで手に入れたものが、野菜やハーブ類は栽培したものが食卓に上っていました。ただし、これらの食材を手に入れられるかどうかは気候と土地の良し悪しに大きく左右され、コンスタントに食料を手に入れることはとても大変でした。そのため、塩漬けや燻製、それにピクルスといったような保存食が発達します。つい近年(1950年代ぐらい)まで、農家にはキャニング・センター(Canning center)という小屋がありました。これは、果物や野菜を缶 … その環境で生活するしかない状態で、努力していこうとしているのです。 今回は、前回の奴隷制度があった独立同時のアメリカに続き、1800年代〜1900年代に注目しました。次回はその後2000年代に入るアメリカ社会にスポットライトを当てます。 アメリカの住居というと、巨大なジャイアントハウスを想像される方も多いと思います。時々、そんな巨大な家の立ち並ぶ通りを車で通過すると、まるでアミューズメント・パークの一角のような不思議な印象があります。アメリカでごく平均的な生活者がこのジャイアント・ハウスに暮らすようになったのは1980年代からと言われていますが、その昔の一般的な住居は、さほど大きなものではありませんでした。, ちなみに、私の住んでいる家は1930年代の木造のコテージハウスと呼ばれる作りで、バスルーム、寝室、リビング、キッチン各1ヶ所ずつで、うさぎ小屋に暮らしなれた私の目から見てもそんなに広くはありません。しかし、立てられた当初には、ここに6人家族が住んでいたと聞きました。, さて、開拓時代の人々はどうやって住居を決めたのか、ということなのですが、まず当然のことながらアパート・マンション情報も、きちんとした不動産屋さんもありません。, 家族と家財一式を馬車に積んで西に移動しながら、なんとなく人々が集まって暮らしている町の入口らしき所にたどり着きます。そして、大抵そこに必ずと言っていいほどある雑貨屋に立ち寄って「どこかいい場所はないかね」と尋ねると、ここからさらに西に5キロほど行くと大きな木があって、川も近くにあるしウサギもいるよ、なんていうふうに情報をもらい、行ってみると、360度大平原、隣近所なし、水の確保ができてハンティングの獲物もいそうな最高の立地があるわけですね。, 春から夏のはじめにそんな場所を見つけて、しばらくは馬車で寝泊まりしながら、冬までの間にとりあえず壁と屋根が完成し、狼の群れに襲われなくても済むようになります。もちろん、床は後回しか、ないのが普通でした。ベッドは木枠を作って枯れ草を積んで固め、その上にブランケットを広げてでき上がりです。つまり、住居に対する大きな取り決めはなく、だいたいこの辺りが我が家、という感じで、敷地というものもあってないようなものでした。そして、木と紙が日本家屋の主となる素材ならば、アメリカの家は、木と岩ということになります。, 明かり取り用の窓は一応ありましたが、壁板をくり抜いて、その板を下から突っかい棒で押し上げて外気や光が室内に入るようにしていました。布の余裕があればカーテンも取り付けられましたが、外からのぞく人もいるわけでなし、ないのが普通でした。, さて、「写真から映像へ/人々の歩み 一般への普及」で1840年代初めの話として「地方都市には、明かり取り用のガラス窓のある手ごろな大きさの町工場があった」と説明しましたが、アメリカは広く、どの時代のどこの地域の話か、によって、こうした環境は大きく異なります。内陸部の本当に人々が農業を目的に入植した地域では、1800年代終わりになっても、窓にガラスまではなかなか手が回りませんでした。, ガラスはヴァージニア州に入植したヨーロッパからの人々が生産をはじめ、18世紀末には工場生産が行なわれるようになりましたが、まず飲み物や薬品を入れる保存用のビン類から生産がはじまり、窓ガラスはぜいたく品でした。ですので、内陸部の一般の入植者達は、同じ種類のビンをかき集め、揃えて逆さに並べ、窓に取り付けて窓ガラスの代わりに使用していたのです。また、窓の下の方のサンには、毎月一定の日に日足がどこまで伸びたのかナイフで刻みを入れて、季節の目印として農作物の植え付けの目安にしていました。, 住居ばかりでなく、ロウソクや石鹸といった日用品や農機具、家具類まで全て自分たちで作っていたわけですから、生活するとは本当に大変な労力だったと思います。, アメリカの初期の写真、ダゲレオタイプ、アンブロタイプ、ティンタイプを、当時の人々の暮らしぶりと重ね合わせながら巡って行きます。写真はどのように広まったのでしょう。古い写真とみずみずしいイラストとともにめぐる類書の少ない写真文化史的一冊です。写真を深く知りたい人に。, 文筆家。著書に「撮る人へ」「写真家へ」「あなたの写真を拝見します」(窓社刊)、「写真のはじまり物語 ダゲレオ・アンブロ・ティンタイプ」(雷鳥社刊)がある。アメリカ在住。, Final Cut Pro / トーンカーブ / Photoshop CC / Camera Rawフィルター / Camera Raw / 3DCG / Autodesk 3ds Max / Lightroom CC / ColorEdge / レベル補正.
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