第二次世界大戦での死者数について質問です。 敗戦した日本含む枢軸国の戦死者は軍人、民間合わせて1200万人。 対してアメリカ含む連合国の戦死者は5000万人。 このような差があるのは何故な ので … ): Gerhard Hirschfeld, Gerd Krumeich, Irina Renz (Hrsg. Thirty Persons Witness Momentous Act in Frelinghuysen Living Room at Raritan.”, https://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F10B13F63C5D14738DDDAA0894DF405B818EF1D3, https://books.google.com/books?id=B84ZaAdGbS4C&pg=PA204, https://books.google.com/books?id=EjZHLXRKjtEC&pg=PA584, The Surrogate Hegemon in Polish Postcolonial Discourse Ewa Thompson, Rice University, “Appeals to Americans to Pray for Serbians”, https://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=1&res=9406E4D8143EE433A25754C2A9619C946996D6CF, https://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=1&res=990CEFDC113BEE3ABC4D53DFB7678383609EDE, The Minor Powers During World War One – Serbia, “'ANZAC Day' in London; King, Queen, and General Birdwood at Services in Abbey”, https://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9400E1DD113FE233A25755C2A9629C946796D6CF&scp=12&sq=New+Zealand+anzac&st=p, “Canada's last WW1 vet gets his citizenship back”, https://web.archive.org/web/20080511014947/http://www.cbc.ca/canada/ottawa/story/2008/05/09/babcock-citizen.html, “Middle East turmoil is fuelling Ottoman nostalgia. DONKO, Wilhelm M.: "A Brief History of the Austrian Navy" epubli GmbH, Berlin, 2012, p. 79. 戦間期には未来の「ガス戦争」に対する想像としてReginald Glossopが1932年に出版した. Were they always called World War I and World War II? https://books.google.com/books?id=-1cvAAAAMAAJ&pg=PA247, European powers maintain focus despite killings in Sarajevo — History.com This Day in History, https://books.google.com/books?id=CDJpAAAAMAAJ&pg=PA313, https://books.google.com/books?id=QGtWAAAAMAAJ, https://books.google.com/books?id=uJRnAAAAMAAJ, https://books.google.com/books?id=c8Xb6x2XYvIC&pg=PA29, http://www.telegraph.co.uk/history/world-war-one/11002644/First-World-War-centenary-how-events-unfolded-on-August-1-1914.html, Daily Mirror Headlines: The Declaration of War, Published 4 August 1914, Disaster on the Drina: The Austro-Hungarian Army in Serbia, 1914, Bericht von Botschafter Wangenheim an Reichskanzler Bethmann Hollweg vom 17. Juni 1915, Bericht von Vizekonsul Scheubner-Richter an Botschafter Wangenheim vom 28. 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7千万以上の軍人(うちヨーロッパ人は6千万)が動員され、史上最大の戦争の一つとなった[4][5]。第二次産業革命による技術革新と塹壕戦による戦線の膠着で死亡率が大幅に上昇し、ジェノサイドの犠牲者を含めた戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡した。史上死亡者数の最も多い戦争(英語版)の一つであり、この戦争は多くの参戦国において革命や帝国の解体といった政治変革を引き起こした。終戦後(戦間期)も参戦国の間に対立関係が残り、その結果わずか21年後の1939年には第二次世界大戦が勃発した[6]。, 戦争は世界全ての経済大国を巻き込み[7]、それらを連合国(ロシア帝国、フランス第三共和政、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国の三国協商に基づく)と中央同盟国(主にドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国)の両陣営に二分した。イタリア王国はドイツおよびオーストリア=ハンガリーと三国同盟を締結していたが、オーストリア=ハンガリーが同盟の規定に違反して防衛ではなく侵略に出たため、イタリアは中央同盟国に加入しなかった[8]。諸国が参戦するにつれて両陣営の同盟関係は拡大されていき、例えば大日本帝国とアメリカ合衆国は連合国側に、オスマン帝国とブルガリア王国は中央同盟国側について参戦した。, 参戦国や戦争に巻き込まれた地域は、2018年時点の国家に当てはめると約50カ国に達する[9]。, 戦争の引き金となったのは1914年6月28日、ユーゴスラヴィア民族主義者(英語版)の青年ガヴリロ・プリンツィプが、サラエヴォへの視察に訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺した事件(サラエボ事件)だった。これにより、オーストリア=ハンガリーはセルビア王国に最後通牒を発するという七月危機が起こった[10][11]。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる[12]。そして、それまでの数十年間に構築されていた欧州各国間の同盟網が一気に発動された結果、数週間で主要な欧州列強が全て参戦することとなった。, まず7月24日から25日にはロシアが一部動員を行い、28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告すると、ロシアは30日に総動員を命じた[13]。ドイツはロシアに最後通牒を突き付けて動員を解除するよう要求、それが断られると8月1日にロシアに宣戦布告した。東部戦線で人数的に不利だったロシアは三国協商を通じて、同盟関係にあるフランスに西部で第二の戦線を開くよう要請した。1870年の普仏戦争の復讐に燃えていたフランスはロシアの要請を受け入れて、8月1日に総動員を開始、3日にはドイツがフランスに宣戦布告した。独仏国境は両側とも要塞化されていたため、ドイツはシュリーフェン・プランに基づきベルギーとルクセンブルクに侵攻、続いて南下してフランスに進軍した。しかしその結果ドイツがベルギーの中立を侵害したため、8月4日にはイギリスがドイツに宣戦布告した[14][15]。イギリスと同盟を結んでいた日本も8月23日にドイツに宣戦布告した。, ドイツ陸軍のパリ進軍が1914年9月の第一次マルヌ会戦で食い止められると、この西部戦線は消耗戦の様相を呈し、1917年まで塹壕線がほとんど動かない状況となった。東部戦線ではロシアがオーストリア=ハンガリーに勝利したが、ドイツはタンネンベルクの戦いと第一次マズーリ湖攻勢でロシアによる東プロイセン侵攻(英語版)を食い止めた。1914年11月にオスマン帝国が中央同盟国に加入すると、カフカースと中東(メソポタミアやシナイ半島)の戦線が開かれた。1915年にはイタリアが連合国に、ブルガリアが中央同盟国に加入した。ルーマニア王国とアメリカはそれぞれ1916年と1917年に連合国に加入した。, ロシアでは1917年3月に二月革命によって帝政が崩壊し、代わって成立したロシア臨時政府も十月革命で打倒され、軍事上でも敗北が続くと、ロシアは中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結して大戦から離脱した。1918年春にはドイツが西部戦線で春季攻勢を仕掛けたが、連合国軍は百日攻勢(英語版)でドイツ軍を押し返した。1918年11月4日、オーストリア=ハンガリーはヴィラ・ジュスティ休戦協定を締結。ドイツも革命が起こったため休戦協定を締結し、戦争は連合国の勝利となった。, 戦争終結前後にはドイツ帝国、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国などのいくつかの帝国が消滅した。国境線が引き直され、独立国として9つの国家が建国されるかあるいは復活した[16]。また、ドイツ植民地帝国は戦勝国の間で分割された。, 1919年のパリ講和会議においては「五大国」(イギリス、フランス、日本、アメリカ、イタリア)が会議を主導し、一連の講和条約を敗戦国に押し付け、敗戦国の領土を分割した。大戦後には、再び世界大戦が起こらないことを願って国際連盟が設立されたが、この取り組みは失敗した。世界恐慌、民族主義の復活、後継国家の弱体化、敗戦国側(特にドイツ)の屈辱感は、やがて第二次世界大戦を引き起こすこととなった。, 軍事的には列強が人員や経済力、工業技術を大規模に動員する国家総力戦であった。航空機や化学兵器(毒ガス)、潜水艦、戦車といった新兵器が大規模または史上初めて使われた[17](軍事技術も参照)。, 第一次世界大戦は、第二次世界大戦が勃発するまで、単に世界戦争 (World War) または大戦争 (Great War) と呼ぶのが一般であった[18]。あるいは、欧州大戦 (War in Europe) 、戦争を終わらせるための戦争 (the war to end wars[19]) という表現もあった[19][20]。第二次世界大戦以降は、主に第一次世界戦争(First World WarまたはWorld War I)と呼ばれるようになった[21][22]。このうち「世界戦争」(ドイツ語: Weltkrieg)という用語が初めて使われたのはドイツ帝国であり、この名称が使われた背景にはドイツの帝国主義政策「世界政策(英語版)」 (Weltpolitik) の存在などがあったという[23]。1917年のアメリカ合衆国参戦後、合衆国国内でも「世界戦争」という名称が従来の「ヨーロッパ戦争」に取って代わった[23]。, 「第一次世界戦争」(First World War) という語が初めて使われたのは、1914年9月、ドイツの生物学者、哲学者であるエルンスト・ヘッケルが「恐れられた『ヨーロッパ戦争』は疑いもなく(中略)完全な意味での初の世界戦争 (the first world war) となるだろう」と述べた時だった[注釈 3][24]。1939年に第二次世界大戦が勃発した後「第一次世界戦争」という用語が主流になったが、イギリスとカナダの歴史家はFirst World Warを、アメリカの歴史家はWorld War Iを多用した[25]。, 一方、「大戦争」(英語: Great War、フランス語: la Grande Guerre)という語は、主に大戦中のイギリス・フランス両国で用いられた[23]。カナダでも1914年10月号のマクリーンズ誌(英語版)が「大戦争」(Great War) とした[26]。1930年代以降、英仏両国でも「世界戦争」が第一次世界大戦の名称として使われるようになるが、2014年においても第一次世界大戦を指して「大戦争」と呼ぶ用法は両国内で広く用いられているという[23]。, 歴史家のガレス・グロヴァー (Gareth Glover) は著書の『100の物が語るウォータールー』(Waterloo in 100 Objects) で、「この前置きは大戦争という名称が常に1914年から1918年までの第一次世界戦争を意味する環境で育った人にとっては当惑するものかもしれない。しかし、1918年以前を生きた人々にとって、大戦争という称号はイギリスが1793年から1815年までの22年間、フランスと戦った革命戦争とナポレオン戦争を意味した」と述べた[27]。例えば、歴史家のジョン・ホランド・ローズは1911年に『ウィリアム・ピットと大戦争』(William Pitt and the Great War) という著作を出版したが、題名の「大戦争」はフランス革命戦争とナポレオン戦争を指している。, 木村靖二によれば、日本で定着した名称「世界大戦」は、「世界戦争」と「大戦争」のいずれでもなく両者を組み合わせたものであり、他国には見られない珍しい名称であるという[23]。, 19世紀の間、ヨーロッパ列強は勢力均衡を維持しようとして様々な手を使い、1900年までに複雑な政治と軍事同盟網を築き上げた[28]。その端緒となったのは1815年にプロイセン王国、ロシア帝国、オーストリア帝国の間で締結された神聖同盟であった。1871年にドイツが統一を成し遂げると、プロイセン王国はドイツ帝国の一部となった。直後の1873年10月、ドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクはオーストリア=ハンガリー、ロシア、ドイツの間の三帝同盟を交渉したが、オーストリア=ハンガリーとロシアがバルカン半島政策をめぐって対立したため、ドイツは1879年にオーストリア=ハンガリーと単独で独墺同盟を締結した。これはオスマン帝国が衰退(英語版)を続ける中、ロシアがバルカン半島での影響力を増大させるのに対し両国が対抗するためだった[8]。1882年にはイタリア王国が加入して三国同盟になった[29]。, ビスマルクはフランスおよびロシアとの二正面作戦を防ぐべく、ロシアをドイツ側に引き込もうとした。しかし、ヴィルヘルム2世がドイツ皇帝に即位すると、ビスマルクは引退を余儀なくされ、彼の同盟網は重要性が薄れていった。例えば、ヴィルヘルム2世は1890年にロシアとの独露再保障条約の更新を拒否した。その2年後にはロシアが三国同盟への対抗としてフランスと露仏同盟が締結した。イギリスも1904年に英仏協商を、1907年に英露協商を締結した。これらの協定はイギリスとフランス、ロシア間の正式な同盟ではなかったが、フランスとロシアが関与する戦争にイギリスが参戦する可能性が出て、これらの二国間協定は後に三国協商と呼ばれた[8]。, 普仏戦争後の1871年にドイツ統一が成し遂げられ、ドイツ帝国が成立すると、ドイツの政治と経済力が大きく成長した。1890年代中期以降、ヴィルヘルム2世率いるドイツ政府はそれを基盤として莫大な資源を投入、アルフレート・フォン・ティルピッツ提督率いるドイツ帝国海軍を設立して、海軍の優越をめぐってイギリス海軍と競争した[30]。その結果、両国は主力艦の建造でお互いを追い越そうとした。1906年にイギリスのドレッドノートが竣工、イギリス海軍の優勢を拡大させた[30]。英独間の軍備拡張競争は全ヨーロッパを巻き込み、列強の全員が自国の工業基盤を軍備拡張に投入し、汎ヨーロッパ戦争に必要な装備と武器を準備した[31]。1908年から1913年まで、ヨーロッパ列強の軍事支出は50パーセント上昇した[32]。, オーストリアは、1878年にオスマン帝国領だったボスニア・ヘルツェゴヴィナを占領した(英語版)が、1908年にそれを正式に併合して、1908年から1909年にかけてのボスニア危機を引き起こした。これはセルビア王国とその後援国で汎スラヴ主義を支持していたロシア帝国を激怒させた。バルカンでの平和合意は既に揺らいでおり、さらにロシアの政治活動もあってバルカンは「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるに至った[33]。1912年から1913年にかけて、バルカン同盟と徐々に解体していったオスマン帝国の間で第一次バルカン戦争が勃発。その講和条約であるロンドン条約ではアルバニア公国が独立した一方、ブルガリア王国、セルビア王国、モンテネグロ王国、ギリシャ王国は領土を拡大した。1913年6月16日にブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃して第二次バルカン戦争が起き、この33日間の戦争ではブルガリアが大敗。マケドニアの大半をセルビアとギリシャに、南ドブルジャ(英語版)をルーマニア王国に割譲せざるをえず、バルカンが更に不安定になった[34]。列強はこの時は紛争をバルカン半島内に抑えることに成功したが、次の紛争はヨーロッパ全体に飛び火し、戦火はやがて全世界を巻き込んだ。, 1914年6月28日、オーストリアのフランツ・フェルディナント大公は共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(英語版)の首都サラエボを訪問した。ユーゴスラヴ主義(英語版)組織青年ボスニア(英語版)からの暗殺者6人(クヴジェトコ・ポポヴィッチ(英語版)、ガヴリロ・プリンツィプ、ムハメド・メフメドバシッチ(英語版)、ネデリュコ・チャブリノヴィッチ(英語版)、トリフコ・グラベジュ、ヴァソ・チュブリロヴィッチ(英語版))はセルビア黒手組の物資提供を受けて、大公を暗殺すべく大公の車列が通る街道で集まった。チャブリノヴィッチは手榴弾を車に投げつけたが外れ、近くにいた人々が負傷しただけに留まった。大公の車列はそのまま進み、チャブリノヴィッチ以外の暗殺者が動けないのを尻目に無事通過した。, フェルディナントは、爆発で怪我した者の見舞いにサラエボ病院に行ったが、約1時間後の帰りでは車が道を誤って方向転換、ちょうどプリンツィプのいた道に入った。プリンツィプはピストルで大公と大公の妻ゾフィー・ホテクを射殺した。オーストリア人の間では反応が薄く、ほぼ無関心に近い状態だった。歴史家のズビニェク・ゼマン(英語版)は後に「事件は人々に印象を残すことにほとんど失敗した。日曜日と月曜日(6月28日と29日)、ウィーンの大衆はまるで何も起こらなかったように音楽を聴いたりワインを飲んだりした」[37][38]。一方、帝位継承者の暗殺という事件は政治に重大な影響を与え、21世紀の文献では「9月11日効果」と形容するものもある[39]。また、大公夫婦とは個人的には親密ではなかったが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は衝撃を受けて、うろたえた。, オーストリア=ハンガリー当局は、サラエボの反セルビア暴動(英語版)を煽動した。その結果、サラエボではボスニア系セルビア人(英語版)2人がボスニア系クロアチア人(英語版)とボシュニャク人により殺害され、またセルビア人が所有する多くの建物が損害を受けた[40][41]。セルビア人に対する暴力はサラエボ以外でも組織され、オーストリア=ハンガリー領ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアなどで起こった。ボスニア・ヘルツェゴヴィナのオーストリア=ハンガリー当局は目立ったセルビア人約5,500人を逮捕、送還したが、うち700から2,200人が監獄で死亡した。ほかにはセルビア人460人が死刑に処された。主にボシュニャク人で構成された「Schutzkorps」も設立され、セルビア人を迫害した[42][43][44][45]。, 暗殺事件により、七月危機と呼ばれる、1か月間にわたるオーストリア=ハンガリー、ドイツ、ロシア、フランス、イギリス間の外交交渉が行われた。セルビア当局、特に黒手組関連が大公暗殺の陰謀に加わっていると考え(後に事実であると判明)、セルビア人のボスニアにおける影響力を消滅させようとした[46]オーストリア=ハンガリーは7月23日にセルビアに対し最後通牒を発し、セルビアとの戦争を引き起こすべく10点の要求を突き付けた[47]。セルビアは25日に総動員したが、暗殺事件の調査にオーストリア代表をセルビアに招き入れるという第6条を除いて最後通牒の要求を受諾した[48]。その後、オーストリアはセルビアとの外交関係を断絶、翌日に一部動員を命じた。そして、1914年7月28日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦布告した。, 7月29日、ロシアはセルビアを支持してオーストリア=ハンガリーに対する一部動員を行ったが[13]、翌30日には総動員に切り替えた。ヴィルヘルム2世はいとこにあたるロシア皇帝ニコライ2世にロシアの総動員を取りやめるよう求め、ドイツ首相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークは31日まで回答を待った。ロシアがヴィルヘルム2世の要請を断ると、ドイツはロシアに最後通牒を発し、動員を停止することと、セルビアを支援しない確約を要求した。またフランスにも最後通牒を発して、セルビアの守備に関連する場合、ロシアを支持しないよう要求した。8月1日、ロシアが回答した後、ドイツは動員してロシアに宣戦布告した。これにより、オーストリア=ハンガリーでも8月4日に総動員が行われた。, ドイツがフランスに中立に留まるよう要求したのは、兵力展開の計画を選ばなければならなかったためであった。当時、ドイツでは戦争計画がいくつか立てられており、どれを選んだとしても兵力の展開中に計画を変更することは困難だった。1905年に立案され、後に修正されたドイツのシュリーフェン・プランでは軍の8割を西に配置するアウフマーシュ・II・ヴェスト(Aufmarsch II West)と軍の6割を西に、4割を東に配置するアウフマーシュ・I・オスト(Aufmarsch I Ost)とアウフマーシュ・II・オスト(Aufmarsch II Ost)があった。東に配置する軍が最大でも4割留まりだったのは、東プロイセンの鉄道の輸送率の上限であったからだった。フランスは回答しなかったが、自軍を国境から10km後退させて偶発的衝突を防ぎつつ予備軍を動員するという、立場が不明瞭な行動をした。ドイツはその対処として予備軍を動員、アウフマーシュ・II・ヴェストを実施すると決定した。8月1日、ヴィルヘルム2世はフランスが攻撃されない限りイギリスが中立に留まるという誤報を受けて、小モルトケに「全軍を東に進めよ」と命じた。小モルトケは兵士100万人の再配置は不可能であり、しかもフランスにドイツを「背後から」攻撃する機会を与えるのは災難的な結果を引き起こす可能性があるとヴィルヘルム2世を説得した。しかしヴィルヘルム2世はドイツ軍がルクセンブルクに進軍しないことを堅持、いとこのイギリス国王ジョージ5世からの電報で先の情報が誤報であることを判明してようやく小モルトケに「今やあなたは何をしてもいい」と述べた[49][50]。ドイツは8月2日にルクセンブルクを攻撃、3日にフランスに宣戦布告した。4日、ベルギーがドイツ軍に対し、フランスへ進軍するためにベルギーを通過することを拒否すると、ドイツはベルギーにも宣戦布告した[51][52][53]。イギリスはドイツに最後通牒を発し、ベルギーは必ず中立に留まらなければならないと要求したが、「不十分な回答」を得た後、8月4日の午後7時にドイツに宣戦布告した(午後11時に発効)[54]。, 中央同盟国では、緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツはオーストリア=ハンガリーのセルビア進攻を支援すると確約していた。
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