ハイム『絶滅政策の立案者たち』(1991)を読む, http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2010/06.pdf, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=独ソ戦&oldid=80195900, N.チーホノフ 『レーニングラード』、創元社、1952年 - レーニングラード戦を題材にソ連側から描かれた小説, Harrison E. Solisbury 『独ソ戦:この知られざる戦い』、早川書房、1980年 - 米人記者がソ連側から見た独ソ戦, Theodor Plievier 『モスクワ』 金森誠也訳、フジ出版社、1986年、, David M.Glantz / Jonathan M.House 『独ソ戦全史;「史上最大の地上戦」の実像』 守屋純訳、学習研究社、2005年、, アントニー・ビーヴァー 著、川上洸 訳、『赤軍記者グロースマン 独ソ戦取材ノート 1941-1945』、白水社、2007年, パウル・カレル 『焦土作戦:ソ連の大反攻とヒトラーの敗走』 松谷健二訳、フジ出版社、1972年, Jürgen Thorwald 『幻影、ヒトラーの側で戦った赤軍兵士たちの物語』 松谷健二訳、フジ出版社、1979年 - ソ連人対独協力者の運命, Richard Muller 『東部戦線の独空軍』 手島尚訳、朝日ソノラマ、1995年、, Werner Maser 『独ソ開戦、盟約から破約へ、ヒトラーVSスターリン』 守屋純訳、学習研究社、2000年、, 『The Russian Campaign 2/独ソ戦2』(Jedko Games、国際通信社「, 『War for the Motherland』(Rampart Games、シックス・アングルズ第9号)1994年 -, 『Russia Beseiged』(L2 Design Group、国際通信社「コマンドベスト第10弾」)2004年, 『NO RETREAT!』(Victory Point Games、国際通信社「ワールド・ウォー・シリーズ第1号」)2008年, 『The Barbarossa Campaign/独ソ戦ソリティア』(Victory Point Games、国際通信社「ワールド・ウォー・シリーズ第3号」)2010年 - 1人用ゲーム, 『独ソ電撃戦』(エポック社、国際通信社「コマンドマガジン日本版第57号)1981年, 『Blitzkrieg '41』(XTR、国際通信社「コマンドマガジン日本版第7号」)1989年, 『Barbarossa: The Russo-German War, 1941-45』(Decision Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第87号」)2008年, 『スモレンスク攻防戦』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第74号」、「コマンドベスト第13弾」)2007年, 『Battle for Moscow』(GDW、国際通信社「コマンドマガジン日本版第39号」)1986年, 『The Last Stand at Moscow/モスクワ攻防戦』(シックス・アングルズ第11号)2008年 - 山崎雅弘デザイン, 『モスクワ '41』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第84号」)2009年 - 中黒靖デザイン, 『Drive on Stalingrad』(SPI、サンセットゲームズ)1977年, 『Battle for Stalingrad/スターリングラード攻略』(SPI、ホビージャパン、シックス・アングルズ別冊第1号)1980年, 『スターリングラード』(エポック社、国際通信社「ワールド・ウォー・シリーズ第4号」)1983年, 『Stalingrad Pocket』(The Gamers、国際通信社「コマンドマガジン別冊第5号」)1992年, 『Paulus' 6th Army』(シックス・アングルズ第10号)2005年 - 山崎雅弘デザイン, 『White Death』(GDW、国際通信社「コマンドマガジン日本版第96号」)1979年, 『Velikye Luki/ヴェリキエ・ルキ攻防戦』(Moments in History、国際通信社「コマンドマガジン日本版第76号」)2000年, 『Kursk: History's Greatest Tank Battle, July 1943/クルスク大戦車戦』(SPI、シックス・アングルズ別冊第3号)1980年, 『Zitadelle: Duel for Kursk/ツィテダレ作戦:クルスクの決戦』(WWW、国際通信社「コマンドマガジン別冊第4号」、シックス・アングルズ第13号)1992年 - 山崎雅弘デザイン, 『Drive on Kursk』(Decision Games「S&T#253」、国際通信社「コマンドマガジン日本版第93号」)2008年, 『ハリコフ1941-1943』(翔企画SSシリーズ、シックス・アングルズ第8号)1991年 - 山崎雅弘デザイン, 『Ring of Fire』(Moments in History、国際通信社「コマンドマガジン別冊第18号」)1994年, 『Army Group South/ドイツ南方軍集団』(SPI、サンセットゲームズ)1979年 - クワドリ(キエフ、ロストフ、星作戦、コルスン), 『48th Panzer Korps』(Pacific Rim、国際通信社「コマンドマガジン日本版第17号」)1991年, 『Berlin '45 The Nightmare Ends』(XTR、国際通信社「コマンドマガジン日本版第3号」)1992年, 『Budapest 1945』(XTR、国際通信社「コマンドマガジン日本版第13号」)1994年, 『Forgotten Axis: Murmansk 1941』(GMT Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第63号」)1999年, 『Ukraine '43』(GMT Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第60号」)2000年, 『Drive to the Baltic!/死闘! 北方軍集団』(Moments in History、国際通信社「コマンドマガジン日本版第34号」)2000年, 『ウクライナ'44』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第70号」)2006年 - 中黒靖デザイン, 『Hongrie 1944-1945/ハンガリー戦役1944-45』(Vae Victis#78、国際通信社「コマンドマガジン日本版第100号」)2008年, 『Battle for Korsun』(Chris Harding Simulations、国際通信社「コマンドマガジン日本版第97号」)2010年, 『1940: What If』(Decision Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第103号」)2010年 - 仮想戦, 『Army Group Narwa/激闘、ナルヴァ軍集団』(Three Crowns Game Productions、国際通信社「コマンドマガジン日本版第112号」)2012年, 『ルントシュテットの戦い』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第109号」)2013年, ニコラス・ベサル著、加登川幸太郎 監修、横田恒 翻訳、『ライフ 第二次世界大戦史 「独ソの激闘」』、タイム ライフ ブックス, ジョン・ショウ著、加登川幸太郎 監修、島村力/小山田義文 翻訳、『ライフ 第二次世界大戦史 「ソ連軍の大反攻」』、タイム ライフ ブックス. 7) 』学習研究社ISBN 4-056-05443-6, パウル・カレル著、吉本隆昭 監修、松谷健二 訳、『焦土作戦(上、下)』、学習研究社、1999年. 後に述べますが、ヒトラーの最終目標は西方ではなく、あくまで東方にありました。 資源確保のため東方(東ヨーロッパやソ連といった、優秀なるドイツゲルマン民族に劣等するスラブ民族が住む地域です)に勢力圏を確保し、巨大帝国を構築する野望を抱いていました。 つまりはソ連打倒こそが、ヒトラーの最終目標なのです。 そのため、独ソ不可侵条約を結んで東方の安全を確保したあとにフランスを撃破し、イギリスとは講和を結ぶ意図がありました。イギリスと講和後に、本来の目的であるソ連に … 仮に勝ったところで荒廃した土地しか得るものがないってのもなあ, 赤軍の粘りが想像以上に凄かったのが単純にして最大の理由 ID: DHnWhasabI, 2020/10/14(水) 18:48:00 第二次世界大戦で、なぜドイツは独ソ戦を開始し、自ら破滅的な二正面作戦を展開してしまったのでしょうか。 ドイツは第二次世界大戦で西部戦線ではイギリス・アメリカと、東部戦線ではソ連と戦争を繰り広げ、ソ連にベルリンを占領され敗戦します。 バグラチオン作戦(バグラチオンさくせん、ロシア語: Белорусская операция、英語: Operation Bagration)は、独ソ戦開始から、ちょうど3年目にあたる1944年6月22日にベラルーシで開始された、赤軍のドイツ軍に対する攻勢作戦の名称である。この作戦の結果、ドイツ中央軍集団は回復不可能な大打撃を受け、戦線は大きく西に押し戻される事になり、ほぼポーランドまで移動した。作戦名はロシア帝国時代におけるナポレオン・ボナパルトとの祖国戦争で活躍したピョートル・バグラチオン将軍 … ID: +4T8huyO/R, 2020/09/29(火) 20:24:32 イデオロギー戦やからな 互いに民間人含め殺しまくったのが独ソ戦や 7 風吹けば名無し 2020/03/28(土) 01:52:03.86 ID:84adv/1O0 ルーマニア王国 (〜1944) イタリア王国 (〜1943) フィンランド (〜1944) ハンガリー王国[1] スロバキア共和国 クロアチア独立国 ブルガリア王国[2] (〜1944) スペイン(義勇軍を派遣) フランス国 メディアユーザー登録を行うと、企業担当者の連絡先や、イベント・記者会見の情報など様々な特記情報を閲覧できます。※内容はプレスリリースにより異なります。, フォローするとどうなる? これまでの戦いとは異なり、本国とはるか離れた広大な領土を持つソビエトにおける戦いは電撃戦による短期決戦が可能かどうかという点については意見が分かれるところであった。電撃戦に必要なものは一にも二にも速度であり、これには補給と飛行場の確保が不可欠である。だが、ロシアの大地は電撃戦をしかけるにはあまりに広大であった。インフラストラクチャーは未整備、冬季は厳寒。攻撃する側は必要以上に十分な装備を持ち得ていなければならない非常に危険な大地だった。, 広大な土地に対しての情報は不足し、道路の情報はほぼ間違いであるといって過言ではなかった。ほとんどの道路は未舗装であり、そのことが後に進軍を阻む泥濘と化すことを知らなかったのではないかといえるほど、ドイツ軍の準備はなされていなかったといえる。輸送に関し、いまだに無数の荷馬車に依存していたドイツ軍はロシアのぬかるんだ地面では嫌になるくらい進軍がはかどらなかった[27]。, これまでにも機甲師団の進軍においての故障率は対オーストリアへの進駐の段階ですら看過できない状態であり、戦闘期間が長引けばそれは機甲師団を軸に戦争の計画を立てている者にとっては恐るべき結果が待っていたといっても過言ではない。部隊の数を増やすことなどままならず、維持することすら多くの努力をもってなされていた状態であった。, ドイツの戦車は、ドイツ気質を体現するように最善を求めて作り上げた精密機械であった。電撃戦による短期決戦には対応できるが、長期持久戦を維持するには膨大な人的資源を必要とした。ロシアの冬は精密機械であるドイツ戦車を使用不能にするほど過酷な大地であった。驚くべきことに、ドイツはその気質を体現するかのように整備・回収の能力を保持していたといえるだろう。だがロシアの大地は苛酷であり、あらゆるものが故障し、放棄される運命にあった。そして補給の混乱がそれに輪をかけたのである。必要な部品は届けられず、他の兵器を活用するために部品を抜かれる兵器も多かった。, ドイツ軍のそれまでの対戦国はドイツと同等もしくは劣勢であると考えられる国々であったのに対し、ソビエトは資源・生産力・人口においてドイツを圧倒していた。戦争が長引けば、国力の差がドイツを日々圧倒してくることは間違いなく、それはドイツ軍の敗北を意味していた。すでに同等以上の国力を誇っている英米連合国との戦争をしている状況において、西部戦線・北アフリカ戦線に加えて東部戦線という三つの戦線を維持し続けることはドイツにとって過大な負担となることは明白であった。, このような状況・段階にもかかわらずヒトラーのソビエトに対する認識はあくまでも過小評価であり、バルバロッサ開始時だけでなくブラウ開始後においても、ソビエト赤軍の戦力の低下を認識し、それを参謀本部にも確認する状況であった。確かにソビエト赤軍の対フィンランド戦での戦力比に対しての戦闘の状況、その元となる赤軍の総合的な戦力の低下はまぬがれなかった。まして独ソ戦初期における損害は膨大であり戦力の低下は間違いなかった。だが、赤軍の予備兵力はドイツ軍が想定するよりもはるかに膨大であった。もし勝利を得られることがあるとすれば、圧倒的な電撃戦による勝利か、開戦1年目のような捕虜・軍事物資の放棄が常に続くような状況でない限り勝利は遠かったのだ。, このようなドイツに対して、ソビエトは全力をあげて赤軍の組織を再編しドイツ軍に対抗した。, 陸・海・空という総合的な戦力が問われるわけではない独ソ戦において、ソ連赤軍には革新的ともいえるT-34という戦車の存在があったことは特筆すべきであろう。敵の砲弾を弾く効果的な形状を持ち、その形状にそった小さな砲塔には敵戦車に対しては必要十分な砲を持つという、対戦車戦において絶対的に優位な、今日における主力戦車の概念を与えうる戦車の歴史を変えるほどの戦車であった。確かに、その実態は様々な部分において洗練されておらず、無骨で運用面での様々な特性・利便を無視した設計でありドイツからみた戦車戦術からするとまだまだ問題の多い戦車であったといえその性能はさまざまな部分において欠陥が指摘されているであろう。だが、戦術という面ではなく戦車単独でみる限りにおいてその性能はずばぬけていた。ロシアの大地に最適な戦車であり大量生産しうる体制を確立し、それらを加味したうえで必要十分な性能を持った時代が必要としていた戦車そのものだったのである。独ソ戦という状況、かつロシアの平原においては既存のドイツ戦車を駆逐する性能と生産性と整備性を維持している驚異的な戦闘車両であった。ドイツから指摘しうる欠陥は砲塔、砲など着実に変更・修正され、やがて三人乗りの大型砲塔に85mmの砲を積むことによって中戦車としてはその量産性をもってしてドイツ軍を圧倒することになるのである。それに及ばず、トラックを利用した簡易なロケット砲(カチューシャ)、ソ連空軍は襲撃機といった対地攻撃に特化した航空機(シュトゥルモヴィーク)を量産し対抗した。, 赤軍はその膨大な予備兵力によって、1941年夏の圧倒的な敗北から敗北を理解し、1941年冬の攻勢の失敗から攻勢のなんたるかを理解した。そして、予備兵力にかげりが見られるかと思われる段階において、もはや予備兵力のないナチス・ドイツに対して1944年夏の最大の大攻勢を行うのである。, ロシアの鉄道はドイツとは軌間(レールの幅)が異なり(ドイツが標準軌なのに対し、ソ連は1524mm(現在の公式発表では1520mm)のロシアゲージ(広軌の一種))、そのままではドイツから直接列車を乗り入れることができなかった。ドイツ側は列車の鹵獲をあてにしていたが、ソ連側はウラルへの工場疎開と同時に列車を避難させていたためドイツ軍の鹵獲は思うように行かず、結局、工兵によって線路を標準軌に変更する工事を行った。これらの線路はソ連側の逆襲時にアメリカの援助を受けて元のロシアゲージに戻されている。冬季のロシアの厳寒はドイツが持ち込んだ蒸気機関車を容易に故障させた。劣悪な路盤整備においては大型の機関車の導入も拒んだ。, 道路網は舗装が整備されていない悪路が多く、情報が不足していた。また、南北方向の道路網は比較的整備されていたが、東西に移動するドイツ軍の進撃には役に立たなかった。そのため、軍備増強を急いだために自動車化が完全ではなく、移動・補給の多くに鉄道と軍馬を必要としているドイツ軍にとっては困難な戦場であった。自国の生産だけでは間に合わず、占領国からもかき集めたトラックなどを含めて荒れ果てた道路での利用による故障は甚だしく、輸送の効率は非常に低いものになった。, また、同時期に戦場となっていた北アフリカは、広大な戦域(地図上でみても、西端から東端までの距離はベルリンからモスクワよりも遠い)にも関わらず、港湾付近以外では自動車以外の補給手段がないため、その作戦規模に比較して膨大な輸送用自動車が割かれていたことも大きな問題となっていた。確かに北アフリカ戦線は自動車以外の補給の方法は無かった。だが、要求する数量は明らかに作戦が生み出すものからすれば桁外れな数量であった。最前線の部隊への燃料補給を1とした場合、その9倍の燃料消費が必要となるほど補給部隊の消耗が激しかった。, それに対し、赤軍にはレンドリースによってアメリカから送りこまれた大量の軍用車両が配備されていた。カチューシャの台として用いられたものを含めたこれらの車両がなければ、バグラチオンのような電撃戦は不可能であったといわれている。, ドイツにおける冬期装備は考えられないほど遅れていた。例に漏れずドイツの装備は理想的なものを想定し、ロシアにおける冬期装備の準備を策定していたにもかかわらず、その配備は遅々として進まなかった。その装備はこの戦闘の冬季戦闘のどこに配当されたかと思うほどである。, ロシアの大地は内陸気候と土壌により、春と初冬には泥濘と化し、夏は乾燥、冬は厳寒の土地であった。春・初冬の泥濘の時期には移動はもとより、最低限の補給にも大きな影響を与えた。また、冬季の厳寒における戦線の維持も重大な問題であった。だがこれは攻められる側のロシアにとっては有利なことであった。大地そのものが要塞であり、毎年早くに訪れる冬将軍も侵略者を苦境に陥らせるのである。そしてさらに攻略する軍を苦しめるために行われるのが焦土戦術である。, 以上のことから、夏季にドイツ軍の攻勢・反撃を行うが冬には装備の不備から防戦に回り、赤軍は夏・冬に攻勢・反撃を行った。ナチス・ドイツ軍は電撃戦の成功を信じたのか、1941年(バルバロッサ)、1942年(ブラウ)でも冬季装備を全くといってよいほど装備していなかった。, 冬戦争におけるフィンランド国防軍との戦闘では醜態を晒した赤軍であるが、ドイツとの戦いでは日本との戦争に備えてシベリア方面にいた精鋭軍を投入できたことも大きかった。, かつて焦土作戦を展開し、大北方戦争でスウェーデンを、祖国戦争でナポレオン率いる大陸軍を撃退したロシアは、三度同じ戦略を決行することは明白であった。もっともこの作戦はロシア側にとっても多大な犠牲を強いることになった。, 後にソ連赤軍が攻勢に転じドイツ軍が防戦に回ると、ナチス・ドイツ軍は同じようにソ連領土内を焦土とし、多くの都市は廃墟を目にすることになった。戦争末期になるとヒトラーはドイツ国内の生産設備を破壊するよう命じたが(ネロ指令)、その予想は的中した。ソ連に占領された東部ドイツは産業が発達した地域ではなかったが、ソ連によって企業のみならず家庭からもありとあらゆるものが押収されることとなった。, 戦況の変化により各国は同盟する陣営を変えた。枢軸国側は一枚岩ではなく、長年問題を抱える隣国同士(ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア)が枢軸側として同盟していたこともあり、敵側に回って戦争状態に入ることに対し、問題を感じることなく対応することもあった。, ソビエトは第二次世界大戦開始当時の状況を見る限りにおいて侵略国であると考えられる。ポーランド、フィンランド、ルーマニア、バルト三国などの隣国に対しての行動は明らかに侵略そのものとみられた。これらの状況をふまえてイギリス・アメリカは困惑を含めて眺めていた。ナチス・ドイツが目論んでいるロシアの植民地化は地政学でいうランドパワーとしての地位を確立することになる。連合軍の目的は全体主義国家でありランドパワーとしての地位を復活しようとするナチス・ドイツの殲滅である。連合国にとってソビエトはその対象であるのか。共産主義を嫌っていることで知られるイギリスの首相チャーチルは、ナチス・ドイツとの戦争に勝利するという何事にも変えることの出来ない目的を遂行するために、「敵の敵は味方」として自身の信念を曲げてでも共産主義国家であるソ連と手を握るという判断を下すのである。, 独ソ戦が始まると、それまでたびたびソ連を非難していた英国はただちに大量の物資の援助を提案し、中立であったアメリカは5月に制定したレンドリース法(武器貸与法)をソ連にも適用することにした。ソ連と米英の協定は1941年10月に結ばれ、この時から1945年までに武器と物資がソ連に供与された。援助の効果は1942年に目立ちはじめ、1943年にはソ連軍の兵站物資・機材の相当部分を占めるようになった。大半の援助物資はペルシア回廊を経由して供給された。大ざっぱに言えば、スターリングラード戦までのソ連軍はほぼ自国製品で戦い、クルスク戦以降は援助物資とともに戦ったと言える。, 航空機、戦車などの正面装備、トラック、ジープ、機関車、無線機、野戦電話、電話線などの後方支援のための物資、さらに缶詰、靴、ブーツのような一般工業製品から銅、アルミニウムといった原材料まで、さまざまな援助物資が届けられた。供与兵器は、正面装備に関するかぎりソ連戦力で大きな比率を占めなかった。戦車はソ連製の方が要目上は優れていたため、前線で歓迎されない型もあったが、機械的信頼性の高さからアメリカ・イギリス製戦車が好まれる場合もしばしばあった。しかし、援助物資が兵站と経済、生活に与えた寄与は大きかった。主要工業地帯がドイツ軍に占領され、残る生産能力も兵器生産に向けられたことで、ソ連では後方支援と生活のための物資が著しく不足していたためである。また、兵站などはソ連が立ち遅れていた分野で、米英からの援助が重要であった。, スターリン以下のソ連の指導者は、援助がソ連の戦争遂行能力を支えていることを自覚していたが、同時に、ドイツ軍の戦力のほとんどをソ連が引き受けている以上、援助は当然だとも考えていた。アメリカのルーズベルト大統領は第二次世界大戦の最中の1942年5月、ソ連軍の活動とその影響を評価してこう記した。「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはできない」と。ソ連は米英軍が西ヨーロッパのいずれか(フランス、あるいはイタリア)に上陸して第二戦線を開くことを要求したが、この要請は1944年にノルマンディー上陸作戦が実施されるまでほぼ、満たされなかったといってよい。このためスターリンは、米英が自らは戦わず、独ソをともに消耗させようとしているのではないかという疑念を抱いていた。そこでソ連が米英に用いたのが、対独単独講和というカードであり、援助を止めさせないために単独講和をほのめかし続けた。, そしてソ連は獲得したポーランド東部領土の承認を英米に求め、ポーランド亡命政府とソ連の関係が悪化すると、ポーランド亡命政府との関係を絶つよう英米に要求を行った。結果としてポーランド国境についてはソ連の要求が通り、戦後ポーランドは大きく西に移動する形となった。, 連合国の勝利がほぼ確定的となった1944年になると、イギリスはソ連の東欧支配、さらには地中海への進出に警戒心を見せるようになった。モスクワ会談(英語版)ではチャーチルがスターリンと「パーセンテージ協定」を締結し、東欧に対するソ連の優越権を認める一方で地中海へのソ連の進出を食い止めようとした。, しかし、後のポツダム会談でソ連はさらに進出の意向を示す。さらにローズベルトの死去により副大統領から大統領に昇格したトルーマンも、人類初の核実験であるトリニティ実験の成功の報を受けてソ連への態度を硬化させた。そのためポツダム会談はローズベルトの融和的政策のもとでなされたヤルタ会談と全く異なるものとなった。, 共通の敵を失った連合国の列強は再びイデオロギーの対立に立ち戻り、冷戦という対立軸へと向かうことになる。, ナチズムにおいてスラブ人は劣等民族として扱われており、またイギリスの海上封鎖によって食糧難に陥っていたドイツでは、ソ連の土地から食糧を収奪することが喫緊の課題であった。占領地域に民族ドイツ人を植民し、ドイツ領土化するという「東部総合計画」はこの時期に立てられたものである。四カ年計画庁と食糧次官ヘルベルト・バッケは、ドイツが戦争を遂行するためには、3年間現地において国防軍が食糧を調達することが必要であると試算している[28]。バッケらはこの食糧収奪によって数百万人のロシア人・スラブ人を結果的に餓死させるという計画を立案していた(飢餓計画(英語版))。彼らは最終的に3千万人のロシア人が餓死すると見込んでいた[28]。ゲーリングの大都市の占領は「望ましくなく、包囲して餓死させるべきである」という発言もこれにつながっている[29]。, また、親衛隊によって組織されたアインザッツグルッペンは、占領地域の治安維持のためとしてユダヤ人・共産主義者・パルチザンの検挙・殺害を組織的に行った。ドイツ占領地ではホロコースト実行のために親衛隊が活発な活動を行い、国防軍もこれに協力した(清廉潔白な国防軍)。, 一方で、ソ連軍は敵の捕虜に対して苛酷な労働を課した(ソ連は捕虜の待遇を定めたジュネーブ条約を批准していなかった)。ソ連軍が東欧に侵攻すると報復の対象は民間人にも及び、激しい略奪と暴行が繰り返された。, ドイツの捕虜になったソ連軍将兵や民間人のなかには、アンドレイ・ウラソフ将軍が組織したロシア解放軍やヒヴィなど、ドイツに与する対敵協力者となった者も少なくなかった。大戦後半、人的資源の枯渇に苦しむドイツ軍で多くのソ連出身者が弾薬、燃料輸送など後方活動に従事し、中には最前線でかつての「同志」に銃口を向ける者もいた。, 戦後、ソ連政府は「裏切り者」に対して容赦をせず、対独協力者としての過去が判明すれば、銃殺や絞首刑に処されたり、コルィマ鉱山等のシベリア各地への追放を受けた。, また、ドイツ軍人の中にも、パウルス元帥やフォン・ザイトリッツ=クルツバッハ将軍など、捕虜になった後に反ナチ運動に参加した者も存在した。, ドイツは戦争によって敗北し、ナチス政体は崩壊、アメリカ・ソ連・イギリス・フランスによる分割占領を受けることとなった(連合軍軍政期 (ドイツ))。その後東西両陣営の対立により、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)およびドイツ民主共和国(東ドイツ)の2国に分断されることとなった。この分断状態は1990年のドイツ再統一まで続くことになる。さらに東プロイセン等を含むオーデル・ナイセ線以東の領土を喪失し(旧ドイツ東部領土)、これらの土地や東欧に住んでいたドイツ人はドイツ本国へと追放された(ドイツ人追放)。また戦争賠償として、ドイツ国内の原料や生産設備が現物徴収され、ソ連軍の捕虜は労務による賠償を負わされた(第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償)。, 独ソ戦は連合国の対ナチス・ドイツ戦争の中で最大の戦域であり、それに膨大な損害を出しながら勝利したソ連の威信は極めて大きなものとなり、戦後秩序における超大国としての位置を確立した。また新領土としては東プロイセンのケーニヒスベルクとその周辺地域、カーゾン線以東の旧ポーランド領土を獲得している。またソ連は占領した東欧地域の政権を社会主義化し、自由な選挙によって政体を決定するという連合国間の合意は反故となった。アメリカ合衆国・イギリスとの摩擦は大きくなり、冷戦への道に至ることになる。, ドイツが降伏した日はヨーロッパ戦勝記念日として現在でも各地で式典が行われている。2004年には国際連合総会において、5月8日と9日が第二次大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日と定められている。, ドイツの敗戦40周年にあたる1985年5月8日、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領がドイツ連邦議会で記念の演説を行った際に次のように述べている。
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