『殺人鬼ゾディアック 犯罪史上最悪の猟奇事件、その隠された真実』ミステリーと家族の再生. ショパンの音色が、ほの暗い悲しみを落とします。 この作品が伝えたいことは、今もなお強く私たちの胸を打ちます。, 2002年公開。ポーランド人のロマン・ポランスキーが監督としてメガホンを取りました。フランス、イギリス、ドイツ、ポーランドの合作映画で、日本では2003年に公開されています。映画の舞台は、第二次世界大戦時のワルシャワ。そこで生きた一人のピアニスト、ユダヤ系ポーランド人「ウワディスワフ・シュピルマン」。彼が実際に体験した戦争の真実を書き残した自叙伝「ある都市の死ー1946年出版」を、元に脚色し映像化された作品です。この映画は、フランスのカンヌ映画祭で最高賞であるパルムドールを受賞。またアメリカのアカデミー賞では、 主演のエイドリアン・ブロディがアカデミー主演男優賞を受賞しており、そのほかこの作品は監督賞や脚色賞を受賞しています。, 主人公シュピルマンは、ワルシャワ(現ポーランド)で活躍しているピアニスト。彼はワルシャワを拠点にピアニストとして音楽活動し、名声を集め、平穏で満ち足りた日々を送っていました。しかしある時突然、彼のそんな日々を崩壊させる不気味な足音が忍び寄ってきます。第二次世界大戦の勃発。ナチスドイツが、彼の暮らすワルシャワに侵攻してきたとの知らせを受け、ドイツ軍の脅威に怯えるシュピルマンでしたが、ドイツ軍に対抗しイギリスとフランスが宣戦布告したことで、戦争は早くに終わるだろうと安堵していました。早期に決着がつくだろうと思われた戦争でしたが、戦況は激化の一途を辿り、ナチスドイツによる、ユダヤ人の過激な迫害が始まります。シュピルマンは、星が印刷された腕章を着用することが義務づけられ、ゲットーというユダヤ人の隔離地域に押し込められてしまいます。何の罪も無く、善良な市民であったユダヤの人々。根拠も無く迫害され、しまいに隔離されたユダヤ人達は、強制的に全財産を没収されてしまいます。無一文になったユダヤ人を待っていたのは、絶滅収容所行きの列車。それに乗ったユダヤ人達が、導かれていく先は収容所の名前のとおり、絶望と死。絶体絶命の危機に瀕したシュピルマンでしたが、周りの人々の機転や善意によって、その危機を逃れます。, シュピルマンは、絶滅収容所行きを奇跡的に免れた後、古くから親交があるドイツ人の友人に匿われていました。けれど、ユダヤ人がテロを起こしたことで、ドイツ軍は報復として彼らが住まう町を完膚なきまでに破壊し尽くしてしまします。そうして誰一人として頼ることが出来なくなったシュピルマン。その廃墟の町の中で、たった一人で生きることを余儀なくされたのです。家族や仲間を失った大きな悲しみを抱えながら、忍び寄る死の気配と空腹に怯え、孤独に苦しみながら命を繋ぐ日々。そんな彼を救ったのは皮肉なことにドイツ軍人でしたーー, シュピルマンが映画のオープニングで演奏した曲。ショパン作曲ノクターン第20番「遺作」夜の帳を下ろすような悲しげな重音ではじまります。そしてつづくのは、暗闇のなかを彷徨う主旋律。たった一人で、孤独に耐えながら歩いて行くような彼の姿が浮かび上がってきます。この物語の行く先を暗示しているかのような薄ら寒い旋律が続きます・・・途中、昔の日々を懐かしむような、軽やかで希望の光に満ちた明るい情景が浮かび上がりますが、終わりにかけて再び暗く寂しいメロディーが蘇ります。それでも最後に表現された登りゆく旋律は、雲の狭間から差し込むわずかな光、祈りを捧げるかのようです。, 映画で挿入されている曲は、殆どがポーランド出身の作曲家ショパンのピアノ曲。この曲は、ドイツ兵に請われてシュピルマンが廃墟の中で演奏した曲です。バラード第1番ト短調 作品23これから始まる物語の大きさを予感させる、力強いスケールから始まります。繊細な和音の伴奏と共に、湖の波紋を映すようにメロディーが重なり広がりを見せていきます。しかし、突如荒れ狂う旋律が現れ、うねり、翻弄し、静まりかえったと思ったら、急転直下、奈落の底へ突き落とされるような激しい旋律が繰り返されます。最後は、その激しいうねりに飲み込まれるように劇的に締めくくられます。大変にドラマチックなこの曲は、戦争に翻弄されるシュピルマン自身を表しているかのようです。, (生1911年12月5日 - 2000年7月6日没)ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、作曲家。幼少の頃からピアノの英才教育を受け、ベルリン音楽大学では高名なピアニストに師事しました。ドイツ在住時にヒトラーが政権を掌握したことにより、ポーランドに帰郷。ポーランドの首都ワルシャワで、ポーランド放送のピアニストとして音楽活動を始めます。彼はクラシック音楽に留まらず、戦前から、たくさんの映画音楽、管弦楽作品、大衆歌、ポピュラー音楽を作曲しています。彼が作曲し、カジミェシュ・ヴィンクラーが作詞した歌謡曲「ワルシャワの赤いバス」。戦前の光溢れるワルシャワの町を表現したこの曲は、心を揺さぶる名曲として今でもポーランド人に広く親しまれています。また、世界各国で精力的に音楽活動をしており、世界中で2000回以上もの演奏活動を行ないました。彼はポーランド国民から、最も慕われた偉大なピアニストの一人として数えられています。, 人ごとではない、いつ自分の身に降りかかるかもしれない戦争という暴力。それは身に差し迫る絶望であり、平穏な幸せな日々を無慈悲に奪う招かれざる客。自分の大切な家族を亡くしたら、もしくは自分自身が死に追いやられたら・・・?当たり前のように平和を享受し、過ごす毎日。しかしそれは当たり前では無い、もろく崩れやすい物だと、この作品は警鐘を鳴らし続けています。少しずつ混迷を見せる昨今の世界で、改めて平和のありがたさ、また大切さを考えてみる時期が来たのかもしれません・・・, 当社は、本記事に起因して利用者に生じたあらゆる行動・損害について一切の責任を負うものではありません。 ノカンゾウが黄色い花を、ヒガンバナが赤い花を、タマスダレが白い花を、ケイトウが赤い花を咲かせています。ススキの花穂が秋風に揺れています。因みに、本日の歩数は10,856でした。, 閑話休題、ドイツ軍占領下のポーランド・ワルシャワ、その廃墟で食料探しに夢中になっていたユダヤ系ポーランド人の若者は、ドイツ軍将校に見つかってしまいます。2002年(日本では2003年)に公開された映画『戦場のピアニスト』で最もドキドキさせられたシーンです。, 尋問により、若者がピアニストであることを知った将校は、ピアノを弾かせます。その見事な腕前に感服した将校は密かに若者を匿い、食料を差し入れます。, これは、後に著名な音楽家となるウワディスワフ・シュピルマンと、ドイツ軍将校、ヴィルム・ホーゼンフェルトの間で実際にあった話です。このホーゼンフェルトというのは、どういう人物だったのか、そして、ドイツが敗れた後、どうなったのかが気に懸かっていました。『「戦場のピアニスト」を救ったドイツ国防軍将校――ヴィルム・ホーゼンフェルトの生涯』(ヘルマン・フィンケ著、高田ゆみ子訳、白水社)が、これらの疑問に丁寧に答えてくれました。, 「1938年秋、事態は急変した。11月9日夜、ドイツ全土でユダヤ人商店やシナゴーグが襲撃を受け、放火された。いわゆるポグロムである。ホーゼンフェルトは言葉を失った。これほどの暴力や虐殺行為はあり得ないと思った。<国中で、ユダヤ人に対するポグロムが起きている。どこもひどい有様だ。正義も秩序もない。偽善と嘘ばかりが横行している>」。, 「1941年3月3日、ホーゼンフェルトは初めて、ワルシャワ・ゲットーの光景を目にした。・・・ゲットーの光景を前にして、ホーゼンフェルトは強い衝撃を受けた。<ひどい状態だ。ゲットーは我々への非難そのものだ。人々は気力を失い、飢え、アリの群れのように汚物だらけの街路をうごめいている。実にあわれで悲惨だ>」。, ホーゼンフェルトは、ユダヤ人迫害について知ったことをワルシャワ日記に書き記しています。<不運な人々は(アウシュヴィッツ収容所の)ガス室に送られ、毒ガスで殺害されるという。それが一番手っ取り早いというわけだ。尋問では、情け容赦なく殴られる。収容所には特別な拷問室がる。たとえば、こんな拷問がある。部屋の中に柱が一本立っていて、犠牲者は手と腕をくくりつけられる。柱を高く引き上げて意識を失うまで吊しておかれる。あるいは、かがんだ姿勢のまま箱に閉じ込められ、気絶するまで放置される>(1942年4月17日)。<恐怖があらゆる場所を支配している。威嚇、暴力、逮捕、連行、銃殺。もう日常茶飯事だ。個人の自由はおろか、人間の命すら、ないがしろにされている。しかし、どんな人間も、どんな国の国民も、生まれながらに自由を求める気持ちを持っているはずだ。それが侵害されてはならない。歴史は、恐怖政治は長くは続かないと教えている。ユダヤ住民の殺戮という大罪を犯している我々は、やがてしっぺ返しを受けることになるだろう>(1942年7月23日)。, 1944年11月17日から12月12日までのホーゼンフェルトとシュピルマンのやり取りは、ホーゼンフェルトの手紙にもメモにも一切記されていません。今まで明らかになった指摘や証言によれば、60人以上のユダヤ人がホーゼンフェルトに命を救われているが、これらの人たちに危険が及ぶことを恐れて記録しなかったのです。シュピルマンの著書『ピアニスト――奇跡の生還』(映画『戦場のピアニスト』の原作)が1998年に復刊されたことによって、ホーゼンフェルトの行動が世に知られるようになりました。, 「1945年1月17日、中隊長ホーゼンフェルトと大部分の隊員は敵軍に降伏した。捕虜になった詳細な経緯はわかっていない」。シュピルマンは命の恩人の収容先を必死に探すが、その消息を掴むことはできませんでした。<捕虜収容所はその間に他所へ移され、移転先は軍事機密だった。あのドイツ人――私(シュピルマン)がこれまで出会った軍服を着たドイツ人の中で、唯一人間と呼べるあの人が、無事に家に帰り着いているといいのだが・・・>。, 1952年8月13日、ホーゼンフェルトはソ連の捕虜収容所で衰弱死します。享年57でした。, シュピルマンの妻、ハリナ・シュピルマンは、映画『戦場のピアニスト』を見て、こう語っています。<映画はとてもよくできていました。たいへん重要な作品です。監督がポランスキーで本当に良かったです。スピルバーグは『シンドラーのリスト』を、そしてロマン・ポランスキーは『ピアニスト』(=『戦場のピアニスト』の原題)を世に出しました。・・・ホーゼンフェルト氏はシュピルマンに対して、映画の字幕のように侮蔑的に『おまえ』<Du>と呼びかけることは決してありませんでした。彼は常に、敬意を込めた『あなた』<Sie>を使っていました>。, 戻る
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