職 歴 平成元年 岡山県作陽高等学校 非常勤講師 17 Goals to Transform Our World, https://www.youtube.com/watch?v=WXpZ-b4Qskg, わかりやすく言えば、今地球上に生きている私たちが、「私たちの次の世代の人類のために、今何をすべきか」ということを世界全体で考えて取り組んでいこうというものです。さらに詳しく知りたい人は、インターネット等にさまざまな情報がありますので、自主的に調べてみましょう。, 「SDGsの17の目標から一つを取り上げ、その目標について自分ができることは何かを考えてみよう。」 (字数制限等はありません), 提出用紙(こちらのページ【pdf】)をプリントアウトし、自分の考えを記入して、次回の登校日以降に担任に提出してください。, PDFファイルを拡大するには、上記【校長コラム 「校長からの課題~SDGsっ...】をクリックして下さい。, PDFファイルを拡大するには、上記【校長コラム 「校長からの課題~SDGsって知ってますか」 】をクリックして下さい。, PDFファイルを拡大するには、上記【R2.05.13_校長課題提出用紙】をクリックして下さい。, PDFファイルを拡大するには、上記【臨時休業中の過ごし方について】をクリックして下さい。, 全国高校総体の中止が決定され、すでに報道されているところです。 体育会系部活動に所属し、インターハイ予選に向けて努力を続けてきた3年生にとっては、受け入れがたい残念な決定となってしまいました。全国高体連の先生方も、なんとか皆さんの今までの努力、頑張りに報いることができないかと、あらゆる可能性を追及して検討されてきましたが、現在の新型コロナウイルスの感染状況等から安全に大会を運営することは困難であるとの判断により、断腸の思いで出された結果だと思います。 「なんで自分たちが3年生の時にこんなことが起きるんだ」「今まで努力してきたことは何だったのか」というやりきれない思いを抱いている人も多いことと思います。3月に臨時休業が始まり、さまざまな行事が中止されていく度に、皆さんに対して我々教職員は何ができるのだろうか、ということをいつも考えさせられてきました。残念なことですが、我々は皆さんの悲しみや苦しみを取り除く特効薬を持ち合わせているわけではありません。我々は、皆さんが自分の心の傷を自分自身で直していけるように慰めたり、励ましたりして手助けをすることしかできないのです。 竹内まりやさんの「いのちの歌」という曲が私は好きです。前任校の吹奏楽部員たちが演奏会の度に、合唱でこの歌をよく歌ってくれました。歌詞の一節を紹介します。 「生きてゆくことの意味 問いかけるその度に 胸をよぎる愛しい人々のあたたかさ (中略) 泣きたい日もある 絶望に嘆く日も そんな時そばにいて 寄り添うあなたの影」 人の一生の中には耐えきれないような辛く悲しい出来事が起きることがあります。でも、人はなんとかそれを乗り越え、自分の中で折り合いをつけながら生きていかなければなりません。精神的に強くて一人で乗り越えていける人もいるかもしれませんが、多くの人々は、そばで寄り添ってれる人の存在が大きな支えとなって乗り越えていけるのではないかと思います。 誰も経験したことがない、先行きの見通せない辛い状況が続いています。皆さんは一人ではありません。生徒の皆さんが自分自身の足で歩いて、この暗いトンネルから抜け出せるように、我々城陽高校の教職員はそばで寄り添い支えていきたいと思っています。 最後に「いのちの歌」の一節をもう一度紹介しておきます。 「本当に大事なものは 隠れて見えない ささやかすぎる日々の中に かけがえない喜びがある」機会があれば、ぜひ一度「いのちの歌」を聞いてみてください。, 大学に入学し、体育会系のラグビー部に入部することになりました。当時の大学ラグビー界は、今は亡き「ミスターラグビー」こと平尾誠二さんを有する同志社大学が大学選手権で初の3連覇を成し遂げるなど、大学ラグビー界のトップを走っていました。関西大学リーグは同志社大学を含む8大学が所属するAリーグを筆頭に、Dリーグまでのカテゴリーがありました。私の大学は、私が入学する前年度にCリーグで優勝し、初のBリーグ昇格を果たしたところでした。そんな年に入部したわけですが、すぐに後悔することになります。なぜなら、想像以上に練習がキツかったからです。キャプテンが4回生と相談しながら練習計画を立てるわけですが、秋のリーグ戦で初めてBリーグで戦うことになったため、今まで以上にハードな練習メニューが課せられることになりました。浪人していた私は1年間ほとんど運動をしていなかったため、ついていくのに必死でした。走り込みの練習などでは、よく先輩に置いて行かれたものです。近隣の私立大学が週に1度だけ合同練習に来ていましたが、練習がハードすぎるため、いつの間にか来なくなっていたほどでした。また、当時の大学の体育会は上下関係が厳しく、1回生は練習の準備や用具の手入れなど、練習以外にやらなければならないことがたくさんありました。それがきちんとできていないと、練習後に1回生が残されて「反省練習」をさせられるということも度々ありました。(今のご時世では考えられませんが、1回生は自分の誕生日になると先輩からの「お祝い」と称して大学の構内の池に投げ込まれるという恒例行事があり、自分の誕生日をひた隠しにしていた記憶があります。結局、先輩方にはバレていて、きっちり池に投げ込まれました。)結局、その年のリーグ戦では2勝を挙げ、8チーム中5位という成績でBリーグに残留。その後は、残念ながら、私が3回生の時にBリーグから降格、大学最後のシーズンはCリーグで戦うこととなりました。大学ラグビー部での思い出は、まだまだたくさんありますが、書き出せばきりがありませんのでこれぐらいにしておきます。最後に、この経験によって私が得たものを、二つだけ紹介しておきたいと思います。まず一つ目は、4年間しんどい練習をやりきったことが大きな自信となりました。教員になってからしんどいことがあっても、「あのしんどい4年間をやりきったのだから、これぐらいことは大したことがない」と思えるようになりました。少々のことではへこたれない、精神的な強さを持てるようになったことは大きな財産となっています。二つ目は、かけがえのない仲間を得られたことです。人間は究極の状況まで追い込まれると、建前だけではやっていけなくなります。私が過ごしたラグビー部での4年間は、先輩、同期、後輩たちと本音でぶつかり合う日々でした。そんなやり取りの中で、自分の弱さや未熟さに気づくことも多かったと思います。お互いに隠し事なく素の自分をさらけ出し、一つの目標に向かってやってきた仲間との間にはかけがえのない絆が生まれました。今でもかつての仲間に出会うと、なんの気兼ねもなく本音で語り合うことができます。かつての先輩、同期、後輩たちの多くは、大学卒業後にさまざまな校種でラグビーの指導に携わり、優秀な人材を育てています。ちなみに、昨年のワールドカップで活躍した田中史朗選手の中学時代の恩師も私の先輩です。こうして大学4年間の生活を終えた私は、京都府の教員として採用され、いきなり母校に赴任することとなりました。恩師のI先生もまだ城陽高校におられ、同じ学年部に入れていただき、一緒にラグビー部の顧問となることもできました。私の夢は最高の形で叶うこととなったのです。 私とラグビーとの出会いのお話はこれまでにしておきます。 次は別の話題でみなさんに伝えたいことができれば、またコラムを書きたいと思います。, 生徒の皆さん、こんにちは。校長の畑中です。新型コロナウイルス感染症拡大防止のための臨時休業が続いていますが、皆さんはどんな日々を送っていますか。実は、我々教職員も4月21日から、交代制による在宅勤務の体制を取ることになりました。私も3日に1度だけ学校に勤務しますが、残りの日は在宅勤務をすることになりました。自宅で過ごす時間を有意義に使うために、何か書いてみようと思い立ち、この「校長コラム」を始めることにしました。今後は不定期に更新していきます。今回は、自分がなぜラグビーをやることになったのか、そしてラグビーとの出会いが自分の人生にどのような影響を与えたのかについて書いてみたいと思います。自分の事を書くのは恥ずかしいですが、皆さんにとって、何か考えるヒントにでもなれば嬉しいです。私は、中学校(城陽中学校出身です)では卓球部に所属していました。ただ、その当時の城陽中学は女子に有望な選手が多く、男子はその練習相手をさせられていて、あまり期待もされず、結果も挙げられずといった3年間を送りました。そんなこともあって卓球には限界を感じていた私は、高校に入ったら何か新しいスポーツをやろうと思っていました。入学後の体験入部期間中に、複数の友人たちと一緒にグラウンドでやっている部活を見に行きました。グラウンドの真ん中あたりで、見慣れない楕円形のボールを使って遊んでいる(?)3~4人の先輩を見つけました。その中の一人の先輩が我々に気づいて、近くまで走ってこられて、「自分たちのラグビー部は今人数が足りない。だから、今入部したら即レギュラーになれるよ」といった内容のことを言われました。まだ純粋だった私は、まだ純粋だった友人たちと、まんまとその言葉に騙されてラグビー部に入部することになりました。入ってみて気づいたのは、ラグビーというスポーツは、「キツイ」「汚い」「危険」といういわゆる「3Kスポーツ」だということでした。しかも先輩方にはかなり個性的な人が多く、しんどくても辞めるなんてことは絶対に言えないような雰囲気が漂っていました。わかりやすい例えでいうと、スクールウォーズの世界に入り込んでしまって、抜けたくても抜けられない、そんな感じでした。ちなみに、スクールウォーズのモデルとなった伏見工業高校(現:京都工学院)が初の全国制覇を遂げるのは、それから1年9か月後の、私が高校2年生の冬のことです。そんな個性的な先輩たちを相手に顧問をされていたのが、私の恩師「I先生」です。I先生ご自身にはラグビーの経験はなく、体格も非常に小柄な方でしたが、負けん気とガッツは人一倍あり、やんちゃな先輩方に一歩も引くことなく、日々グラウンドに立って熱心に指導されていました。その後、何度も辞めたいと思いましたが、私自身もなんとかキツイ練習にも慣れてきて、ラグビーを続けることができました。たまたま、同級生や後輩たちに運動能力の高い選手が揃っていたため、だんだんと試合で勝てるようになり、高校2年生の冬の新人戦で初めて京都府のベスト8に入ることができました。私自身もその試合でトライをすることができたので、忘れられない思い出となっています。残念ながら、その後の準々決勝では全国優勝した直後の伏見工業高校に、けちょんけちょんにやられて100対0ぐらいで負けてしまいました。でも、それからしばらくの間はベスト8常連校として一定の成績を残せることができたのではなかったかと思います。高校3年生になり、自分の進路についてどうするか悩んでいた時に、顧問のI先生がおっしゃった言葉が私の進む道を決めてくれました。「お前は教師向きの性格や。お前は教師になれ」漠然と、将来は毎日が変化のある仕事に就きたいと考えていた私にとって、恩師が自信を持って将来の方向性を示してくださったことは、本当に嬉しく、ありがたいアドバイスでした。それから私の夢は「高校の教員になってラグビー部の顧問になる」に決まりました。地元の教育系の大学を第一志望にして受験勉強に取り組みましたが、見事に不合格。夢を諦めて教員免許の取れない私立大学に進もうかと迷いましたが、I先生の「絶対にあきらめずに夢をかなえろ」というアドバイスに従って浪人し、1年後に無事志望校に合格することができました。こうして私は夢への第一歩を踏み出すことができたのです。城陽高校のラグビー部に入部してI先生と出会ったおかげで自分の進むべき道を見つけることができました。このように部活動に入るということは、そこで様々な人との出会いがあります。その出会いにより、様々な影響を受けながら人は成長していくものです。自宅の部屋にこもってスマートフォンをいじっているだけでは得られない、かけがえのない大切なものを見つけることができます。1年生の皆さんも、ぜひ素敵な出会いを求めて部活動に入りましょう。2・3年生の皆さんは、部活動で出会えた大切な人々と、お互いに切磋琢磨しながら一緒に成長していってほしいと思います。大学以降のお話は「その2」に続きます。今回はここまでです。, 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