*文中敬称略 しかし現実にはオリンピックで敗れたことにより、その責任を感じて現役を退くことも考えたが、恩師である原吉実に説得されて現役を続行することにしたとも語った[19]。11月には嘉納杯無差別に出場して、準決勝でコソロトフを警告で破るも、決勝ではバンバルネベルトから先に小外刈で有効を取るも裏投で技ありを取られて逆転負けを喫して2位に終わった[20]。, 1993年4月の全日本選手権決勝では金野から足車で一本勝ちして5連覇を達成した[19]。7月の体重別では決勝で関根を判定で破って優勝して世界選手権代表に選ばれた。10月にカナダのハミルトンで開催された世界選手権では無差別に出場したが、準決勝でポーランドのラファウ・クバツキに払釣込足で敗れるも、3位決定戦でハンガリーのチェース・イムレを掬投で破った。なお、今大会で小川が3位に終わったことにより、世界選手権の無差別における日本選手の連勝記録が13連覇で止まることになってしまった[3][21]。, 1994年4月の全日本選手権準決勝では、大学の後輩である新日本製鐵の吉田秀彦と対戦して、前半は優勢に試合を進められるが中盤に支釣込足で大きく崩すも判定となり、1-2の微妙な内容ながら敗れて大会6連覇はならなかった。12月には講道館杯に出場するも、決勝で天理大学の篠原信一に0-3の判定で敗れた。引退後には、自分の指導者人生は小川に始まり小川で終わるとまで述べた原吉実との師弟対談において、この時期の判定に関しては納得いかず、「正直言って、俺に引退されたら困らないのかなあ、それにしては乱暴な扱いだなあと思っていましたよ」と大きな不満を抱いていたことを率直に語っていた[3]。, 1995年の2月にはフランス国際に出場するが、準決勝でドゥイエに大内刈で敗れるも、3位決定戦ではアルゼンチンのオルランド・バッチーノを足車で破った。続いてオーストリア国際にも出場するが、準決勝でオーストリアのエリック・クリューゲルに指導を取られ敗れて3位決定戦は棄権した。3月には6年ぶりに全日本選手権の東京予選に出場すると、出場権を確保したベスト8の段階で棄権した。4月の全日本選手権では決勝で篠原を横四方固で破り、2年ぶり6度目の優勝を果たした[3]。5月の体重別準決勝では金野相手にお互いに牽制しあうあまり両者反則負けとなった。6月の実業団体1部決勝での新日本製鐵戦では吉田と対戦するが引き分けとなり、チームも2位に終わった。9月に幕張で開催された世界選手権では、準決勝でドイツのフランク・モラーに一本背負投で有効を取られて敗れるが、3位決定戦ではトルコのセリム・タタログルに足車で一本勝ちした。12月の講道館杯決勝では金野に2-1の微妙な判定ながら勝利した[22], 1996年2月のフランス国際では準決勝でタタログルに体落で一本勝ちすると、決勝はクバツキの棄権により優勝を果たした。4月の体重別準決勝では篠原を注意で破るが、決勝で警視庁の真喜志慶治に0-3の判定で敗れて2位に終わった。続く全日本選手権では準々決勝で金野に2-1の微妙な内容で判定勝ちすると(ちなみに、当時の全日本監督である山下泰裕はこの試合で主審を務めていたが、金野の方に旗を揚げた)、準決勝では会社の後輩であるJRAの賀持道明を横四方固で破り、決勝では日本道路公団の三谷浩一郎から掬投で一本勝ちして2年連続7度目の優勝を飾るとともに、1996年アトランタオリンピック代表に選ばれた[22]。7月のアトランタオリンピックでは、準々決勝でクバツキから先に体落で有効を取るが終了間際に双手刈で有効を取り返されるものの3-0で判定勝ちするが、準決勝でドゥイエ相手に先に内股で有効を取られるがその後はよく攻めたものの結局ポイントを取り返せず敗れ、3位決定戦ではモラーに払巻込で敗れて5位に終わった[23]。9月には全柔連に国際試合強化選手の辞退届けを提出し、現役を引退した[3]。, 柔道の特徴としては、左組み手から相手の奥襟を掴んで頭を下げさせながら、7500ccの肺活量にものを言わせてひたすら前に出て技を繰り出して相手のスタミナを消耗させ3分過ぎに仕留めることが少なくなかったことから、いわゆる「3分間柔道」と呼ばれることもあった[25][26]。但し、このスタイルには無駄な時間浪費と批判する向きも合った[17]。本人によると、自分の技は一瞬のひらめきで出てくるので得意技は特にないとのことだが、内股、小外刈、小外掛、支釣込足、体落、足車などが試合ではよく使われていた。後期になると掬い投げも多用するようになった[14][22]。また、支釣込足で相手を崩して抑込技に移行するパターンもよく見られた。支釣込足や膝車では腕挫腕固を併用するパターンもよく見られた。このような関節技を併用した投げは本来ノースコアとなるが小川の場合はスコアが与えられるケースがあった。小川雄勢がこの技を引き継ぎグランドスラム・東京2017男子100 kg超級決勝戦で小川直也が見守る中この技を出し技ありのスコアを主審が宣したがビデオ判定でルール通り技あり取り消しでノースコアとなった。寝技は抑込技が中心で、絞め技や関節技はあまり使わなかった[27]。しかしながら大きな大会で抑え込一本確実な状態の横四方固からの腕緘(V1アームロック)、肩袈裟固からの腕挫腕固[28]で勝利している。一方で学生時代に巻込技は使わないように指導されていたこともあって、巨体ながらそれを使うことはほとんどなかった[3]。相手を問わず一本勝ちで勝利することが多かった反面、外国選手との対戦で負けた場合は一本負けが少なくなかったので、受けの点ではやや不安定な面もあった[29][30]。, 柔道で世界の頂点に立った経歴から、その格闘家としてのポテンシャルの高さが期待され、アントニオ猪木と佐山聡の設立したUFOに入団した。, 1997年4月12日にプロ格闘家として必殺技の「STO(スペース・トルネード・オガワ)」をひっさげて新日本プロレスマットに立ち、デビュー戦はノンタイトルながら当時のIWGPヘビー級王者であった橋本真也にSTOからの裸絞めで勝利した。, 1か月後の5月3日新日本初の大阪ドームで行われた、同王座を賭けた再戦では、橋本から頭部へ蹴りを受け失神KO負けを喫した。この試合が唯一橋本に敗れた試合となった。, 以降スランプとなり、1997年8月10日の新日本ナゴヤドーム大会でグレート・ムタに敗れ、1998年4月4日に東京ドームで行われた、猪木引退興行「ファイナルイノキトーナメント」の対戦相手決定トーナメントではドン・フライに敗れ、猪木との対戦は叶わなかった。, 1999年1月4日、東京ドーム大会[31]における3度目の橋本戦において、自らをスランプに追い込んだ橋本に対して、セメントを小川は仕掛けた。小川は橋本が入場曲をバックに花道を入場する途中で「橋本!死ぬ気があるならあがって来いっ!」と、リング上から前代未聞の「相手の入場中にマイク挑発」を行い、試合前から不穏な雰囲気が漂った。, 試合が始まって間もなく、小川から数発のパンチを受けた橋本は、小川に不可解なレッグダイブを繰り返した。それは小川をロープ、コーナーに単に押し付け続けるもので、ブレイクを命じられても橋本は意図的に膠着状態を続けた。間に入ったレフェリーのタイガー服部を橋本が蹴りつけノーレフェリー状態になると、観客もその試合の異常を感じ始めた。小川は橋本を倒し、マウントポジションを取り、頭部を「プロレス的」ではないパンチで殴り、うつ伏せで倒れた橋本の後頭部を踏みつけ、エプロンに逃れようと転がる橋本の無防備な顔面を蹴りつけ、橋本がリング外に転落すると、その異様な展開に場内は騒然とした。橋本のセコンドについていた中西学らだけでなく、当時橋本と敵対していた小原道由までもが小川に詰め寄り、大混乱の中、試合はノーコンテスト(6分58秒)となった。, 「プロレス」を行うつもりであったにもかかわらず、小川の格闘技的なパンチに不意をつかれた橋本は、攻撃らしい攻撃を全く行えなかった。ゴングが打ち鳴らされた後、1人リングを占拠した小川は、両腕を水平に広げ走り回るパフォーマンスを見せ(当初飛行機ポーズと言われたが実際はUFOをイメージしたものであった)、「もう終わりかよ!、おいおいおいおい、冗談じゃねーぞ、オラァ!」、「新日本プロレスのファンの皆様、目を覚ましてください!」とマイクパフォーマンスを行った[32]。リング下では、セコンド同士の言い争いに端を発し乱闘が発生しており、ついには当時引退し、現場監督だった長州力が、リングサイドのカメラマンを押し退けてリングに上がり、コーナーポストに座る小川に対して「これがお前のやり方か?」と詰め寄った[32]。こうして小川は「暴走王」として一気にステータスを上げることになる。, この時の乱闘騒ぎはいわゆるアングルではなく、プロレス史上最大級のガチンコの乱闘であったとされ、リング内外に前代未聞の大混乱が発生した。また、この時の乱闘は両陣営が顔面を拳で殴打し合い、倒れた人間を集団で踏みつけるなど、通常のプロレスにおけるアングルに従った乱闘ではご法度の危険な行為の応酬となり、セコンドの村上和成は混乱の中で、飯塚高史らに集団で顔面を踏みつけられ、一時昏睡状態に陥るほどの重傷を負い、入院に追い込まれている。, 当時全日本プロレスに所属していた三沢光晴は、全日本プロレス中継内で「プロレスラーが弱く見られがちな試合だった」とコメント[32]。当時の全日本の選手が、テレビで新日本について語ることは異例中の異例であった。, 1999年10月11日、社長に就任した藤波辰爾の意向もありNWA世界ヘビー級王座を賭けての橋本再起試合が決定し、4度目の対戦(レフェリーは藤波)。橋本がキックで小川を追い込むシーンも見られたがSTOの連発で橋本はグロッキー状態に。放心状態ながらも何度も立ち上がろうとする橋本を見かね、それでも試合を続行させようとするレフェリーの藤波に代わってリングサイドで試合を見守っていたアントニオ猪木がリングに駆け込み、小川を殴り試合を止め、TKO判定により完全に勝利。この試合の模様は、ニュースステーション(テレビ朝日)で取り上げられるなど、注目された試合であった。しかしながら、同番組の格闘技ニュースの選択のしかたが世間の注目度とずれていることがあるとの意見を持つ久米宏が降板している時期の出来事だった。, 2000年1月4日タッグマッチで橋本・飯塚組と対決(パートナーは村上和成)。試合は橋本・飯塚組が勝利したが、事実上試合は小川vs橋本、村上vs飯塚の図式となって進んだ。翌日のスポーツ紙紙面は試合結果よりも、橋本が小川を場外でV1アームロックに捉えたシーンを掲載した。, 同年4月7日、橋本と東京ドームでシングル5度目の対戦。橋本はこの試合に負けたら引退すると公表していた。このドーム大会はテレビ朝日でゴールデンタイムに生中継され、番組のコピー「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退スペシャル」は大きな波紋を呼んだ。, 試合は小川が優位に試合を進めた。橋本は場外からの水面張りで奇襲を仕掛けるが、橋本がオープンフィンガーグローブを外して素手で小川にパンチを入れたことにセコンドの村上が激怒し、リング内に乱入し、その後持ち直した小川はSTO6連発で橋本をKOした。テレビ中継は平均視聴率は15.7%、瞬間最高視聴率は24%を超え、反響を呼んだ。橋本とのシングル戦は事実上4勝1敗で勝ち越した。, 橋本は、リングの魂(テレビ朝日)の企画で、復帰を願い折り鶴を送った純真な少年ファンの兄弟(米川力兄弟)の声に応え、引退宣言を撤回した。なお、試合後小川も橋本に対して「引退するかしないかは彼自身が決めること、俺が決めることじゃない。あえて言わせてもらうとすれば、引退なんかするんじゃない」とエールを送っていた。, 橋本との抗争後は、PRIDEに参戦し、ゲーリー・グッドリッジ、佐竹雅昭に勝利した。2000年12月31日、Millennium Fighting Arts INOKI BOM-BA-YEで安田忠夫とプロレスルールで対戦し、1分38秒スリーパーホールドでレフェリーストップ勝ち。安田戦直後のインタビューで小川は「もう仲間同士でやりたくないよ」と発言している。, 2001年4月18日に、宿敵だった橋本真也率いるプロレスリングZERO-ONEの旗揚げ第2戦(日本武道館)に参戦。メインイベントで三沢光晴とタッグマッチで対戦した(小川、村上vs三沢、力皇猛)。, 試合序盤では、小川は三沢を挑発するも三沢はいなし続け、試合中盤で、力皇を捕らえている時に三沢がカットに入り、エルボーを食らったのが三沢との初遭遇となった。, 食らい慣れていないエルボーの連発に倒れこんだ小川は、仕切り直してスタンド状態で三沢と対峙しミドルキックをいなされると片足にタックルを仕掛けたが、三沢はこれを堪え、がぶる事なく小川の首を上から押さえこみ、主導権を取ろうとグラウンドで動き回る小川に対し的確に背後を取るといったレスリング技術を見せた。対する小川は三沢の足を取りながら立ち上がり、がぶろうとする三沢を大腰でマットに投げ返すとそのまま押さえ込みつつマウントを奪う。小川のパンチを上から浴びせられる三沢はガードを固めマウントからは自力で脱出できないが、力皇が小川の背後から大相撲仕込みの突進を見舞いカット。試合はその後、場外へ落ちた小川を力皇が追い、二人が争ってる最中にリング上で村上が三沢のバックドロップ気味のジャーマン3連発を食らってフォール負けを喫する。, 当然暴れ足りない小川はゴングが鳴った後、リングに上がり三沢に殴りかかった。小川に対し反撃をしない三沢だったが、ノアの選手が上がってきて小川は袋叩きにされ、橋本らもリングに上ってきたが力皇らに押さえ込められ、挙句にはノア陣営全員で勝ち名乗りをされ圧倒されてしまう。これに小川はマイクを取り「数さえ揃えば勝てると思ってるんじゃねえぞこの野郎!」とマイクを投げつけたが、解説の馳浩と吉田秀彦に「負け惜しみですね」「小川は悔しくて眠れないでしょうね」と言われてしまった。, 2002年頃から猪木との方向性の違い、元々総合ではなくプロレスラー志向が強かったこともあり、主戦場をZERO-ONEのリングとし、かつての宿敵・橋本真也と「OH砲」を結成。「刈龍怒(かりゅうど)」(小川のSTOと橋本の水面蹴りを合わせた合体技)、「オレごと刈れ」(ジャーマン・スープレックスをかける橋本に相手ごとSTOをかける技)といった合体技を開発した。, 新日本への参戦時代は、ビッグマッチへのスポット参戦が中心だったことから、同時期にデビューしたレスラーに比べてプロレスのキャリア不足は否めなかったが、この頃からマイクパフォーマンスが饒舌になり、プロレスラーとして成長した。, 2004年1月から、PRIDEを主催するドリームステージエンターテインメント(DSE)と、主戦場とするZERO-ONEが共催して始まった「ハッスル」に登場。当時のZERO-ONEの掛け声であった「3、2、1、ゼロワーン!」を流用した「3、2、1、ハッスル!、ハッスル!」という掛け声とポーズが有名となり、プロ野球選手の清原和博や当時自民党幹事長であった安倍晋三もこのポーズを行っている。, ハッスル開催に先立つ2003年暮れ、1月から本格的にDSEが立ち上げるエンターテインメントプロレス(ショー的なプロレス)・ハッスルの記者会見が行われ、ある記者の「ハッスル1開催(2004年1月4日)の直前にPRIDEがあるが、それが終了した直後にハッスルが開催されることに興行的に何か影響は無いか?」という質問に対して、DSE社長の榊原信行が「PRIDEは既に何度か開催しておりますし、ハッスルに関してはプロレス(ショー)という事なんで…」とプロレスを格下扱いした回答をしたために、壇上に同席していた小川が「ゴチャゴチャ言ってんじゃねぇオラァ! 10月にはユーゴスラビアのベオグラードで開催された世界選手権に出場して、95 kg超級の決勝ではキューバのフランク・モレノを横四方固、無差別の決勝ではソ連のアカキ・キボルザリゼを上四方固でそれぞれ破り、計8試合をオール一本勝ちして圧倒的な強さで2階級制覇を達成した[12]。 TV中継放送直後の感想 これに対し激怒した橋本は「バカバカしい、俺は出場しない」と発言。, ●1998.12.25新日オフィス ところが社長である坂口征二が「ufoとは絶縁します、ufoの3月14日横浜アリーナには新日本の選手は出ないし、4月10日のウチの東京ドーム大会もufoの選手が上がることはない」と一転してufoとの対抗戦を否定してしまう。 ... 本Blogでたびたびご紹介する「プロレス」。 元柔道オリンピック メダリスト 小川直也のプロレスデビュー戦、橋本真也に裸締めで勝利。 新日本プロレスとUFO、様々な思惑が絡む中で1999年1月4日の東京ドーム大会が開催され、橋本真也と小川直也が再び対戦することになった。これまではデビューしたばかりの小川を橋本が迎え撃つ立場となっていたが、橋本は1997年8月31日の横浜アリーナ大会で佐々木健介に敗れてIWGPヘビー級王座から転落してからは、IWGPヘビー級戦線から大きく後退してしまい、また引退しても現場監督として留まる長州力と対立したことで、新日本でも扱いづらい存在になっており、対戦カードへの不満から謹慎を言い渡されてしまい、橋本は新日本や長州への不信感から来るストレスでますます練習をしなくなっていた。小川との3度目の対戦は橋本が心身共に最悪の状況の中で行われ、小川に一方的に仕掛けられた橋本は対処できず、結果は無効試合となったものの、橋本は無残に潰されてしまった。, 試合が終わってから新日本とUFO側との駆け引きが始まり、全試合終了後に長州が会見を開くと「オレは今日という今日はアントニオ猪木にブチ切れた。今日のUFOとの一件は、全てオレが対処する」と猪木に対してへの果たし状を突きつける。長州も1・4事変は新日本とUFO双方ともセコンドが駆けつけて乱闘状態となったことで、小川とUFOという美味しい素材が手に入ったと考えていた。, ところが社長である坂口征二が「UFOとは絶縁します、UFOの3月14日横浜アリーナには新日本の選手は出ないし、4月10日のウチの東京ドーム大会もUFOの選手が上がることはない」と一転してUFOとの対抗戦を否定してしまう。1・4事変を受けて橋本が選手会長を務める選手会から「UFOや猪木と縁を切ってほしい」と現場監督の長州を通さずに社長である坂口に抗議していた。選手会は橋本が選手会長を務めることで事実上牛耳っており、橋本自身が新日本に対して意向を通し、権力を振るえる場ともなっていた。坂口も選手会の意向を無視するわけにはいかず、新日本はUFOを絶縁せざる得なくなっていた。, 2月24日に猪木と坂口が会談して、猪木が1・4事変のことで坂口に謝罪する。猪木が坂口に頭を下げたのは、これまでUFOの興行は新日本がバックアップしてきたものの、新日本が撤退したことで独自で運営せざる得なくなっていたが、3月14日UFO横浜アリーナ大会のチケットが売り上げが伸び悩んでおり苦戦を強いられていたことから、猪木も「やっぱり新日本のバックアップが必要」と感じて頭を下げに来たのだ。猪木から頭を下げたことで坂口の態度も軟化したものの、選手会の決定事項は簡単に覆すことは容易でないことから、猪木に協力することは出来ず、時間を要することが必要と考え、最終的に新日本のUFOの関係は絶縁から冷却期間へと変わったことで落ち着いた。, 新日本の協力を得られなかったUFOは独自で3月14日の横浜アリーナ大会を開催、NWAと提携したことで格闘路線からアメリカンプロレス路線へ転換し、小川もダン・スバーンを破ってNWA世界ヘビー級王座を奪取したが、観客動員は6割の入りで惨敗に終わってしまう。大会終了後のパーティーでは佐山が猪木から小川をPRIDEに出場させるつもりだと明かされると、小川にMMAの練習をさせていないことから、佐山が猛反発して猪木と口論となって、佐山はUFOから撤退してしまう。佐山は元々格闘技は神聖なものと考えており、興行として行うことに抵抗を感じていた。, 橋本は新日本との契約更改は終えたものの復帰のめどが立っておらず、ジャイアント馬場死去後の全日本プロレス5月2日の東京ドーム大会で川田利明相手に復帰戦を計画されたが、オーナーだった馬場元子から丁重に断られていた。それでも永島勝司取締役は橋本の復帰戦の場を設けるために奔走し、新日本プロレス6月8日武道館大会で天龍源一郎相手に復帰戦が決定、橋本もウエートを絞るなどベストコンディションで臨もうとしていたが、橋本は練習中に右肩を脱臼してしまい、痛み止めを打って復帰戦に臨もうとした試合前に長州によって副現場責任者に就任していた越中詩郎から選手会の経費問題のことで追及されてしまう。橋本は復帰戦の前に選手会長を辞任し平田淳嗣が新会長になったが、引き継ぎの際に経費の杜撰さが明らかになっていた。試合前に越中に問題を追及された橋本はメンタル面を低下させてしまい、試合でも天龍のノド笛チョップの前にあっけなく敗れてしまった。, 新日本の状況も変わり、猪木の意向で坂口が社長から会長へと棚上げされ、社長には自身の意向が通りやすい藤波辰爾を就任させた。猪木は最初こそはvsUFOを肯定していた長州に社長就任を打診していたが、長州はジャパンプロレス時代に社長に就任したものの、代表権もないお飾り的な社長を経験していたのもあって、自分が就任しても猪木がオーナーで自身はあくまでお飾り的な立場には変わらないと考えた上で断っていた。, 新社長となった藤波は橋本と連絡を取った。藤波が橋本と直接会おうとしたのは、橋本が長州のことを嫌っていたことを充分にわかっており、藤波の尊敬する徳川家康にちなんで、押しでダメなら引いてみろ、長州の強気な態度では、橋本はますます打ち解けようとしない、柔軟な対応で橋本を口説き落とそうと考えていたのかもしれない。橋本は新日本への不信感、長州への不満が募って人間不信の陥りなかなか電話を取ろうとしなかった。それでも藤波が何度も橋本に連絡したことで、やっと橋本がファミレスで藤波と会ったが、誰にも会いたくないということで、ファミレスで待ち合わせしたのは午前1時だった。藤波はUWFがUターンした際に、誰もが対戦を嫌がった前田日明戦を一身に引き受け、何が何でもやり通した経験談を話して、小川との再戦を促す。話を終えた頃には夜明けの6時となって、返事は保留となったが、2度目に会談でやっと橋本が前向きとなって、小川との再戦を決意する。これでフロントも選手会もvsUFOも猪木や長州の思惑通りになったが、藤波が橋本を手なずけてしまったことで、橋本vs小川の主導権は長州ではなく、猪木と藤波に握られてしまった。, 10月11日東京ドーム大会で橋本vs小川の第4戦が小川の保持するNWA世界ヘビー級王座をかけて実現となったが、ローキックの連打を浴びせた小川が橋本にSTOを何度も決め、ダウンする橋本を蹴りつける。それでも立ち上がった橋本は小川の脛にローキックを浴びせ怯ませたかに見えたが、小川が再びSTOを炸裂させるとバックドロップで投げ、再びSTO、払い腰、STOで橋本を追い詰める。橋本は一旦場外へエスケープすると再びリングに上がるが、小川はミドルキック、払い腰、STOを連発する。橋本はダウンしてなお抵抗して起き上がるが、小川はナックルを浴びせて橋本はダウン、それでも立ち上がる橋本を小川が殴りつけてダウンさせるも、橋本は必死で立ち上がる。小川は橋本の頭部を何度もキックを浴びせて橋本はダウンするも、ここで立会人の猪木が乱入して小川を殴りつけて試合をストップさせ、試合が小川が勝利となり、完敗を喫した橋本は完全の追い詰められた状況となっていった。, (参考資料 宝島社「証言1・4 橋本vs小川」金沢克彦「子殺し」ベースボールマガジン社Vol.16「引退の余波」), アントニオ猪木・長州力・藤波辰爾・初代タイガーマスク・坂口征二・小川直也・橋本真也, GHCダブル前哨戦も金剛が完勝!原田がGHCジュニア王座奪取!杉浦軍最高顧問に蝶野正洋登場!, 桃&AZMがタッグリーグ優勝!第10回GODDESS OF STARDOM~タッグリーグ戦新木場、大阪大会公式戦結果, N-1 VICTORY 2019 ~NOAH NUMBER ONE PRO-WRESTLING LEAGUE~, POWER STRUGGLE ~SUPER Jr. TAG LEAGUE 2019~, PRO WRESTLING NOAH 20th ANNIVERSARY NOAH the CHRONICLE vol.2, PRO WRESTLING NOAH 20th ANNIVERSARY NOAH the CHRONICLE vol.3, Road to POWER STRUGGLE ~SUPER Jr. TAG LEAGUE 2019~, WORLD TAG LEAGUE 2020&BEST OF THE SUPER Jr.27.

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