©The Asahi Shimbun Company / VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved. また、当サイトで提供する用語解説の著作権は、(株)朝日新聞社及び(株)朝日新聞出版等の権利者に帰属します。 社会民主主義が社会主義労働運動と同義に用いられるようになったのは1860年代のドイツにおいてであった。1863年ラッサールによって最初の労働者政党たる「全ドイツ労働者協会」が創立された。 一方、社会主義統一党/民主社会党は大きく議席を減らし、「東ドイツにとどまり、この国を民主化する」事を唱えた民主化勢力も伸び悩んだ。 これにより、東ドイツは事実上独立国家としての存続を放棄し、西ドイツに主導権を預けた急進的なドイツ統一への道を進んだ。 社会民主主義(しゃかいみんしゅしゅぎ、英語: Social democracy 、ドイツ語: Sozialdemokratie 、フランス語: Social-démocratie )とは、資本主義経済のもたらす格差や貧困などを解消するために唱えられた社会主義思想で 、暴力革命とプロレタリア独裁を否定し 議会制民主主義の方法に依って議会を通して平和的・漸進的に社会主義を実現することで社会変革や労働者の利益を図る改良主義的な立場・思想・運動である 。革命・階級闘争を志向する共産主義と区別され 、政策としては議会制度の枠組みに基 … 1993年のNHKスペシャル番組「ヨーロッパピクニック計画~こうしてベルリンの壁は崩壊した~」で、シャフナザーロフはこのように語ったが、「ただ誰もこのように中立のドイツ統一は5年後か10年後のことだと考えていた。」とも語っている。. 社会主義政党として勢力を増大させ第2インターナショナルの中心となった。. [注 1]。それ以前にも、第三次シュミット内閣(1980-1982)が、チューリッヒの「偽装銀行」(Strohbank)を通じて30億から50億ドイツマルクを貸し出すかどうかを検討していた[31][32]。しかし、高額な消費財を国民に提供することは、満足にはできなかった。西側と同水準のカラーテレビや冷凍庫付き冷蔵庫、全自動洗濯機は、高かっただけでなく、長い待ち時間をも必要とした。「全自動洗濯機の納品期間は3年近くかかり、トラバントは最低でも十年近く待たなければならなかったが、トップクラスと誇れるほどの質はないままだった」[33]。, 東西ドイツ間で結ばれた特別協定は、東ドイツ指導部に対するソ連の不信を解消させることにもなった[34]。それゆえ、1987年にホーネッカーの西ドイツ訪問が初めて実現し、東ドイツの国際的承認の晴れ舞台となった。, 1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任してペレストロイカとグラスノスチで改革方針を打ち出し、ソビエト連邦内東側諸国で良好な関係にある党と国家に、国内統治に対する自由裁量を認めていた。他の東欧諸国では自由化の動きが始まったが、分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、ポーランドやハンガリーのような政治の民主化や経済の自由化は東ドイツと西ドイツとの差異を無くし、ひいては東ドイツという国家の存在意義の消滅を意味することを東ドイツの指導部は知っていたため[35]、ゴルバチョフのモデルに従うことを彼らは強く拒絶した。東ドイツの反対派はゴルバチョフの改革路線の受け入れを求めたが[36]、ホーネッカー指導部は一部の反対派を逮捕拘留して弾圧するだけであった。1987年4月にハンブルクの雑誌『シュテルン』に掲載された対談で、ペレストロイカへの見解を求められた社会主義統一党政治局員で文化科学担当書記(イデオロギー担当)クルト・ハーガー(ドイツ語版)は「わが国では、既に改革は進んでいる。隣人が壁紙を張り替えたからと言って、同じことをする必要はない」と答えた[37]。, 1988年9月、モスクワでのゴルバチョフとホーネッカーの会談ではお互いに辛辣に皮肉るほどになり、一致点が見出せないほどであった。そして11月18日、東ドイツはグラスノスチ(情報公開)を伝えるソ連の雑誌『スプートニク(ドイツ語版、ロシア語版)』に対する郵便・新聞管轄局の認可を取り消したが、これは事実上の発禁処分[38]であることを意味した。その理由を東ドイツ当局は独ソ友好関係の強化に貢献するどころか、歴史を歪曲するものと説明していた[39]。この発禁された雑誌「スプートニク」10月号は、1939年8月の独ソ不可侵条約の締結時に交わした秘密付属議定書(ロシア語版)の内容に触れており、当時のナチス・ドイツとソ連との間で「利益領域の分割」を規定したことに言及したものであった。この秘密付属議定書は当時グラスノスチ(情報公開)の動きの中で8月にモスクワで公表されたものであった。これには、東ドイツ国内の知識人の不満を一気に高めることとなり、政権内でさえこの措置に賛成する者は少数で、「ヒトラー・ファシズムに対する反ファシストの英雄的闘争を中傷するもの」という説明に、長年の社会主義統一党員からも党幹部に憤慨を募らせていた[40]。, 1989年1月20日にアメリカ大統領に就任したジョージ・ブッシュは、5月2日に世界秩序へのソ連の復帰を歓迎するとして、ソ連のペレストロイカ政策と軍縮と地域紛争からの撤退をめざす新思考外交を評価し、それまでの対ソ封じ込め政策の転換を発表した。7月にはワルシャワ条約機構がソ連の東欧への軍事介入を正当化してきたブレジネフ・ドクトリンを放棄するコミュニケを採択した[41]。, そしてこの頃、ソ連外務省は東ドイツの行く末に悲観論が強まっていた。1988年にソ連外務省は文書をまとめていた。それは「ドイツ統一」の3つのシナリオで、この後の東ドイツについて、3つの可能性について討議したものであった。第一は『共存』で、東西ドイツがこれまで通りの関係で進むことだがソ連は東ドイツが経済復興しない限り不可能と断定した。第二は『吸収』で、西ドイツが東ドイツを吸収して北大西洋条約機構(NATO)に入ることになりソ連には不利で絶対に避けたい。第三は『中立』で、西ドイツがNATOを脱退し、東ドイツがワルシャワ条約機構を脱退して中立の統一ドイツとなることでソ連にとって最善の策であるとした。翌1989年秋にゴルバチョフが東ドイツを訪問する直前に、会議の席で「諸君、我々は社会主義の友人を1つ失うことが明らかとなった。」と述べてホーネッカーを、そして東ドイツを見限ることを明らかにした。この時、ゴルバチョフの補佐官として会議に同席していたゲオルギー・シャフナザーロフは後に「このゴルバチョフの発言には誰もが賛成であった。」と語っている[注 2]。, このことは東ドイツ国民には理解されず、ますます反感を買うようになった。抗議は、主に1980年以降に成立した平和運動の中に見られる。これらの平和運動は、地域で集まった小さなグループから成り、環境の大切さと第三世界の重要性を訴えた。そのグループのいくつかには、教会の支援と説得もあった。1989年5月に行われた地方自治体選挙(ドイツ語版)の結果が改ざんされたことが明らかになると、それに対する抗議が行われ、それがSEDへの不満をいっそう明確に可視化させ、多様な公民権運動へとつながった。, SEDにとってより重大だったのは、民主化を進めていたハンガリー政府が、1989年5月2日にオーストリア国境の鉄条網の撤去に着手したことにより、「鉄のカーテン」が綻んだことであった。これを見た多くの東ドイツ市民がチェコスロバキア経由でハンガリーへ出国し、大量国外脱出が始まった。ハンガリー政府は1989年8月19日には非公式ながら東ドイツ国民のオーストリアへの出国を許可し(汎ヨーロッパ・ピクニック)、さらには9月11日には正式に東ドイツ国民にオーストリアへの出国を許可した。, これを受けて10月3日、東ドイツ政府はチェコスロバキアとの国境を閉鎖して市民の流出を止めようとしたが、国外へ逃げることができなくなった市民たちはその不満を体制批判へと転化するようになっていった[42]。定期的に開催された月曜デモで、公民権運動で改革を目指した抗議が行われた。東ベルリンで10月7日に建国40周年記念祝典が行われていたので、デモは治安部隊によって解散させられていたが、2日後に大規模抗議デモがライプツィヒで起こると、東ドイツの平和革命が爆発した。ホーネッカーはデモを武力で鎮圧しようとしたが、結局失敗した[43]。また、建国40周年記念祝典出席のために東ドイツを訪れたゴルバチョフは改革を行わないホーネッカーに対して明らかに不満気な態度を取り[44]、SEDの党内からも批判やホーネッカー下しの動きが強まり始めた。こうして、10月17日の政治局会議でホーネッカーの解任動議が可決され[45]、10月18日にホーネッカーは退任した。, 後任のエゴン・クレンツ書記長とSEDの新指導部は国民との対話を提案したが、国家と党の体制崩壊を引き止めることはできなかった。1989年11月9日の夜、SED政治局員ギュンター・シャボフスキーが西側への出国許可が「遅滞なく」下りると誤って発表すると、ベルリンの壁に市民が殺到し、壁は崩壊した(ベルリンの壁崩壊)。, 壁崩壊の直前に総辞職したヴィリー・シュトフ政権に代わって成立(11月13日)したハンス・モドロウ政権は、円卓会議で国民との対話を行い、政治の民主化、シュタージの解体を進め、12月にはSEDの国家に対する指導権を規定した憲法第1条の規定を削除した。しかし、壁が崩壊した後も出国者は1日2,000人を超え、東ドイツマルクも暴落し、元々疲弊していた東ドイツ経済は崩壊していった[46]。月曜デモの参加者のスローガンは、かつて国家権力を挑発するときに使った「我々が国民だ(ドイツ語版)!」(独: Wir sind das Volk!)から、西ドイツとの再統一を訴える「我々はひとつの国民だ(ドイツ語版)!」(独: Wir sind ein Volk!)に変わっていった。, 西ドイツのキリスト教民主同盟の支援を受けたドイツのための連立(ドイツ語版)が1990年3月18日の自由選挙で勝利すると、再統一への方針が決まった。初の自由選挙で就任したロタール・デメジエールの連立政権は、第三次ヘルムート・コール内閣からの支援を受け、西ドイツ基本法第23条に基づいて東ドイツをドイツ連邦共和国へと加盟させることを決定した。通貨・経済・社会の統合措置を1990年7月1日に施行し、8月31日には統一条約に調印、9月12日に第二次世界大戦戦勝国との2+4条約に調印したあと、東ドイツは1990年10月3日にドイツ連邦共和国へと吸収された。, ドイツ民主共和国は、典型的なソ連型社会主義による一党独裁型の政治体制を採っていた。, 国会にあたる人民議会 (Volkskammer) があり、そこから選出される国家評議会議長が国家元首であった。また内閣に相当する機関として閣僚評議会が置かれ、閣僚評議会議長が首相に当たる。ただし、「民主共和国」の名とは裏腹に、議会はおよそ民主的とは言えない選挙方法で選ばれたものであった。また国政の実権は他の社会主義国と同様支配政党であるSEDの書記長が握っており、SEDの中央委員会政治局が実質的な政策決定機関であった。, ドイツ民主共和国では、5つの政党が存在し、5つの政党で「民主ブロック(Demokratischer Block)」を形成していた。しかしドイツ社会主義統一党以外の政党は同党の指導を認めた上で存在する衛星政党で、各党の党首が国家評議会副議長となる[47]などして体制内に取り込まれており、「複数政党制」という建前を維持するための飾り物的存在であった。ヘゲモニー政党制の典型例である。, 東西ドイツ統一後、上記の政党のうちSEDは民主社会党(PDS, 現在は左翼党に)と改名して存続し、キリスト教民主同盟・民主農民党は西側のキリスト教民主同盟へ合流、ドイツ自由民主党 (LDPD)・国家民主党は西側の自由民主党 (FDP) へ合流している。, 人民議会の選挙は、予め決められた議席配分リストに対して賛成の場合はそのまま無記入で投票、反対の場合は「反対」の欄に印を書く、というものであった。無記名投票ではあったが、反対の時のみ投票ブースまで行って記入しなければいけなかったため、すぐに誰が反対したのか分かるようになっていた[48]。棄権をすると地位を失ったり当局から嫌がらせを受けるため[49]投票率は常に99%に近く、投票所では上記のように事実上監視されていたため、賛成率も99%以上であり、実質的に信任投票でしかなかった。それでも、棄権率と反対率は都市部になるほど高くなった。これは都市部では投票の相互監視が比較的薄かった為である。1981年からは棄権率、反対率は東ベルリンが最高であった(ベルリンは表向き占領国管理となっているために、相互の国会に直接議員を送ることができなかった。東ドイツは1981年よりその慣習を破って人民議会の直接選挙を行った)。, 人民議会における議席配分は常に一定され、5政党のほかに「国民戦線 (Nationale Front)」を構成する労働組合や職能団体などに配分されていた。当然社会主義統一党 (SED) が最大勢力になるように配分されている。また自由ドイツ青年団(FDJ)はSEDの下部組織であり、自由ドイツ労働総同盟などの諸団体もSEDの影響下にあった。, 1989年秋に大規模な民主化運動が発生し、ホーネッカー体制が崩壊すると、社会主義統一党は国家に対する支配性を放棄して社会主義統一党/民主社会党 (SED/PDS) と改称した。そして、1990年3月18日には東ドイツ国家史上初、かつ最後となる自由選挙が実施された。この際、西ドイツからの政治家の応援演説や資金提供が容認されたため、社会主義体制下の衛星政党からの脱却に成功したドイツキリスト教民主同盟やドイツ自由民主党の保守・中道政党は西ドイツの同系統の政党から強い支援を受けた。また、1946年に社会主義統一党へと事実上強制吸収された東側の社会民主党が元党員も加わる形で東ドイツ社会民主党(ドイツ語版)として再建され、1972年に東西ドイツ基本条約を締結して東ドイツ国民から強く信頼されていたヴィリー・ブラント元首相などが西側から支援に駆けつけた。また、民主化運動の中心勢力も同盟90など独自のグループを結成し、社会主義統一党/民主社会党などとともに選挙に臨んだ。, 選挙の事前予想では緩やかな国家統一を主張する社会民主党が優位だったが、首相でもある西ドイツのキリスト教民主同盟党首ヘルムート・コールは精力的に東ドイツ全土を遊説し、東ドイツマルクから西ドイツマルクへの交換レートなどで東ドイツ国民に配慮した公約を行った。これが成功してキリスト教民主同盟が社会民主党を抑えて第一党となり、西ドイツと同様に自由民主党の連立参加を受け、党首のロタール・デメジエールが首相に就任した。一方、社会主義統一党/民主社会党は大きく議席を減らし、「東ドイツにとどまり、この国を民主化する」事を唱えた民主化勢力も伸び悩んだ。これにより、東ドイツは事実上独立国家としての存続を放棄し、西ドイツに主導権を預けた急進的なドイツ統一への道を進んだ。, 他の東ヨーロッパの社会主義国同様、ワルシャワ条約機構に属していた。正規軍である国家人民軍の人数は約9万人で、約26万人のドイツ駐留ソ連軍の3分の1ほどに過ぎなかったが、「棍棒で鍛えられた」とも表現されるその錬度の高さはワルシャワ条約機構軍一と言われ、同軍の武器庫、弾薬庫の鍵は、叛乱を恐れ必ず在独ソ連軍の将校が管理し、叛乱に備え人民軍基地の周辺を取り囲むように数ヶ所の在独ソ連軍基地が置かれた。T-72その他の同軍の兵器はソ連仕様よりも武装や装甲が大幅にスペックダウン(モンキーモデル)されており、実際にソ連側にとっての叛乱防止の意図があったと見られている。, 「東ドイツは国土の約4分の1が在独ソ連軍の基地や演習場で占められていた」、「東ドイツ軍は約26万人(東欧革命より少し以前の陸軍のみの兵力と思われる)の在独ソ連軍に支払う思いやり予算の重圧で自然崩壊した」などの言説は、現在では西側マスコミによるプロパガンダだったというのが通説となっている。, 国家人民軍のほかの軍事組織としては、国境警備隊(国防省所属だが国家人民軍とは別組織)と、民兵組織である労働者階級戦闘団が存在した。また、国家保安省やドイツ人民警察は準軍事組織としての側面を持っていた(国家保安省はフェリックス・ジェルジンスキー衛兵連隊という部隊を保有していた)ほか、民間防衛組織として民間防衛隊があった。, 1973年に、西ドイツと同時に国際連合に加盟。なお東ドイツ政府は、自身を「ナチス政権と戦ってきたドイツ国内の反ファシズム勢力によって樹立された政権」と主張しており、第二次世界大戦によるナチス・ドイツの侵略戦争やホロコーストの責任を負う立場にないとしていた。この主張はベルリンの壁崩壊まで続いた。, 東ドイツ政府は建国当初は全ドイツを統一するという目標を持っており、東西が分断されたのは西の責任であると主張していた(西ドイツ側もドイツの唯一の正統政府を自認し、ハルシュタイン原則に基づき、東ドイツと国交を結ぶ国とは国交を結ばない方針を取っていた)。そのために、国有鉄道の名称もあえて戦前のドイツ国有鉄道の名称を継承し、西に対抗する形で「ルフトハンザドイツ航空」を設立したりしていた[50]。また、東西お互いに相手を非難するプロパガンダ放送(東側では「黒いチャンネル」、西側では「赤いレンズ」)を流し合っていた[51]。, しかし、1972年の東西ドイツ基本条約の締結による相互承認、翌年の東西ドイツの国連加盟によって東ドイツが国際的に国家承認されると一転して「ドイツ民主共和国は社会主義的民族の国であって、資本主義的民族の国家である西とは別である」という主張で二国並立状態を正当化するようになった[52]。, このように政治的には西と対立し、分断国家の固定化を進めていたが、その一方でホーネッカー政権は経済面では西との交易を進めた他、東ドイツ国民の消費生活を維持するために西ドイツから銀行保証付きの借款を受けていた。また西ドイツがローマ条約締結時に東ドイツとの貿易は「国内取引」であり、無関税・無課税であると主張したため、実質的に欧州共同体(EC)の一員と同じ条件で貿易ができるという、他の東側諸国に比べて恵まれた立場を享受することができた。東ドイツが他の社会主義国よりも経済を発展させることができた(その代わり西への債務も増大したが)のは、この側面も無視できない[53]。, 日本は1972年に東西ドイツ基本条約が成立し、東ドイツとの国交樹立への障壁(ハルシュタイン原則)が取り除かれたことから、翌1973年に正式な国交を結んだ[54](アメリカ合衆国 - 東ドイツの国交樹立はこれより三年遅く、1976年の事である)。1976年から1978年にかけて鹿島建設により東ベルリンの中心地に目を引くデザインの国際貿易センタービルが建設され日本の企業も多数入居し、1981年に国家元首エーリッヒ・ホーネッカー書記長が来日するなど、友好的な関係にあった。駐日ドイツ民主共和国大使館は東京都港区赤坂7丁目5番16号にあった。東西ドイツ再統一後は旧西ドイツ大使館がそのままドイツ大使館になった。, 東ドイツにおける女性と家族政策に関する法律は、1950年に決議された「母子保護および女性の権利に関する法律(ドイツ語版)」である。仕事と家族の両立は、東ドイツの女性にとっては、あたりまえのことと考えられており、重点的に助成されていた。1989年までに約92%の女性が職業に就いており、西ドイツの女性よりも就職率は明らかに高かった。女性の社会進出を推し進めたのは、男女同権という社会主義の考えを反映してものであったが、他方では国民が西側に大量に流出した事で労働力不足に陥ったものを補うためという側面もあった[55]。もっとも、管理職の地位についている女性の数は、明らかに男性よりも少なかった。, 女性の職業参加を促進するために、例えば託児所・保育園の大規模な拡充が行われたり、家族をもつ学生に対する特別な教育や就学プランが作られたりした。家族政策(ドイツ語版)という枠組みで、国家は、まず第一に子供のいる夫婦に対して、特殊なローンや優先的な住居の割り当てなどを行うことで、促進した。中絶問題に関しては、女性には1972年に導入された中絶法によって、最初の12週間以内での中絶が許可されるようになった。しかしそれにも関わらず、1973年から1980年のあいだに出生数は、3分の1ほど増加した[56]。, 就業による男女同権化は、日常では多くの場合、仕事と家事・家族という二つの重荷を背負わされることになった。従来通りの男性の仕事が、たんに伝統的な女性の役割に追加されただけだからである。1970年に行われた世論調査によると、平均的な週の家事時間である47時間のうち、女性が引き受けたのはそのうち37時間であり、男性は6時間、「その他」が4時間であった[57]。, 戦後の再工業化は、東西ドイツとも極めて強い環境破壊を引き起こした。その頂点を極めたのは、初めて環境政策が経済政策にとって重要であると考えられるようになった1970年代であったが、東ドイツでは環境政策は取られなかった。投資の柔軟性は欠如しており、すでに商品の生産も不充分であったため、迅速に環境保護を始めることは不可能であった。さらに東ドイツ指導部は、環境のために何かしたいと思っている積極的な市民たちを無視した。それでも1980年代には、自転車クラブなどの環境保護運動が増大した。2009年の新しい研究では、東ドイツの環境保護の状況は「破滅的」であったとされている[58]。石炭資源が不足していたため、たくさんの二酸化硫黄を排出する褐炭を利用したことで、ヨーロッパで最も高い粉塵汚染が生じた。大気汚染によって、男性の気管支炎、肺気腫、気管支喘息の死亡率は、ヨーロッパ平均よりも2倍以上であった。およそ120万人の人びとが、生活に欠かせない飲料水にありつけなかった。1989年の時点で、汚染されていない湖は1%、河川は3%であった。その時まで、下水処理場に排水できたのは、全国民のうち58%だけであった。森林の52%が「損害」を受けていると見なされた。ゴミの40%以上が、適切な方法では処理されなかった。危険ごみ(ドイツ語版)に必要な高温焼却施設は存在していなかった。環境に関する情報は、階級の敵が東ドイツの信用を落とすために利用するであろうという理由で、1970年から「機密情報」となり、1980年代には「極秘情報」となり、一般には公開されなかった。環境政策への批判は、容赦なく弾圧された[58]。, 西側諸国、とくに西ドイツからのごみの輸入は、東ドイツにとって利益をもたらすものであり、西側の客(企業、地方自治体、国家)にとっても経費節減となった。東ドイツのダンピング価格は、西ドイツで普通に運営されているゴミ処理場でかかる費用と比較して10分の1程度であった。ごみ処理代行ビジネスで獲得した外貨獲得には、貿易調整部(ドイツ語版)とシュタージが関与しており、その金額の一部は、ホーネッカーとミールケの口座にも振り込まれていたし、党幹部の居住区であるヴァンドリッツにも使われたといわれている。1980年代終わりごろにシュタージは、西ドイツだけでなく東ドイツの住民のあいだでも環境意識が高まっており、東ドイツのごみ輸入に対する批判的な態度もあったと記録している。それに対して、東ドイツで西ドイツのごみを処理する際、西ドイツの環境基準は履行されていなかった。ある種の「歴史の皮肉」と見られているのは、これらの(環境負荷をかけた)ごみ焼却場は、1990年にはドイツ連邦共和国の責任となったということだ[59]。, 東ドイツで生産されたトラバントやヴァルトブルクのような乗用車は、旧式の2ストローク機関で動き、青い排気ガスを出したが、それらは環境汚染を感じさせることになった。2ストローク機関の排気ガスは、高い炭化水素を含んでいたため、はっきりと見ることも嗅ぐこともできるものであった。ただし酸性雨やスモッグの原因となる窒素酸化物は、トラバントは同時代の4ストローク機関に比べて、10分の1しか排出しなかった[60]。, 当初は5つの州(Land)が置かれた連邦制で、旧西ドイツの連邦参議院にあたる共和国参議院(ドイツ語版)[61](Länderkammer der DDR)も存在したが、1952年以降は14の県(ドイツ語版)(Bezirk)に再編されて共和国参議院は廃止され、中央集権化が進められた。, 1952年以降の各県、郡、市区町村には、地方議会とそこから選出される地方評議会が置かれていた[62]が、各地方議会の選挙も人民議会の選挙同様に統一名簿への賛否を問うものでしかなく[63]、国政の実権がドイツ社会主義統一党中央委員会の政治局・書記局にあったのと同様、地方においても社会主義統一党の地区委員会(地方支部)が実権を有していた。, 統一を目前にした1990年7月23日に人民議会が採択した「州再設置法(ドイツ語版)」によって州の復活が決定し、以下の5州が復活した。この5州を新連邦州(Neue Bundesländer)、新5州、東ドイツ5州という。名称は以前の州と同じだが、州界は微妙に異なる。, この5州は、ドイツ基本法(西ドイツ・現在のドイツの憲法に相当する法)23条に基づいてドイツ連邦共和国に加入した。, 東ベルリンは、事実上の東ドイツ領だったが、国際法的には連合国軍4か国(イギリス、アメリカ、フランス、ソ連)占領地ベルリンのソ連管理地域で、厳密には東ドイツ領ではなかった。そのため、県も州も置かれていなかった。, ドイツ統一に伴い、4か国はベルリンの統治を終了し、ベルリンをドイツに返還した。東ベルリンはドイツ基本法23条に基づいて、西ベルリンを事実上統治していたベルリン州に編入された。, 上述のように、東ドイツは東側の社会主義国の中では最も高い経済成長を達成していた。東ドイツはルール工業地帯を擁する西ドイツに比べると経済基盤は弱く、しかもソ連が賠償と称して、多くの工場の機材や施設を持ち去ってしまった状態からのスタートを余儀なくされながらも1960-70年代には3%程度の平均成長率を保ち、世界でも15位以内に入る工業国となり、一人あたりの国民所得では社会主義国で第一位となった。食料自給率も高く、1980年代には一人あたりの肉の消費量も東側陣営では最も多くなっていた[64]。1980年代までには冷蔵庫やテレビといった家電製品も普及していた[65]。

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